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お江戸と奉行の所轄地域の範囲
- お江戸と奉行の所轄地域の範囲を知りたい
- 葛飾の郷の発展と千住宿の関係について教えてください
- 奉行の裁定について詳しく教えてください
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>町奉行配下の同心はその所管・所轄の範囲の伺いを出したとのことです。 この件に関しては、正直に言って、私は「勉強不足」でした。いつ頃(何年頃)のことでしょうか?後学のために、何年頃かお分かりのようでしたら、「補足」でてもお聞かせください。 では、私の「浅学」ではありますが、分かる範囲で・・・。 町奉行は、古くは室町時代にまで遡ると言われています。また、徳川家の記録では、三河で松平氏を名乗っていたころ、すでに、町奉行の職務が定められていました。当時は、在所も決まりはなく、町奉行を任命された者が自宅に「お白洲」を作って奉行所としていました。 江戸が開幕されても、家康、秀忠の時代まで、その形式が続いていました。 しかし、3代将軍家光になって、寛永8(1631)年に、加賀爪民部少輔忠澄を北町奉行に、堀民部少輔直之を南町奉行に任命し、この時、初めて北は常盤橋門内に南は呉服橋門内に、正式に、奉行所を作ったのが始まりとされています。 そして、与力50騎(北25騎、南25騎)、同心120人(北60人、南60人)を配しました。 さて、その管轄範囲ですが、時代とともに、変遷というよりも拡大しています。 (1)葛飾の郷方向への発展は、千住宿の発展という形で展開されていったのでしょうか? これについては、南は江戸湾に面しており、埋め立てをして陸地を増やしてはいますが、何とも時間のかかる仕事でした。そこで、必然的に人口が増えるにつれて、北へ北へと御府内が広がっていきました。 まあ、千住宿の発展もあったとは思いますが、逆に言えば、人口が増えて、町家の増加が北の発展につながったのではないでしょうか。 (2)同心は連盟でこの伺いを出したのでしょうか? この「事件?」は、はっきり申し上げて、私には分かりません。 ただし、そういう事があったとすれば、1人の同心だけの意見で幕府が動くはずもなく、北、南の両奉行所の同心が一同に署名したと考えられます。 また、北と南は、とかく、仲が悪いようにも書かれた小説などもありますが、実態は、「内寄会(うちよりあい)」といって、相互に連絡事項の回覧や相談書を交わしていました。しかし、現代の法律のように、細部までは決めておらず、それぞれの奉行の判断に任されていました。 そして、ご存知のように、1ケ月交代で門を開けて訴訟事等を受付ました。これを「月番(つきばん)」と呼びました。 ですから、町民が訴えを提出する時、訴人は有利な扱いをしてくれると思われる御番所へ、その月番を待って願い出ることもしばしばでした。 なお、町民は「奉行所」とは呼ばず「御番所」または「御役所」と呼んでいました。 >>(3)同心はこの伺いを奉行に出したのでしょうか。 これは、当然、奉行に提出したと考えます。現代でもそうですが、江戸時代は上下関係が厳しく、上司を飛び越えて訴えると、それは「直訴」に当たります。そして、ご存知のように「直訴」は「御法度」です。これは百姓や町民に限ったことではなく、武士も「直訴」は固く禁じられていました。 >>(4)それに対する裁定は奉行が出したのでしょうか、その場合、奉行は若年寄への伺いの上で、出したのでしょうか。 奉行の直接の上司は老中です。従って、老中が決めたと思います。 しかし、この範囲を決めるに当たっては、もう一つの出来事もあります。 旗本や御家人が江戸から出て旅などをする場合、幕府に届けを出す決まりとなっていました。ところが、どこまでが江戸府内でどこからが府外かがはっきりせず。旗本や御家人からも「不満?」の声が上がり、ついには、寛政3(1791)年に旗本などを取り締まり、届出を受け付けたりする大目付から老中に対して、「御府内をはっきりして欲しい」との諮問がされました。 その回答は、江戸曲輪内(東は常盤橋門、西は半蔵門、南は外桜田門、北は神田橋門)より2里の範囲、という、実に曖昧なものでした。 また、変遷については別に述べます。 >>(5)どんな態度、立場のとり方で、どんなことば(あっちは所轄地域でないから、心配しないでいい。とか)での裁定だったのでしょうか。 文政元(1818)年8月に、目付牧野助左右衛門から「御府内外境筋之儀」というお伺い書が老中に出されたのを契機として、勘定奉行、評定所等で打ち合わせが繰り返され、同年12月、老中阿部正精が、東は中川、西は神田上水、南は目黒川、北は荒川や石神井川下流までを御府内とすると、初めて絵図面に朱線を引き老中としての見解を明確にしました。この朱線を「御朱印図」または「江戸朱引図」と呼びました。そして、同時に町奉行所の管轄範囲も決めましたが、やはり、曲輪二里四方が基本で、黒線で朱線よりもはるかに狭い範囲が示されました。ただし、ご存知とは思いますが、朱線も黒線も、コンパスで計ったような円形ではなく、グニャグニャとしており、西の神田上水近辺では、朱線の外に黒線が引かれている矛盾もありました。 まあ、幕府が開かれて200年も経っているのに、町奉行所の管轄範囲は、現代で言うと、おおよそ、JRの山手線内の範囲位でしかありませんでした。 ですから、私の考えとしては、奉行自身も明確には応えられず、「これまでと同じ・・・」あるいは、この頃に、あなたの言われる同心の伺い書が出されたとすれば、黒線の範囲を一同に見せ「この範囲と決まった・・・」とでも言ったのではないでしょうか。 (よもやま話) 1.御府内の範囲の変遷。 *慶長8(1603)年・・・千代田城二里四方。内神田、日本橋、浜町、麹町、常盤橋など計三百町の町割が完了し、この範囲を町奉行所の管轄地とした。この地域を「古町」と呼んだ。 *明暦3(1657)年・・・明暦の大火。曲輪内の寺院を江戸郊外に移転させるなどの大規模な都市改造がおこなわれ、郊外として挙げられたのは、深川、浅草、駒込、目黒で、ここまでを江戸と呼ぶこととする。さらに数年を経て、江戸と呼ばれる範囲は五里四方に拡大し、深川、本所、浅草、駒込、小石川、小日向、牛込、四谷、赤坂、麻布、芝までが江戸の範囲と定められたが、これらは「府外」と呼ばれ、「府内」とは、依然として、古町の範囲だけであった。 *万治元(1660)年・・・当時は東の隅田川より向こうは「下総国」と呼ばれており、江戸と下総の両方の国にまたがるということで命名された「両国橋」完成。同時に、両国橋より東も武蔵国に編入され、江戸の市街地に加えられた。 *寛文2(1662)年・・・南は高輪、北は坂本(浅草)、東は今戸橋までを関東郡代から町奉行所に「警察権」のみ委譲。しかし、定町廻り同心の範囲は、依然として、二里四方。この地域はまだまだ開発がされておらず、田畑が多かったため、犯罪も少なかったので、町奉行が取り締まる必要がなかったが、ここで初めて町奉行所の管轄範囲が広がる。 *寛文5(1665)年・・・品川(東海道)、千住(日光街道)、板橋(中山道)、高井戸(甲州街道)の四宿内を江戸内と呼び、江戸内への(庶民の)旅人の駕籠の乗り入れ禁止令を出す。(街道筋での利用は認められていた)。従って、この禁止令が御府内と認められたと解釈される。なお、駕籠の乗り入れ禁止令は、たびたび発令されたが守られず、享保11(1726)年に禁止令は解除された。 *明和2(1765)年・・・御番所での判決の中の「江戸所払い」の刑では、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸から追放することと決まる。従って、この範囲までが町奉行所の管轄となったと思われる。しかし、内藤新宿は御城から近いにもかかわらず、管轄外であった。 *寛政3(1791)年・・・東は常盤橋門、西は半蔵門、南は桜田門、北は神田橋門の江戸曲輪内四里四方を御府内と定める。旗本や御家人が御府内を出る時には「届出」を必要としたために決めたが、東北東とか西北西などの東西南北以外では、依然、あいまいだった。 *文政元(1818)年・・・東は中川、西は神田上水、南は目黒川、北は荒川や石神井川下流を結んで、老中が初めて「御朱印図」で御府内を地図をもって見解を示した。従って、この範囲までの「警察権」のみが町奉行所の範囲と考えられる。しかし、同時に町奉行所の管轄範囲として、二里四方に黒線(墨線)が引かれてあり、奉行所の「定町廻り同心」は、この範囲を廻っていれば良かったようにも思われる。つまり、犯罪が起きた時だけ、朱線内であれば出張ったと思われる。だが、ご存知のように、御城近辺はかなりの町割り図がはっきりとしてあるものの、それ以外は、「田地」「畑地」とおおざっぱであったので、実際に「ここまで」「これ以外」という区別はつきにくかった。 2.江戸は、もちろん、政治の中心地であったが、黒線内(町奉行所の管轄)の半分が武家屋敷、あとは、農地が25~35%、町地は15%である。朱印内を含めると農地が半分以上を占めていて、政治の中心地とは言っても、意外と「農地」が多かった。 3.享保6(1721)年頃の人口調査では、庶民(工業、商業等)は40~50万人といわれ、武士は軍事上の秘密から公表されていないが、やはり、40~50万人位と考えられ、江戸は100万人都市というのが「定説」になっており、当時としては、世界一の大都市だった。また、庶民の男女比率は、男約65%、女約35%と、圧倒的に男が多く、一生涯を独身で暮らした者も多かった。また、そうした男たちの「はけ口」として、吉原が繁盛した。 4.御府内の年貢は? 寛文2(1662)年に、前記年表にも書いたように、「警察権」だけが町奉行しの管轄となったが、年貢の徴収は郡代が引き続き行っていた。 また、旗本や御家人地であればその領主に、寺社地では寺社が徴収していた。また、面白いところでは、町奉行所には南北合わせて50騎の与力がいたが、給料は一万石の知行地をもらい、200石ずつ均等に分けた。 5.御番所の与力は、いざ捕り物になると、騎馬に乗って出動したので、与力を数える時は、「騎」と数える。同心は「人」。 6.大岡越前守が有名になったのは、享保16(1731)年、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ「火あぶりの刑」を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下であった手付同心の1人が「伝兵衛にはアリバイがある」という話を聞き、越前守に上申した。そこで、越前守は直ちに、密かに証拠集めを指示し、ついには、吟味のやりなおしをして「無罪」を言い渡した。当時は、1審制だつたのだが、再審まで断行し「無罪」を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。 7.南北奉行所・・・どっちが偉い? 南町奉行所がやや上だった。老中などに両奉行が呼ばれた時の座りは、南が一つ上座であった。 「遠山の金さん」でおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11(1840)年に、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたので、老中の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。 しかし、奉行の役高は、どちらも同じく3000石であった。 8.与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」と呼ばれ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」であった。縁組も同じ役職者に頼るほかがなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったと言われている。 9.御番所は、割合平穏であった。・・・凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと、「火付盗賊改め」が強力犯(押し込みをして人を殺したりする犯罪)は担当したので、御番所では、せいぜいコソ泥とか、強請り(ゆすり)、たかり、博打の罪とかで、多くは、町民同士の訴訟に判決を下すくらいであった。 10.目明し 正式には「岡っ引」と呼んだ。与力や同心が犯人を引っ張るのを「本引き」といい、目明しは横から引っ張るので「岡つ引」と呼ばれた。なぜ「岡」が付いたかというと、当時は「岡目惚れ」とか「岡目八目」というように、横からチョッカイを出すことに「岡」が使われた。これには、岡に登れば、あらゆる方角が見え、何でも手を出したがる。というところからきているようだ。 公的な地位はなく、主に同心の下でプライベートに聞き込みなどをした。犯人逮捕で大立ち廻りをするようなことは、ほとんど無かった。TVドラマの「銭形平次」では、子分と2人で犯人を捕まえたりしているが、実際は、岡っ引だけで犯人逮捕はできなかった。これは、TVの視聴率を上げるための所業。とは言っても、野村胡堂よにるれっきとした小説。ただし、例えば、スリの現場を見つけたような時には「緊急逮捕」はできた。 岡っ引は同心から月に一分か二分(20,000~30,000くらい)しかもらえなかったので、当然、それだけでは食べていけない。そこで、「飲み屋」や「寄席」などを妻にやらせて生活すると同時に、人が多く集まれば、それだけ情報も集まったというわけです。原則的にはお互いの縄張りがあったが、はみ出して働くこともあった。また、子分を2~3人抱える者もいた。子分は街の噂を集めてきて、親分に話す。そうすると、親分は同心に話しをし、犯人逮捕につながった。しかし、この子分連中は、食事は親分からありつけたが、小遣いなどはなかった。そこで、御用風を吹かせて、事件の関係者に「何もなかったことにする」などと持ちかけて、金をせしめたりしていた。これを「引合いを抜く」といった。さほど大きな事件でなければ、同心も親分も目をつぶった。さらに、情報が種切れしないように、それぞれの親分に仕える子分連中が情報交換所をつくり、お互いに融通しあったりもした。 11.奉行所近辺の火事 奉行所またはその近辺で火事があると、髪結床が駆け付けた。「梅床」とか「亀床」などという提灯持ち、「駆けつけ、駆けつけ」と大声で叫びながら奉行所に向かった。もちろん、この声を聞くと、現代の消防車のようなもので、皆、道を空けたという。奉行所の書類は、普段から箱に詰めて、麻縄が掛けられてあったので、どんどん運び出したという。ではなぜ、髪結床だったのか?実は、髪結の仕事は大変な力仕事で、武士の髪を結うには、髪を束ねて、鬢(びん)付け油を塗って、手首に力を入れて・・・と、かなりの力を必要とした。そこで、力仕事のついでに奉行所の書類等の運び出しに選ばれた、というわけです。では、力仕事なら、大工は・・・というと、大工は仕事場がバラバラで集めにくかったからです。 12.女の取調べ 女に対しては、原則的に、「拷問」などをしないこととなっていた。そして、取調べの最中、少しでも膝小僧から上を出すと、調べは「中断」された。そこで、両膝を縛って取調べをしたが、そうしたことを知っているシタタカな女は、わざと、後ろにそっくり返って、取調べをたびたび中断させたという。 まあ、長々と書きましたが、あなたのお役に立てたでしょうか?
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- 川原 文月(@bungetsu)
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私のつたない解説をお読みいただきましてありがとうございます。 >>荒川放水路真ん中に、かって旧(ふる)綾瀬川が通っていて、云々。そして江戸の町の拡大に伴い、その境界を尋ねた回答が、旧(ふる)綾瀬川を境とする、というものであった。というお話でありました。 私の所蔵に、やや時代は新しいですが、安政6(1859)年発行の江戸日本橋南壹丁目、須原屋茂兵衛藏版の「分間江戸大絵図」があり、綾瀬川を調べてみました。これによると、綾瀬川は、墨田村の北に確かにあります。また、現在の地図で見ても、墨田区の北に綾瀬橋があり、隅田川に注いでいるのですが・・・。この川のことでしょうかねぇ。 もし、この川だとすると、荒川はもっと北ですから、水路として掘削したのでしょうかねぇ。 もっとも、江戸時代は、陸路よりも舟運が盛んでしたから、荒川と隅田川をつなげていたのでしょうか。私の古絵図では、綾瀬川は図面から北は切れてしまっているので、ちょっと、分かりかねます。 また、>>旧(ふる)綾瀬川を境にして<<と解説していただいたようですが、西に足立郡(現:足立区、この中に千住がある)、東に堀切村(現:葛飾区)、南に墨田村(現:墨田区)とあります。 何年頃のことかは分かりませんが、切り通し(水路)として舟運に供し、そこを御府内と府外の境としたのでしょうかねぇ。 まあ、学芸員のお話ししたことですから、それなりの根拠があってのことと思いますが、しかし、年代位まで明らかにして欲しかったですね。 私も、今後、機会があったら調べてみます。
お礼
再度にわたりまして、該博な学食からのお教えに恐縮しております。 去る十一日の勉強講座において、船中で配布していただいた、国土交通省の資料でも、現在、旧(ふる)綾瀬川は仰せの通りとなっております。その資料により、この水路が、学芸員の先生がおっしゃっていた旧(ふる)綾瀬川というのであり、口頭の“ふる”とは、ほかのご説明の方が“旧”といっている、この水路だと知ったわけであります。 私は東京大空襲でこの地に来たり、墨田、足立は、少年時代青年時代とたいへん縁のある地域であります。こどものころより仰せのこの水路は普段は開くことのめったにない、大きな頑丈な水門で、荒川法水路と隅田川(ちょうど牛田・関屋から鐘カ淵にさしかかる地点)をしきっております。 それでも昔は水門が時に開いて(引き上げられて)船が通行するのを見ております。今はもうそこらで遊ぶこともなくなりまして、船の運航の確認はしておりませんが。【 補足欄へ移行します 】
補足
【 お礼欄より 】 思うにこの水路は、現在、あの地域で荒川の真ん中になっている、あたりを通っていた、旧(ふる)綾瀬川の隅田川に、カーブしてか、通じる、水路の残りだと理解できそうです。ちなみに同じ国土交通省の資料では、同じ旧(ふる)綾瀬川という名前の水路が、だいぶ上流の荒川放水路を下流に向かって、左側にも少しの距離ですが流れております。 そして隅田川に通じるこの、旧(ふる)綾瀬川の傍には近隣にはまったく地名のない、東武伊勢崎線の堀切駅がありますが、学芸員の先生のお講義では、旧(ふる)綾瀬川を更に掘削するときに、今の荒川方水路の真ん中あたりの地点から、移動させたのだ、というご説明でありました。ですから、この現在の旧(ふる)綾瀬川として残る水路はそういう流れをして、隅田川につうじていたのではないかと、解釈しております。 旧(ふる)綾瀬川を境にして、同心のお役目の範囲を云々という裁定のころは、ですから、直角に隅田川に通じている、今の水路の旧(ふる)綾瀬川は、本流の流れとしては、たぶん江戸びとの大川(隅田川)に平行するものであったのでありましょう。 何年ごろのことか、私は歴史小説は楽しむだけで、あまりそこいらに厳密性を求めてはいませんので、ご回答のお教えでたいへん満足しております。 まことにありがとう御座いました。
お礼
単行本一冊の内容を優に凌駕する、すばらしいご薀蓄に心より感激し、お礼申し上げます。 まことにありがとう御座いました。 たくさんのことばを、添えたいとは存じますが、ことばさへも遠慮申し上げ、しばしこの雰囲気に浸っております。 まことにありがとう御座いました。
補足
拝顔すれば、歴史作家以上の自称歴史作家の、bungetsu様と拝察いたしました。 私のこの質問は、一昨日の十一日でしょうか、然る区の文化施設が主催する〔荒川を知る〕という、国土交通省との連携の行事の参加を発端としております。 そこで、職員の学芸員さんから、いろいろお講義を賜りました。 その折、荒川放水路真ん中に、かって旧(ふる)綾瀬川が通っていて、云々。そして江戸の町の拡大に伴い、その境界を尋ねた回答が、旧(ふる)綾瀬川を境とする、というものであった。というお話でありました。 スケジュールの詰まった中、そしてご専門とも異なるゆえか、質問の機会もなく、思い余って、ここにお教えを乞い申し上げた次第です。 その時の情報が、つまり、伺いした主体とは、同心であった。 誰にしたかは不明。 誰が裁定・回答したかは不明。どういう伺いであったかは不明。 どういう回答であったかは不明。旧(ふる)綾瀬川を境として所轄を定める、という言葉があるものであった。 ということに尽きるものでした。 bungetsuさまの、この、お教えをプリントして、親切で斯界のお話ではすばらしいお講義のその先生に、(これを所載する、メール配信の後に、締め切り、その後でのプリント・アウトをして)嫌みにならないように注意して、勉強の報告をしたいと存じます。 その、私よりもずいぶんとお若い先生も、「そうか」と、とてもよろこんでくれると存じます。 先生の分も含めて、心よりお礼申し上げます。 ありがとう御座いました。