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大津皇子の最期
百伝ふ磐余の池に・・・・ の時のことです。 見る書物、見る書物、「死を賜った」という表現が出てまいりますが、 絶命した原因というか手段は他殺ですか?それとも自殺ですか? 言葉が悪かったです。 江戸時代的にいえば、縛り首しょうか?切腹でしょうか? 処刑の手段を教えてください。
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出典といいましても、かつて読んだいろいろな本で、以前から王族刑死の状況について書かれている記述によると、自死が基本であるという暗黙の約束事(?)がありそうだと考えていましたので、大津皇子について幾つか当りましたところ、自死という記述が2~3見られましたのでそのようだと書かせていただきました 傍証として、連座者中に伊吉連博徳、大舎人中臣臣麻呂、巨勢多益須等が見られる事から、ちゃんと手順を踏んだ刑死であり、慌ただしく大津皇子のみを弑したという事ではなさそうである事もあげられると思います 蛇足ながら、ご承知の通り文献には「シヲタマフ」としか記されておりませんので、以上は全て後世の研究者の仮説であり、今後何か新しい発見により変わってゆく可能性もあるという事を付け加えさせていただきます
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- bumin
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回答No.1
自死のようですね 当時、王族が捕縛の上刑死させられるときは洋の東西を問わず自死が標準だったそうです やんごとなき方(神様並)に手を掛けるという事を忌んだためと思われます ちなみに 当時、従6位以上の身分の人には、死という語は通常用いず、刑死の場合のみ使われたとか…
質問者
お礼
はやばやと回答していただき、ありがとうございます。 失礼ないい方になるかも知れませんが、正しい答えをいただけたと思います。 できましたら、出典を教えていただけませんか? よろしくお願いいたします。
お礼
連日に渡りありがとうございます。 大変勉強になりました。 またよろしくお願いします。