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イエスなる人は神なるキリストであるか?
- イエスなる人は神なるキリストであるという命題について、その合理性や信仰の問題を考える。
- 信仰の自由や個人の信仰については別問題であり、イエスなる人の存在や神としての性質については明確な見解が必要である。
- また、イエスなる人をどのように教育するかも重要であり、教科書や説明を通して子どもたちに理解させる必要がある。
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えーとどうも久しぶり。 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。 と言うよりも結局は「十字架にかかって3日目に蘇った」 と言う支持者が多いから 許す許さないではなくそのような考え方が キリスト教では常識になっているからでしょう。 子供達にと言うか日曜学校に来る子には そのように伝えますが 他の人にはそのようなものだと言うぐらいに 留めておきますね。 最近は信仰とは理屈だけでは限界があるのだろう と思える時がしばしばありますね。
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《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされない。 子供たちには、イエスなる人は神なるキリストとは言えないと説明する。 なぜなら、《イエス・キリストは 人間であって 神ではない》を貫徹するからです。 >やっと弟子たちにも イエスは何者であったかが分かった。だから生前の姿は《神の背面》であったと。 このギリギリのところを伝えていくというのが子供達への義務です。
お礼
つづきましてですね。 後半は 了解しました。賛成します。と質問者の見方もまじえて突き合わせるようにしてお応えしてまいりますが。 ただしですね もし ★☆ だから〔イエスの〕生前の姿は《神の背面》であったと。 ☆ という説を取りますと イエスはやはり 一面としてその見えているままの人間であり もう一面として生前では分からなかったがかれが去って行ったあと分かったこととして 想定として 神であったとなるんです。 人に分かるか分からないかの違いがありますが それを別とすれば やはり一つの見方として (α) イエスは人間であるが キリストと呼ばれるようになった神である。 ☆ という命題に行き着くのです。 ですから こちらの非科学的な見方をまじえた説をそのまま説明するか それとも そういう非合理なことは子どもたちには伝えることは避けて 何も触れないか。前者のばあい そこに《イエスはあくまで人間であった。神ではない》という説があるということを添えてもいいでしょうけれど。 ★ このギリギリのところ ☆ というのは いいですよね。 その箇所全体を引いておきます。 ◆ (出エジプト記33:20-23) ~~~~~~~~ 見よ 私の傍らに一つの場所がある。 私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう。 私はあなたを岩の頂上に置こう。 私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。 私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。 私の顔はあなたに現われないであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どこかで聞いたような気もして来ますが お見それ致しました。さすがに知見が広いですね。パクってきたのは涼宮ハルヒの憂鬱です。 (ε) 神の子である救世主(キリスト)として 神の子は神ではありません。人間から見るとイエスは神の様に見えるだけでしょうね。 本人に聞いても 私は神ではない と言うのではありませんか。 ▼ (ヰキぺ:三位一体) ~~~~~~~~~~~ ここでもイエス・キリストは唯一の神の一部ですね。人間から見た神の全体像かと思います。 イエス・キリストを単独で神とは言えません。 ☆ 神は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語った。とあるのは なぜか。どういうことか。 これは神と直接顔と顔を合わせて話しができる人間にしか解らないことです。 残念ながら私には、この能力はありません。 この例以外に、世には、神と対話する方々がおられます。私は否定しません。 この話に限らず、この類を狂気の沙汰にしてしまうと、自ら自分の精神に枠を作ってしまうことになるからです。 一方では、これをなぞとして追求してもあまり意味はなくて、精神の枠を拡張するための仕掛けのようにも思いますね。 そういうことだから、信じる信じないよりも、とりあえず乗ってしまわないと扉は開かないと思う次第です。
お礼
地勢ペンさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 問いの狙いを捉えておられないようです。 ★ ~~~~~~~~~~~ 神の子は神ではありません。人間から見るとイエスは神の様に見えるだけでしょうね。 本人に聞いても 私は神ではない と言うのではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり《イエス・キリストは 人間であって 神ではない》という説については問うていないのです。むろんそういう見方を持つことは自由です。その自由をどうこう言っているのでもありません。 ひとえに《イエスは人間であり キリストと呼ばれるようになった神の子でありみづからも神である》という説について どう扱うかを問うています。 ▼ (ヰキぺ:ニカイア・コンスタンティノポリス信条) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9%E4%BF%A1%E6%9D%A1 わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。 主は神のひとり子、 すべてに先立って父より生まれ、 神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、 造られることなく生まれ、父と一体。 すべては主によって造られました。 主は、わたしたち人類のため、 わたしたちの救いのために天からくだり、 聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、 人となられました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん学校でも この説を無視しないで取り上げるものと思います。教科書に触れていないとすれば それは 無視したのではなく 細かいところを省いたのだと考えます。いづれにしても 取り上げなければならないものと思われます。(仮りに日本人の特徴であるあいまいの美学にしたがって 触れるとも触れないとも分からないかたちにしておくのだとしても 哲学が黙っていられるわけがありません)。 ★ イエス・キリストを単独で神とは言えません。 ☆ こういう見方もありますが それはいま扱っていません。神であると唱える説についてのみ問うています。というふうに捉えていただくとありがたいです。 ★ 涼宮ハルヒの憂鬱 ☆ まんが(アニメ?)なのだろうと思う程度で まったく知りません。わたしが聞いたことがあるように思ったのは たぶん想像力をはたらかせば そういう見方が得られるであろうと思ったからです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 神は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語った。とあるのは なぜか。どういうことか。 これは神と直接顔と顔を合わせて話しができる人間にしか解らないことです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 一つの主題になると思ったので掲げましたが いまわたしの持っている結論は そのとき添えた引用箇所のほうにあります。 ◆ (出エジプト記33:20-23) ~~~~~~~~ あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはないからである。 私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。 私の顔はあなたに現われないであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち あなたの見解と同じです。 ★★(回答No.4) 神と人間の直接対話は不可能。 ☆ 《神の背面を見るであろう》とは言われています。これは モーセの場合(つまり人間一般の場合)とそしてイエスの場合とのふたつの論拠があります。 モーセにかんしては そのとき《顔と顔を合わせて語る》ように現われた神は その背面であろうと思われるからです。何らかの《しるし》をつうじて語り合ったということではないかと。そのゆえにこそモーセはなおも ◆ (出エジプト記33:18) 「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言う ☆ 場面があるからです。何らかのしるしをつうじて《顔と顔を合わせて語る》という事態が起きた。さらにその顔を示してくださいと言うかのように《あなたの栄光をお示しください》と言っていると思われるからです。 もうひとつ イエスの場合には 十字架上に去ったあと――復活の姿を示したと書かれていますが――やっと弟子たちにも イエスは何者であったかが分かった。だから生前の姿は《神の背面》であったと。
神がイエスという人間になって地上に生まれた。 「ロゴスは肉体となり」という信仰の表現ではないですか。 表現の自由は許されています。
お礼
エンテレケイアさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ですから ★ 「ロゴスは肉体となり」 ☆ の受け取り方です。 ★ 表現の自由は許されています。 ☆ もちろんです。信教・良心の自由とともに ひとの生得の自由です。そんなことは訊いていません。 少数派の解釈では イエスはあくまで・どこまでも人間であるとする。つまり神ではないをつらぬく。――おそらくこの場合は 教科書での記述も簡単で問題もないでしょう。 ところが 人間であるイエスが 神であったと言っているなら どうするか。言いかえると 表現の自由として そういうふうに言っている解釈もあるのだで済ませるか? ちなみに ここでの《肉》は 《肉体》だけを言うのではなく 《身体および精神》としての人間の存在を言います。そして《ロゴス》は 初めから 神のもとにあり神であったと記されていますし そのあと《神の独り子》であるとも書かれています。このロゴスが肉となったというその肉は ナザレのイエスであり このイエスは キリストと呼ばれるようになったのですから (α) 人間であるイエスは 神なるキリストである。 ☆ という命題が明らかに唱えられています。 これの扱い方を問うています。 ですから 非科学的であるともはっきり言ってつたえる。これが ひとつの方法であり いまの段階でいちばんよいのかなと思っております。 ただ 現人神の場合には説明がないのではないでしょうか? 説明はないし しない。そういう場合には どうなるのでしょう? もうそれは 過去の問題であるのか。 こういったところです。
わたしは近所の子供たちにこう説明していますよ。 キリスト教は狂気の発現である、と。
お礼
エンテレケイアさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ キリスト教は狂気の発現である、と。 ☆ 《狂気》の定義 もしくは 他人を狂気と見なすという・特に社会的な傾向 これらにはそれぞれ問題があると考えます。ですが その問題はいまは措いておいて ★ キリスト教 ☆ という言葉ひとつを取っても その内容は じつは定まりません。 ま 大きくは 個人の信仰とそして組織的に教義を掲げて行動する宗教としてのクリスチアニズムとに二分されるでしょう。 そうして 西欧の歴史および大航海時代からあとの世界史においてきわめて不合理かつ不条理きわまる行動を取ってきたローマ教会を初めとするいわゆるキリスト教 これについては じつはいまここで扱いません。 (α) イエスは 完全な(ふつうの)人間であり 完全に神であった。 ☆ という命題のみの取り扱いを尋ねています。 子どもたちが たとえば次のような質問をしてきたら どう答えますか? (1) 信仰って どういうこと? (2) 宗教とは なに? (3) 神っていったい何? (4) ・・・ ☆ たとえば この世を超えた領域 つまり非経験の世界 これは無いと言い切れるのか? おそらく有ると言いきれないと同時に 無いとも言いきれない。のではないでしょうか? 有るということを――つまり要するに 非経験かつ非思考の場に神が有ると想定するその神を―― 人びとに対して押しつけることは 非人道的であり狂気になります。ところが その神は無いと言いきって その無神論を人びとに押しつけること これも 同じように非人道的ふるまいかつ狂気の沙汰ということになるのではないでしょうか? ですから 信教・良心の自由が 論証しえなくても人に生得のものとしてだから公理として 与えられているし 認められなくてはならないわけです。 このような個人の信仰 これについては じつはいまは問わないのです。 そうではなく上の(α)の命題 これを学校でどのようにおしえるのか。この点が気になったのです。そしてその問題は ちょうど裏返すかのようにして 現人神の問題でもあるのではないか。こういう趣旨になっています。 このやり取りを経て来て やはり考えることもない。それは そのまま《想定》どおりにつたえるしかないではないか。とも考えるようになってはいます。非科学的であるとはっきり言うということです。 いまこういうところです。どうでしょう?
神と人間の直接対話は不可能。つまり、人間が光学的手段、音響学的手段等で神を特定することはできないということ。 また、神が全知全能としても神と人間が言語で直接対話した客観的事例はない。 イエスの存在は、神と人間の中間に位置して、神はイエスを通してコミュニケートできるし、人間はイエスを通してその話を聞くことができる。--------------ということになっている? そうすると、イエスは、神-人間間の特殊インターフェイスなのであって、神側から見るとイエスは神自身であろうはずはない。 しかし、人間から見るとイエスは神の一部である。疑いようがなくそのように見えるだけである。
お礼
地勢ペンさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ イエスは、神-人間間の特殊インターフェイスなのであって、神側から見るとイエスは神自身であろうはずはない。 しかし、人間から見るとイエスは神の一部である。疑いようがなくそのように見えるだけである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どこかで聞いたような気もして来ますが こういう説はたぶん初めてです。でも 確実に大枠は イエスは神性を帯びた人間ではあるが それだけであって 《神の独り子でもなく 神ではない》という非アタナシウス派の説ではあると思います。 それでしたら たぶん学校でおしえるときに不都合はないと考えます。一般に《偉人》でくくればいいわけですから。 ここで問題としているのは イエスが人間でありかつ神であるという説についてです。 ▼ (ヰキぺ:イエス・キリスト) ~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88 キリスト教においては、東方諸教会、正教会、カトリック、聖公会、およびプロテスタントの多くにおいて (δ) 三位一体の教義の元に、 (ε) 神の子である救世主(キリスト)として (非ε)(一部の宗派では、単性論と通称される、神としての属性のみを強調する立場で) (ζ) 信仰の対象となっており、 (ζ′-?) 他の教派でも最高の預言者、開祖とされている。 ▼ (ヰキぺ:三位一体) ~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93 キリスト教で、父と子と聖霊が一体(唯一の神)であるとする教理。キリスト教の中心的教義・教理の1つ。 「父なる神」と 「ロゴス (λογος) である子なるイエス・キリスト」と 「聖霊」の3つが、 ・ 皆 尊さが等しく、 ・ 神は 固有の三つの位格(自立存在: 希 υποστασις (hypostasis), 羅 persona)でありながら、 実体(希 ουσια (ousia), 羅 substantia)は同一である という意味。 聖霊について、正教会に属する日本ハリストス正教会では「聖霊」ではなく、「聖神(せいしん)」を訳語として採用している。 これら3つの位格はしばしば簡潔に父と子と聖霊(聖神)と言い表される。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 神と人間の直接対話は不可能。 ☆ これは そのとおりだと受け取っています。たとえばこの主題については 関連していますので 簡単に触れておきたいと思います。問題提起のようなかたちのみです。 そうは言うけれども 神は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語った。 (出エジプト記 33:11) とあるのは なぜか。どういうことか。と問われるからです。そのあとには また 別様にと思われるほどに 次のように語ったともあります。 あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはないからである。 私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。 私の顔はあなたに現われないであろう。 (出エジプト記33:20-23) ☆ このなぞをもって 終えます。
- nacam
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>《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。 許されません。 カトリックやプロテスタントにおいて、三位一体を、「父なる神、子なるキリスト、そして聖霊は一体である」と定義しています。 つまり、「紙とキリストと聖霊は、見え方が異なるだけで、実態は同一」ということです。 ですから、「イエスなる人」は存在しません。 「イエスなる者は、神なるキリストである」であれば、問題ありません。 正教会や単性派においては、三位一体の考え方が異なります。 「父なる神、子なる人、そして聖霊の使命を持った存在がキリストである」とします。 こちらでは、キリストは、あくまで神性を帯びた人間であり、神ではありません。 そのため、「イエスなる人は、神性を持ったキリストである」が正しくなります。 よって、カトリックの解釈も、正教会での解釈でも、「イエスなる人は神なるキリストである」は、否定されます。
お礼
ナカムさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 長年のよしみで ずばり応答してまいりますが たぶん表現のあやだけの違いではないでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (β‐1) 「イエスなる者は、神なるキリストである」であれば、問題ありません。 (β‐2) 「イエスなる人は、神性を持ったキリストである」が正しくなります。 よって、 (γ) カトリックの解釈も、正教会での解釈でも、「イエスなる人は神なるキリストである」は、否定されます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これらの互いの違いは 表現のあやだけではないですか? (α‐1) イエスなる人は そのまま完全にふつうの人間であると同時に 神なるキリストである。 ☆ こういう含みを持つと言えると思うのですが どうでしょう? つまり (β)の意味あいになります。つまり 人間の貌(かお)と神の貌とをも同時に――現実のその人間という存在において――持つと。 ちなみにだから 母のマリアは 夫ヨセフとのあいだに人間としてのイエスという子を産んだという事実が そのまま同時に 神の子であり神であるキリストを生んだという想定にもとづき 聖霊によって処女のままで懐胎したとうわさされるようになった。 つまり イエスにおける人間と神(聖霊と言ったほうが分かりやすいでしょうか)との二つの貌が 母にもその存在の二つの側面として見られることへと及んでいる。ぎゃくに言うと 聖母マリアというのは ただそれだけのことに過ぎないと。 〔イエスという人が 同時に神であるというとき その神は 聖霊として捉えると分かりやすいかも知れませんね。子の父も 父の子も そして二人から発出する聖霊も みな互いに等しく 子は取りも直さず聖霊でもあるからです〕。 ★ 正教会や単性派においては、三位一体の考え方が異なります。 ☆ これらは 問いません。おおむね経験合理性を逸脱しない範囲での解釈に落ち着いているからです。 どうでしょう? 学校でどう伝えるか? これをめぐって尋ねているのですが もしそうだとすれば きちんと――想定上の――神学をそのまま伝えて説明するしかないですかね。その場合もし天皇が現人神だという説については おそらく神学も説明もないと思われるので 困ったことになるかも分かりません。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。 「現人神」については標準的日本人は無意識あるいは意識的に認めていることですね。 巷にある神社のいくつかは「存在した人間」を神として祭っていますし、それを自然に受け入れていますよね。中華街には孔子廟がありますし、寺院は釈迦如来、教会はキリスト、天皇も現人神と認定する人もいますね。イエスは西洋の神として同じように現人神として認定できますね。 個人的に「神」をどのように解釈するかは個人の自由ですので問題はないと思いますが、日本人には「やおろずの神」という思想があり、それにより違和感なく受け止めているのかもしれませんね。 個人的に答えれば、「イエスなる人は神なるキリストである。」は霊的にも正しい表現ですね。神(救世主界の大霊)もたまには生まれてきて肉体生命を持つ(人間として生きる)というのが事実で、正しいことですからね。ナザレのイエスは確かに存在していたし、救世主(メシア:キリスト)であったことも事実ですから正しいことは正しいというのが智慧ある哲学者ですしね。
お礼
エムエムケイワイさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 もし――個人の信仰内面の自由という前提を別として――平たく言えば 必ずしも常識ではなくても 人びとの通念として認められている。ゆえに ゆるされる。――こういったご見解でしょうか。 慣習が慣習法として法の淵源とされうるように ならわしも有効だとみなされる余地がある。――こうでしょうか? どうでしょうか。たぶんそれは あくまで《信教・良心の自由》にもとづく個人内面のこととして扱う場合ではないでしょうか? 一般常識は 《神は人ではない。 / 人間は神ではない》を合理的な考え方としているのではありませんか? あるいはもう少し細かく詳しく見てみましょう。 ★ 中華街には孔子廟がありますし、寺院は釈迦如来、教会はキリスト、天皇も現人神と認定する人もいますね。 / ・・・日本人には「やおろずの神」という思想があり、それにより違和感なく受け止めているのかもしれませんね。 ☆ これらの事例は 互いにひとしい神格ではないと言わねばなりません。 孔子は 人間としてすぐれた能力を持つとされ 神格に近いと見なされた。だけではないでしょうか。《神が人となった》たぐいではないと思われます。 釈迦は あくまで無神論ですね。つまり確かに《無神》という神なのですが 諸法無我ゆえに ブラフマンのごとき主宰神ではないでしょう。つまり 神がゴータマという人間になったとは見なされていないはずです。つまりは 人間の中のひとりであるはずです。 キリストは後回しにして ★ 天皇も現人神と認定する人もいますね。 ☆ これは どうでしょう? 主宰神でしょうか? タカミムスヒの神(一般にアメノミナカヌシのほうが脚光を浴びているが 同じでしょう)の系統を別にすることを条件にして タカマノハラの主宰神は アマテラスで 天皇はその子孫の後裔ですから その限りで《神が人となった》明きつ神ではありますが どうでしょう? つまり ★ やほよろづ(八百万)の神々という思想 ☆ におさまることではないでしょうか? つまり 明治天皇以来 特に昭和天皇が現人神であると言われたことは そういう思想としての通念によることだと考えられます。もし このあとで吟味しようとしているキリスト・イエスの場合と同じく《神が人となった》たぐいの事例だとすれば それは 一般にはあくまでそう言われた通りの内容を信じる振りをしていたということではないでしょうか? ぎゃくに言って もし額面どおりの現人神を説くのであれば キリストの場合のその仮説をも同じように認めなければなりません。 すなわち ★ 個人的に答えれば、「イエスなる人は神なるキリストである。」は霊的にも正しい表現ですね。 ☆ この命題を 学校でどうつたえるか。ここに問い求めの焦点があります。聖書を受け取り 人間の言葉として解釈・説明したその系譜においては (α) イエスは 完全な(ふつうの)人間であり 完全に神であった。 ☆ とされています。これと照らし合わせた上では 《天皇は現人神である》という命題は どう解釈されるでしょうか? そうして教科書でどう子どもたちに伝えるのがよいでしょうか? こう問い求めています。 つまり (α)の命題は 経験科学の目からすれば 明らかに非科学的です。妥当性があるかないか分かりません。経験合理性によって論証することは無理です。教科書での扱いは どうしましょう?
- aokii
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《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされません。神は人ではないからです。
お礼
青木イさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。そうしますと お聞きしたいのは 次の二つのことがらです。 (1) 学校の教科書でどう扱うかです。 ★ 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされません。 ☆ 一般の常識では ゆるされないが 個人の信仰においてはありうるし 自由である。つまり 個人の内面においてはゆるされている。となると どうして一般にはゆるされないのか? (2) それは ★ 神は人ではないからです。 ☆ としますと どうなりましょう。一般にゆるされないことが 信仰においては説かれている。すなわち 《神が人となった。 / 人であり同時に神である》そういう人が存在するという《ゆるされないこと》が説かれている。 すなわち この命題の事例は ひとつにイエス・キリストの場合と いわゆる現人神の場合だと思われますが このことについての説明を 先の問いに戻って 学校の教科書ではどうつたえるか。これです。 どうなりましょう?
お礼
ヘイボーイさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 結局は「十字架にかかって3日目に蘇った」 / と言う支持者が多いから ☆ ええ。なるほど。こちらのほうが 説明に苦労しますね。苦労するというよりは これについては――わたしの聞いているところによれば 《将来することとして臨むのがただしい》ということですから―― 説明するすべがないと思われます。 ただ三位一体と神の受肉については ひととおりの説明がありますから――子どもたちの理解力に応じて―― それをつたえるほかないでしょうね。 つまりその上でけっきょくは ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 子供達にと言うか日曜学校に来る子には そのように伝えますが 他の人にはそのようなものだと言うぐらいに 留めておきますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ やはり一般の子どもたち・つまり学校での説明が 問題になるかとも思います。それがととのえば 一般の人びとにはそれにもとづけばよいわけですから。 ★ 最近は信仰とは理屈だけでは限界があるのだろう / と思える時がしばしばありますね。 ☆ の問題ですね まさに。仲間のあいだよりは 一般の人びととの対話のほうが大事だと思います。 まぁ どうなんでしょう? 現人神のことも取り上げていますが どうも最後のところでは みなさんいまひとつピリッとした味は出しがたいでしょうかねぇ。 もう少し開けています。