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切腹の場の絵|江戸時代末期の切腹の様子を描いたリアルなイラスト
- 「切腹」のウィキペディアには、江戸時代末期の切腹の場の絵が掲載されています。
- この絵は、フレンチアーティストL.クレポンによって制作され、日本画を原作としています。
- 実際にこのような場所で、このような形式で行われた切腹はあったのでしょうか。絵師の想像にしてはできすぎていると思います。
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>実際にこのような場所で、このような形式で行われた切腹はあったのでしょうか。 おそらく絵の元ネタは、天保11年(1840年)上州沼田藩士「工藤行広」の『自刃録』だと思われます。 ただ、この書自体が幕末の武士道が地に落ちた時に、武士の最後はかく有るべきだとの理想を記した物なので、この記載通りであった可能性は低いかと思います。 (幕末には牢屋内で執行と言う、切腹者の名誉を無視した事例が多発していましたので…。) ⇒罪人の為、屋外に屋根付きの場所を作り、仰々しい鳥居型の門まで作ると言うのは、考えにくい。 赤穂浪士の大石内蔵助らの切腹は、Wikiに有る画像が実際[現在残る各種資料]に近いと思います。 (畳を3枚敷いて[庭先での執行では最上級の待遇]、視界を正面のみとする為、天幕を張る。切腹者は浅黄色の裃を着る等、江戸時代の常識を踏まえている。) ⇒まあ、恐らくこの絵も「現在残る各種資料」を基に江戸時代後期に記載された物でしょうが…。 ただ、実際の執行には切腹を命じた側が送り付ける目付役の意向に沿う形で行われます。 大名である浅野内匠頭は、通例だと預かり人の邸宅内で切腹するのですが、将軍・徳川綱吉の顔に泥を塗る様な真似をしたので、庭に引いた筵(むしろ)の上で切腹させられたとも言います。 ⇒大石内蔵助より扱いが悪い…。
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- Nakay702
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質問者からのお礼をありがとうございました。 >「南会所大広庭にて、三文字割腹の法を用いて・・」切腹したことは記録にあるようですが、この絵のような”仮屋”を建てたという記録はあるのでしょうか。 ⇒武市瑞山と言えば、一介の地方藩士のことですから、正直、この絵のような仮屋を建てたとは考えにくいですね。仰せのとおり、この点が私説の最も弱いところです。そう考えると、回答No.2さんの沼田藩士・工藤行広の『自刃録』所収の絵とするお説が最も有力と言えるかも知れません。これが著された天保11(1840)年は、徳川幕府崩壊の30年前で、「武士道が地に落ちていたことを嘆いて書いた切腹マニュアル」であると、先に添付してくださったサイトにありましたね。(その意味では、これを外部に拡散して欲しいとは著者本人は豪も望まなかったことでしょうね。) >この絵の説明(wiki「切腹」の出典2)では、切腹者はDaimioで、切腹を命じたのはTycoon、そして2名の検死人が立ち会ったとあります。 結局、切腹者は誰なのか、謎のままです。 ⇒情報ありがとうございました。こういう細かいことは何も分からないまま、独断と偏見で勝手な推測をしていました。ただ、当のイラストを描いた人の心理を考えると、「なるべく新しい絵をモデルとしたい。実際に死刑執行の現場を見聞して描き、説明したものだと確信できる文献を参照したい」と思っていたに違いないと、そう考えた次第です。 ということで、最終的に本件の問題は、「…の可能性がある」とか「…かもしれない」止まりの結論しか出そうもありませんが、謎解きの醍醐味満点で、大いに楽しませていただきました。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 4名の回答者様のおかげで切腹のことのみならず、武市半平太、間光風、工藤行広など 私の薄っぺらい幕末の知識では思いつかない人々の活躍を知ることができました。 「…の可能性がある」という結論で十分満足です。 質問した甲斐がありました。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10004/12513)
以下のとおりお答えします。 >実際にこのような場所で、このような形式で行われた切腹はあったのでしょうか。 つまり、この絵は、誰の切腹を描いたものでしょうか。 ⇒絵に見られるような形式で行われた切腹は十分あり得ただろうと思います。では、そのモデルは誰かとのことですが、私の調べた範囲では、誰の切腹を描いたものかは分かりませんでした。しかし、私はこのイラストが描かれたとされる1867年の直前に行われた切腹の場面がモデルになったと考えるのが自然な推測に違いないと思いました。つまり、それは、添付してくださったwikiの説明にもあるように、その1867年に直近する時代に切腹を命じられた武市瑞山(たけちずいざん)、通称武市半平太(たけちはんぺいた)の切腹場面が有力な候補とみなされることになります。 その武市瑞山は、《土佐藩郷士(武市正恒)の長男で、板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたる。優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主山内容堂によって投獄される。獄中闘争を経て切腹を命じられて、1865年に切腹し、土佐勤王党は壊滅した》とのことです。 ちなみに補足しますと、1873年に死刑執行方法としての切腹が廃止になりますが、自然な成り行きとして廃止の前に実際の場面を記録しておきたい、という意図が働いた可能性もあると思います。なお、詳細は、「https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%82%E7%91%9E%E5%B1%B1」をご覧ください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、武市瑞山(通称武市半平太)の切腹場面かも、と推測できますね。 「南会所大広庭にて、三文字割腹の法を用いて・・」切腹したことは記録にあるようですが、この絵のような”仮屋”を建てたという記録はあるのでしょうか。 この絵の説明(wiki「切腹」の出典2)では、切腹者はDaimioで、切腹を命じたのはTycoon、そして2名の検死人が立ち会ったとあります。 結局、切腹者は誰なのか、謎のままです。
- oska2
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>実際にこのような場所で、このような形式で行われた切腹はあったのでしょうか。 不思議に思うのも当然ですが、幕末に存在しました。 >この絵は、誰の切腹を描いたものでしょうか。 詳しい内容は、ど忘れしましたが・・・。 尊王攘夷の過激な武士の切腹です。 日本に来ていた、イギリス・オランダなど外国人を襲撃し死傷者を出したのです。 列強各国は「責任者の処分」を幕府に強く要請しました。 そこで、幕府としては「犯人の切腹」を申し渡した訳です。 「切腹?ハラキリ?一生に一度は見たいもんじゃ」 その時の場面でしよう。 犯人の3名が、切腹しています。 が、二人目の切腹が始まる前に「外国高官は、気分が悪くなり」退席。 ※当然ですよね。腹を切った後で内臓を自ら取り出し、首を討たれる姿を直接目の前で見るのですからね。 尊王攘夷関係でない場合は、阿波藩の稲田騒動責任者の切腹かも? 余談ですが・・・。 赤穂浪士は、一人だけ本当の切腹をしています。 大石内蔵助・主税親子も、扇子で腹を抑えた形式的な切腹で介錯となっています。 じゃ、本当の切腹をしたのは誰? 間光風(新六)さんです。^^;
お礼
ご回答ありがとうございます。 赤穂浪士の中で間光風だけが本物の切腹をしていたとは知りませんでした。 質問するとこのような事実を教えてもらえる喜びがあります。 ところでこの絵は、誰の切腹を描いたものなのか、全く分からなくなってきました。 外国人が「切腹」を初めて見たのは、記録上は1868年1月の神戸事件の岡山藩士滝善三郎の切腹で、作法に則り見事な「ハラキリ」だったそうです。 Wikiの絵は、1867年出版の本に載っていますから。
- gunsin
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>実際にこのような場所で、このような形式で行われた切腹はあったのでしょうか。 赤穂浪士の面々は、絵図の様な形で執り行われたとされてます。 本来なら、赤穂浪士は集団で一人の年寄りを殺した犯罪者なので、 斬首刑になるのですが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 赤穂浪士46人は、4家に分かれて預けられていましたから、それぞれ預かり先の大名家の庭でこんな風にして切腹したのですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 この絵の最大の疑問は、屋外に屋根付きの大きな仮屋を建て、仰々しい鳥居型の門まで作っているという点でした。 沼田藩士「工藤行広」の『自刃録』で検索すると、切腹場の説明がありました。 「古法では、切腹人が一万石以上またはこれに相当する高位の者の場合は六間四方、平士の場合は二間四方に竹矢来をめぐらし、南北に門を二つ設ける。南を修行門と言い、北を涅槃門と言う。中央に白縁の畳を二畳、竪横に敷いた。竪の畳は切腹人用で、それに白絹六尺を敷く。竹矢来にそって四方に四幅の白幕を張り、四隅に六尺の旗をたてる。」 この絵は、誰の切腹を描いたものかは分かりませんが、『自刃録』に則って描かれたものに違いなさそうです。 大いに参考になりました。