• 締切済み

妄想を盛り込んだ歴史書が出回っていること、あります?(長いです)

ある程度名の知れた歴史研究家の人の研究レポートというのですか、本やホームページにまとめてあるもので、「歴史的事実かどうかの根拠がひとつもない」という不確かなものではなく、完全に本人の妄想であるものというのはどの程度あるのでしょうか?いろいろな資料を読んだ方など、詳しい方おねがいします。 以前、結構有名な歴史研究家の人のホームページで、「縄文~昭和までの歴史の流れ」という感じの解説が載っており、勉強になると思い読んでいたところ、とても面白い点が沢山あったため、本格的に歴史の研究をしている人に「○○って○○なの?本当?」と聞いてみたら、 「そんな話、私は始めて聞きました。何の資料に載っていたのですか?とても興味があります」と返されました。 その人は歴史研究者の人の沢山いる場所にいて、最新情報をあちこちからいち早く入手できる状況にあった人のはずです。今は全く仲良くしていないので連絡がとれないのですが・・・。 そのホームページで次々見つかる新事実について、その人達に尋ねましたが、どれも「初耳です。もっと詳しく知りたい」「それは興味深いですが、本当なのですか?」という答えばかりで、その研究家さんはウソをついているのではないかと疑問に思いました。 そのホームページの管理人だけではなく、書店で購入した本の中でも、時々「○○が○○だなんて、ウソですよね?」と聞いてみたら 「そんな話は聞いたことがありません。もしそうだとしたら、誰々(歴史上人物)は決して人格の優れた名将とは思えませんね」等、相当の情報量のある人たちから信じられないという声が続出したという経験がありました。 そういう過去もあってなんですけど・・・。 趣味の個人ホームページ程度ではなく、『ある程度名の知れた歴史研究家』が、まことしやかに自分の妄想を書いて本を出したり、ホームページを作ったりしているということはどれくらいあるのでしょうか? 私は昔読んだ歴史の本の奇妙な一文が忘れられず、未だに延々と考え続けてしまっているのですが、もしそれが歴史研究家の妄想にすぎないのだったらバカらしいな、と思ったんです。 特に、女性の場合は歴史上人物の同性愛や恋愛について(スキャンダル的なもの)の妄想の余計な書き足し (例:歴史上人物○○と△△は同性愛関係であった、など) 男性であれば歴史上の女性人物の過剰な性的描写(それもやたらと詳しく悪趣味なもの) (例:歴史上人物○○の妻が敵軍に見せ物にされ強姦されたあげく虐殺された模様の詳細な記述) などは、妄想のような気がしてしまいます。 読む人に間違った知識を植え付けてしまう妄想の歴史書・・・正直困っています。 長くなってしまいましたが、経験に基づいて丁寧に教えていただけると有難いです。

みんなの回答

  • Yelm
  • ベストアンサー率19% (63/324)
回答No.9

実のところ権威ある筈の歴史学者が、後世から見ればトンデモとしか言えない学説を唱える事はしばしばあります。 例えば京都大学名誉教授であった井上清は 『現代の眼』71年9月号「世界史の中の文化大革命」にて 「文化大革命は、結局、ソ連がつまずいたことを反面教師として、資本主義が復活するのを防ぎ保障をうちたて、社会主義を発展させる。 そのような人間、そのような精神をつくり出すことだと思います。 それは数千年の私有財産制下につくられてきた人間とは根本的にちがう人間をつくることですから、一度や二度の文化大革命で、できるはずもなく、これから何回もくり返し何十年もかかるだろう。 毛沢東はそこまで視野にいれているわけですが、こうしてソ連よりもはるかに進んだ社会と人間が中国にすでにできており、かつその方向にのみ人類の未来があるのだから、文革の中国こそ現代の世界史の頂点である。そこから世界史を見て再構成されねばならないと歴史家として私は考えている」 と主張しました。数千万人の犠牲者を出し、中国を大混乱に陥らせた文化大革命の実態がいかなるものであったかは、この10年後には誰の目にも明らかになりましたが、井上は「歴史家として」唱えた筈の自分の言説を反省する事は一度もありませんでした。

  • jayoosan
  • ベストアンサー率28% (929/3259)
回答No.8

それは世間とあなた、どう判断するかではないでしょうか。そして大多数が正しいとも限らないということも、どこかで覚えておけばと思います。 ところで、竹内文書という古代の日本を描いた、怪しい古文書があります。内容が怪しいだけではなく、超古代の現存した文書は神代文字でかかれていたとされ、その後古代の漢文かな文字に写本されたオリジナルものは、現在なく、そのオリジナルからの写本が現存するのみです。 内容と、現存物から、80%くらいバカにしてかかっていましたが、その古代漢字写本から戦前までに残ったもの(その後の写本も含む)、約4千点が、昭和19年の最高裁へ、その正しさを伝える趣意書とともに資料として提出されたという記録があることを知り、その事実までは否定できないので、私の中では、きめつけは止めようという姿勢に変わっています。 ただ、その4千点はすぐに持ち主に返却されず、昭和20年3月の東京大空襲で灰に帰してしまったとのことです。 これがまたうそだとして、あまりに貴重な資料であるため、国が保持しどこかにまだ隠している、となると、何が本とうなのかわからなくなります。

  • hakusyon1
  • ベストアンサー率43% (55/126)
回答No.7

 世に「トンデモ本」があるように、怪しい歴史や妄想や創造やねつ造はざらにあるんだと思いますよ。じゃやこれが今始まったことかと言えばそうでもなく、大昔から歴史書の類は生き残った権力者の都合のよいように書き換えられていたりしますよね。それが今ではさも本物のイメージのように焼き付いていたりしますよね。そういった類の事例は質問者様もよく知っておられるかと思います。今ある歴史書もこれと同様で、これからあと長い年月がたてばそのうちさも本物のように語られることもあるのではないでしょうか。歴史って意外にそんなものの積み重ねなのかもしれません。そういうものを全部ひっくるめて伝わってきているものが歴史なのだと。。。答えになってないかもしれませんが。。。

  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.6

「歴史とは現在と過去の対話である」というテーゼで有名なカーという人物がいます。同じことをマルクスは、「意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定するのだ」と言いました。 どういう意味かというと、過去の歴史的な事象や人物についての評価は、現代人の目を通してしか行うことができず、時代や階級や生れ落ちた国が違えば、同じ歴史的事象を、全く違うように解釈してしまうことがあるのだ、というわけです。 さて、妄想を盛り込んだ歴史書ですが、困ったことに、実在します。権威のある歴史家というより、地域紙研究者や右派マスコミに多く、妄想というより、単に進歩が無いだけといった感じです。 日本史上の人物で、戦前と戦後で最も大きく評価が変わったのは、おそらく足利尊氏です。戦前の教科書では、「後醍醐天皇に最後まで仕えた楠正成が英雄で、天皇にはむかった足利尊氏は逆賊だ」と教えていました。 しかし、楠正成を天皇崇拝と結びつけて神格化した歴史観は、実は明治以降のものに過ぎず、江戸時代には楠正成は、そこまでの高い評価を受けていたわけではなかったのです。江戸時代においては、楠正成は、忠君の人物というより、奇抜な戦術で敵を苦しめた武将として、面白おかしく描かれていました。つまり、源義経が鹿も通らないという崖を平然と馬で駆け下りて平家軍に裏から奇襲をかけたり、織田・徳川連合軍が、当時の連射の出来ない鉄砲の弱点を補うため、3人1組で交互に鉄砲を打たせて、武田軍の騎馬隊の突進を打ち破ったりしたのと同じく、楠正成もまた、庶民文化の中で、奇抜な武将として人気のキャラクターだっただけなのです。 明治以降、天皇を頂点とする近代国家が作られていく中で、愛国心を子供に教え込ませる歴史教育の一環として、楠正成が英雄視されるようになっていきます。他方、戦後になると、早い段階から、これに対する反論が、まともな歴史学者の間から、上がってくるようになります。当時の歴史的な状況を言えば、武家の勢力が貴族の勢力を上回り飲み込んでいくといく必然的な流れがあり、この時代に無理やり天皇による親政を行おうとした建武の新政は失敗に終わるわけです。つまり、足利尊氏という人物は、実は逆賊というより、源氏の嫡流に生まれた人間として、本人の好むと好まざるとにかかわらず、武士たちの期待を背負って戦う運命を背負っていた重要人物ではなかったかという意見が提起されるようになり、足利尊氏の再評価が始まります。 「私本太平記」という小説が毎日新聞に連載され、小説であるからには虚構が混ざってはいるものの、足利尊氏像をがらりと書き換えたのは、昭和33年の段階です。20年以上も前に私が読んだ漫画版の日本の歴史全20冊でも、冒頭の保護者への説明として、「楠正成と足利尊氏のどちらが偉いのかという議論には意味がない。足利尊氏の背後には、新時代を期待する武士や庶民がたくさんいた。歴史とはそういうものだ」という趣旨のことが書かれています。 哲学者のヘーゲルは、このように、歴史の流れの中で先頭に立つ人物のことを、歴史的英雄と呼びます。英雄は個人の資質によって英雄になるのではなく、歴史の進む必然性の中から生まれてくるのだという考え方です。そして、この歴史的英雄の概念に見事に該当する人物こそが、日本では足利尊氏です。 足利尊氏は、慎重なのか、臆病なのか、躁鬱の激しい人物なのか、単に芝居を演じていたのかはわかりませんが、英雄であるとともに、悩む人という性格を示しています。北条軍の残党を退治し鎌倉に住んでいた尊氏のところに、早く京都に帰って来いという後醍醐天皇からの手紙が届きます。しかし、京都に変えると新田義貞に殺される危険性があると思って悩みこんでいるところに、新田軍が鎌倉を目指して攻めてくるという知らせが飛び込んでくるのです。尊氏はちょんまげを切り落として引きこもってしまい、世捨て人のような生活をして、周囲をやきもきさせます。ようやく決意した尊氏が武士たちの前に現われ、これから新田軍と戦う、新田を打ち破ったら京都に攻め上ると宣言すると、武士たちの士気が一気に跳ね上がり、怒涛の反攻が始まるのです。 南北朝時代は天皇家自体が分裂しており、深い議論を始めると、万世一系というウソが一発で分かってしまうという動乱期です。南北朝から室町時代を冷静かつ中立的に議論できるようになったのは、戦後になってからです。この時代には、尊氏のほかにも、戦前と戦後で評価ががらりと変わった人物がいて、日野富子などは代表格と言えるでしょう。この人は、金儲けにしか興味の無い悪女というイメージが未だにありますが、夫である足利義政が酒と芸術にしか興味がなく政治的には無能であるという状況下で、室町幕府を実質的に支えていた功績が指摘されています。 ひるがえって右翼マスコミや地域紙研究家を見ると、未だに「楠正成バンザイ」と言い出しそうな人がゴロゴロいるような気がしてなりません。彼らが妄想にとりつかれているとは言いません。単に進歩がない人たちだと思います。産経新聞や扶桑社や新しい歴史教科書をつくる会などの議論を見ている限り、南北朝・室町時代の再評価という観点は、根本的に欠落しているような思いがしてなりません。南北朝・室町時代には、上記以外にも重要な事象が多数あり、酒の販売が本格的に行われるようになったこと、従来は支配される一方だった農民が強固な自治的コミュニティを作って時には一揆を起こすようになったことなども忘れてはなりません。しかし、どう見ても日本史では、戦国時代と幕末期に人気があり、南北朝・室町時代の面白さに着目している人は少数派である気がします。 なお、産経新聞ですが、ムンクの「叫び」が盗難された時、この作品を恐怖の叫びを上げている男の絵だとして報道しています。私が即、これは叫びを聞いて耳をふさいでいる人物の絵であるとメールで指摘したのですが、返答すらありませんでした。ムンク自身が、私は自然の叫びを聞いたと言っているのですから、間違いありません。

mettr83
質問者

お礼

昔の話は、現代の人と同じ評価ができないということは感じます。 昔の人の感性や常識と今の感覚が同じのはずがないですし、昔の人物本人や民衆の考え方がどんなものだったかで、「何時代は平和であった」か、「何時代は荒れた時代だった」か、といったことも変わってくるだろうと思います。なので、難しいですね。 面白いお話も聞かせていただきありがとうございます。関係ない話ですが私は南北朝時代の歴史が好きなのです。 私も足利尊氏は評価されるべきでない逆賊とは思えません。楠正成がダメな人物だとも思っていないのですが。 今の日本は戦乱ではないので、あの人物の人となりや細かい活動を見ていると、人気は高いのではないかと思っています。 日野富子も夫の代わりに政治を行い日本を支えた人と認識する人が半数くらいいてもいいと思うのです。 その評価も、当時生きていた人の評価やその時代によって大きく左右されてしまうものなのでしょうが、私達は今の状況しか把握できないので、正当な評価というのが本当に正当かどうかも分からないですね。 ありがとうございました。

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.5

「歴史にifは禁物」というように歴史にはifが付き物です。 それが妄想といえるかかどうかは受け取る人の知識と比べてどうかという事になります。 常識外の説を立てることはこの掲示板でも屡々見られることですがおおくは証拠をあげて否定されています。 しかし証拠を挙げられない異説を妄想と決めつける事が出来るかどうかは判断できません。 歴史というものはそのような仮説の集合体とも言えましょう。 従って創作もあり得るわけです。  それを楽しむか嫌悪するかも自由であると思います。 ご質問にお答えとなりませんが私見です。

  • suicyo
  • ベストアンサー率43% (83/193)
回答No.4

「専門の研究者の妄想」を書いた本というものを見たことはありませんが、研究者のとんでもない「思い込み」「読者の混乱を招く配慮のない表現」なら、私にも経験があります。 素人の私が言える立場ではありませんが、専門家と言っても、非常に狭い分野に閉じこもったいわゆる「専門バカ」が結構多いという論説は良く目にしますね。 15年くらい前になりますが、平安時代が専門のそこそこ名の知れた某大学教授が、通史を執筆しました。その本の江戸時代の部分で、氏と名字(徳川家であれば、氏は源氏、名字は徳川)についての誤認・思い込みによるとんでもない誤まった説明が展開されておりました。私は当然仲間の学者や弟子の研究者が気づくと思い、そのうちに訂正版が出るものと思って大きな本屋に行く度にチェックしていたのですが‥ 10年以上経った昨年に出た新版にも訂正されていないので、その大学教授に手紙を出しました。すぐに返事が来て「とんでもない誤りでした。訂正ができるか出版社と相談します」というもので、あまりに素直に認めるので拍子抜けしました。返事にはなぜ誤りを犯したかについては説明がありませんでしたが、想像するに、平安時代は名字が「固有の家名」としてまだ定着していない時代なので、平安時代の「専門バカ」であった教授はその延長線上で氏と名字の違いをよく調べもせずに思い込みで江戸時代のことを書いてしまったのではないかと。 また、25年前の話ですが、学習参考書の古代史の所で教科書と全然違う内容が書かれていて、受験生である私は混乱しました。その後、日本史学科に進学した私は、その学習参考書の執筆者?監修者?が古代史の権威と言われる学者であることを知りましたが、受験生の使う参考書に、教科書に書かれていないどころか一般にも知れ渡っていないような自分の学説を展開するなよな、と思ったものです。どうしても書きたければ、「‥という学説もある」などの注釈を入れるべきですよね。これが「読者の混乱を招く配慮のない表現」の言わんとするところです。 ご質問に正面からお答えしたものにはなっておりませんが、ご参考になれば幸いです。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.3

歴史の評価というのは時代と共に変わります。 名の知れた歴史研究家どころか、ちゃんとした歴史書そのものだって事実がその通り書かれているとは限りません。 例えば、古事記や日本書紀は古代史の研究の基礎となる資料ですが、これらの書物は権力者によって書かれた「大本営発表」なわけです。すると、そこには権力者にとって都合の悪い事実は削除されたり捏造されているのは当然起こりえるわけです。すると古事記や日本書紀にも妄想が書かれている可能性は否定できないわけです。 しかし、我が国の古代史研究の世界では古事記と日本書紀が全てで、そこに書いていなければ、いくら状況証拠がそろっていても「そんな事実はない」で終わりです。理由を尋ねると「古事記にも日本書紀にも書いてないから」となるのです。 特に、歴史上の人物の人となりについては、知りえる術がありません。それは後の私たちが「想像」するしかないんです。だって、その人と会ってないんですからどんな人かなんて分からないじゃないですか。何かエピソードを語る資料が残っていたとしても、それもその記録を残した人の印象によって「色がつけられている」わけです。明るい性格の人がいたとして、その人に肯定的な人なら「明るい人物だ」というでしょうし、否定的な人なら「お調子者で信用できない」と記録するでしょう。どっちがその人物の実像に近いかなんてわかりゃしません。

mettr83
質問者

お礼

折角回答していただいてすみませんが、私の聞きたかったこととは少しずれてしまっているようで、今後の誤解がないように書かせていただきます。説明が下手でごめんなさい。 「真実かどうかわからない」ではなく、「自分の勝手な想像を歴史書の分かりやすいまとめなどに組み込む」ということなんです。 私もある程度歴史を勉強しておりますので、日本書紀などが権力者の都合のいい書物にされていることなど、大体考えています。また、歴史上人物の人となりというのは、その人の見た資料と感受性に左右されますよね。なので、構わないのですが・・・。 以前見たものだと、有名人物が、「実の兄弟と同性愛関係だった」という見たことのない一文が、歴史の勉強なんて面倒くさいと思っている人にも楽しめるよう現代アレンジをしたというものに書かれていたことがありました。原本というのでしょうか。当時の資料を殆ど読んでいたため驚いてしまいました。本当だったら、その歴史家さんに失礼なのですが。 投稿していただき、ありがとうございました。

回答No.2

「・・・ありますか?」という疑問が奇妙な感じがしますね。どんな「妄想書」を指しているのかわからないので乱暴な言い方になりますが「読む人に間違った知識を植え付けてしまう妄想の歴史書」という見方でなく、その正誤の証明は自分がするという考えで自分はそういうトンデモ本は読んでいますし、楽しんでいます。 「講釈士見てきたようなウソを言い」という言い方もあります。「(ウソは)すぐわかるだろう」とは言いませんが、自分が知識が無いとしてもある程度は常識として「これは推測の範囲だ」とか「これは全くの創作だ」とか思える部分とか、「これはありそうだが、他の資料でウラをとる必要がある」とかの判断は必要ではないでしょうか。 いわゆる歴史はわかったことだけを知りたいなら学術書のようなものだけ見るとか博物館にいけばいいわけで、そういうものは味気ないものです。 この著者はこんなとんでもないことを考えているのかという面白さを楽しむというのもいわゆる「トンデモ本」のいいところで、アメリカのジョークで、オチが「・・・ついにオレは殺された」というのもあります。それを怒りますか。そういうジョークやトンデモ話を楽しむ気持ちがヨミモノとしての歴史書には比較的必要に思えますし、そのなかで自分なりの「トンデモ自説」を考えてもいいのではないでしょうか、そういう「妄想歴史書」はそのためのタネ本と見て良いのではないでしょうか。 つまり「知識を得よう」というのでなく「自分もその妄想に参加して、真実を見極めよう、推理をしてみよう」という楽しさを追求するのがいいのではないでしょうか。 繰り返しますがどんな「妄想の歴史書」かわからないのでまとはずれを承知での投稿ですが。

mettr83
質問者

お礼

投稿ありがとうございます。 そうですね・・・どんな妄想歴史書かということが書けなくてすみませんでした。 トンデモ本というのが、軽いジョークで受け止められるものならいいんです。 それはおそらく「私はこういう説を唱える」といった類の本だと思います。そういったものの場合は個人である、なしを判断することができると思います。 ただ、実際なんの根拠もなく、本人の願望や妄想を「本当にあったこと」のように吹聴するのはどうかと思うんです。読んだ人は誤解したり変な知識を記憶してしまうでしょうし。

noname#58790
noname#58790
回答No.1

信憑性の高い人間と低い人間は存在すると思います。 文献にもランクがあります。 まず、1級文献と言う物を良く知って下さい。 http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html 面倒ならば私訳です。 http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html ここから、 歴史小説、歴史漫画、歴史ドラマのどこが創作であり、 >完全に本人の妄想である は知る事が出来ます。 通常、物語になるのは殆どが「史実を基にした創作」です。 また、 (例:歴史上人物○○と△△は同性愛関係であった、など) は、恋文が記録として残っている場合があります。 ですので、歴史の場合は個人の判断に委ねる部分が大きいと思います。

mettr83
質問者

お礼

初めての回答ありがとうございます。 漫画や小説には、話をつないだり面白くするために捏造のストーリーを組み込むことはあるだとうと思っております。 ですが、「歴史の流れを分かりやすく解説」「歴史の謎Q&A」となったらそうはいきませんよね? それでも、人前に出す本とするならばそれなりに文献を調べたうえで書かれているということと考えていいのでしょうか。 最近悲惨な事件が多いといいますが、もし文献などが本物であったとしたら昔も相当ひどい状況だったのだと察します。

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