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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:宿場の共通点と相違点など)

宿場の共通点と相違点など、修正と補足をお願いします

このQ&Aのポイント
  • 宿場には共通点と相違点があります。共通点としては、近くに刑場があり、領域の区画ともなる川があることが挙げられます。一方、相違点としては、現在の千住大橋と千住宿の位置が異なり、千住宿は町奉行の管轄から外れていることなどがあります。
  • 千住宿は隅田川の向こう側で、荒川のこちら側に位置しています。この地域は朱引きの範囲内であり、玉の井や曳舟も含まれていました。また、地域自治体の学芸員のお講義によると、与力・同心の管轄区域は鐘淵あたりの旧荒川の真ん中だとも言われています。
  • 以上の内容を通じて、宿場の共通点と相違点を理解することができます。さらに、荒川探索の現場講義では、隅田川を墨線が走っていると言われていますが、これは採りにくい情報です。

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回答No.1

こんにちは。 >>1. 共通点 >> i. 近くに刑場がある。(鈴が森、小塚原、大和田) これについては、昔の処刑は「みせしめ」でしたので、見物人が多く集まれる場所、人の往来が多い場所ということで、江戸府内の外ではあるが、江戸内の効外に刑場を設置しましたので、貴兄のおっしゃる通りかもしれません。 >> ii. 領域の区画ともなる川(渡しのある)がある。(品川、千住) 確かに、軍事上の理由から橋を掛けていませんでしたので、川止などのために、必然的に川の近くに宿場ができたのでしょう。 >>2. 相違点  現在の千住大橋は朱引き上にあるが、千住宿は今の常磐線と東武線の北千住です。  ここは墨線からは無論、朱引きからも外です。  そうとすると、千住宿は町奉行の管轄からは無論、ご府内からも外にある。   *隅田川の向こう側になっていますね。 朱引図は、前回も述べましたが、旗本や御家人は夜は自宅に居ることが義務付けられていました。これは、いざ戦いとなった時に好き勝手にバラバラにならないように、という理由からでした。 従って、旗本や御家人の外出範囲や外泊の許認可を決めるために朱引図で示されただけで、四宿は江戸の範囲でした。 つまり、町奉行の管轄でした。 >>3. でも隅田川が大きく蛇行している辺りで荒川の向こう側で、朱筆は直線になっています。   荒川の向こう側というのが理解に苦しむところですが、多分、大正から昭和にかけての   北区志茂を分岐としての新規掘削前の流れでしょう。   ですから今は荒川のこちら側、そして主として土手に密着して東武が堀切を通っている   区域なのでしょう。   つまり今で言えば主として鐘淵から堀切の間なんでしょうね。 あらためて、手持ちの史料を再検証しました。(画像をUPします) これによると、江戸東京博物館所蔵の絵図では、荒川の真ん中に朱引がされていました。(少々見づらいでしょうが・・・) 従って、学芸員さんの話のように、川の真ん中からこっちが朱引の内、その向こうが外・・・と言われたのが正しいかもしれません。 荒川や隅田川の掘削については、私は良く知りませんので川幅が広がったり狭くなったりとすれば堀切辺りが朱引の範囲だったかもしれません。

krya1998
質問者

お礼

 文月さん、今回も早速にご訪問、適切にして的確なご判断とご回答を感謝申し上げます。  私はこの向島から堀切、牛田、そして北千住あたりは中学から高校にかけては我が庭でした。  小学生の頃はここらの広大な河川敷の葦と蒲のジャングルの中のでかい湖や小川大川は私の領地でした。  私の本性は実は下流流域の河童です。  その私が、かの東武伊勢崎線の堀切の手前の蛇行隅田川と荒川を結ぶ旧(ふる)綾瀬川が区切る千住柳原と鐘淵の異様な江戸残存と世間との隔絶世界に奇妙さを感じての質問提起でした。  文月さんもあのあたりの途絶して世界をご訪問されたら、こんな異世界があったことにびっくりするでしょう。  有り難う御座いました。