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する、しない、以外の人間の選択肢
結婚するべきかどうか悩んだ時期があります。 最終的には結婚する事にしました。 結婚する、結婚しない。 結婚に限らず、人間には、 する、しない、の二つの選択肢しかないように思われます。 それにもかかわらず、 どちらの選択もしていない状態になっている 物事はとてもたくさんあります。 2つの選択肢しか無いにもかかわらず、ほかに何かあるような気がして 悩んだり、欲深くなったりもしてしまいます。 する、しない、以外に、人間には選択肢はないのでしょうか。 する、とも、しない、とも決めていない状態は しない、に含まれるのでしょうか。
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お邪魔します。 二者択一の選択しかないのか、と言うことですが、 これは、私たちはどうして、二つの見方をするのかと言う難問です。 >する、しない、以外に、人間には選択肢はないのでしょうか。 確かに、私たちの思考形式は二項対立の図式になりやすいですし、言葉自体がある対象を他の物から分けることによって「分かる」と言う図式ですから、言語によって取り出された対象とそれ以外の二項対立の形式は私たちの思考や意識・行動には二者択一の様相が顕著に見られますね。 しかし、此処で少し別の観点から考えてみましょう。 >する、しない、以外に、人間には選択肢はないのでしょうか。 これは私たちの行為に関する表現ですが、まず、志向性の問題が欠けています、つまり、何を、と言う選択がそれ以前に在ることです。 人間の本質的な事柄は、過去を保持して未来の計画を作り、意識的に行動することです、物質は物理法則に従い、植物も動物も程度の差こそあれ、環境の変化に反応するだけです。人間は環境の変化にそのまま反応するのではなく、過去の経験を保持して、未来の予測のもとに、反応を保留したり、抑えたり、増幅させたりして、行動に変えて行きます。こうして見ると、本質的には、「しない」が最初に現れてきます、次に、こうした周りの環境変化、他者との関係の変化のある部分を極端に増幅し、他の部分を反対に切り詰めてしまい、未来の計画の有用性に関連する事柄を意識の中心に固定するのではないでしょうか。つまり、志向性をもって世界を分節するわけです。尤もこの志向性はあまり意識には登らず気づくことも少ないですが、これらの志向性の選択の多義性の中から、選ばれた一つの対象に対する、肯定・否定の二者択一が意識に表面化するわけで、本質的に人間の行為・行動が二者択一と言う単純な図式に還元できるわけではないのではないでしょうか。(注 (注、最近、意識に現れにくい志向性と認識それ自体に志向性が在るのではと言う、近接した複雑・難解な議論もあるのですが。) 二者択一を単純な、する、しない、に分けてしまうのも、人間の意識の状態に関して、機械的な単純化をしてしまっています。例えば具体的な結婚と言う形式を分岐点として、二者択一を捉えられていますが、私たちの他者との関係は、親密性の度合い、その期間で、複雑な揺れ動きの中で動揺しているのが他人に対する意識です。そもそも、ある人と関係を持つのか、その関係を強くしたり弱くしたり、その時毎に、色々な選択を過去にしてきた結果、ある人との親密性を結婚と言う形式で固定させるかどうかを決断する場面に至るわけです。 具体的には、Aとならすぐにも結婚したい、Bとなら結婚してもいいかも、Cとは出来ればしたくないしDは問題外、と言った、現在の親密性の多様性やAとBとの期待度が逆転したり、ある日突然、Eと言う理想的な相手に巡り会うといった、状況や意識の流動的な動揺の連続の中で決断の場面を過去の一点に捉えて、そこで二つの選択があったと考えるわけですが、実際には、多数の判断・情報が過去の一点に至る前に、多種多様な判断や決断、誰かと離れたり、また他の誰かと接近したりと言った、動揺の繰返しの結果、現れた決断の場、その一点から考えると、二者択一しか無い様に見えるのではないでしょうか。 また、結婚する・しない、の二者択一も、現在の私たちの世界に、結婚と言う制度があるから、と言うことも忘れてはなりません。結婚と言う制度がそもそもなければ、親密性の相互的な度合いと快適さを、形式や法制度に関係なく、維持し続けることも可能です。こうして見ると、結婚と言う形式から考えている、つまり、先に結婚と言う形式を考えて、それを、肯定するか否定するかの二項対立に捉えているのではないでしょうか。 蛇足ですが「二者択一しかない」と言う表現ですが、これはなかなか単純な事ではないようです。 この「0101」の二者択一の組み合わせは、コンピュータや人工知能といった複雑な結果を創り出す事が出来て、決して単純な事ではないということです。数学的には「0101」の組み合わせで記憶の形式を表現できるとの事です。また、魚の形をしたロボットを作り、目のセンサーに光に反応して反対の鰓を動かす、と言う、YESだけの単純な反応が、ロボットが光を追いかける複雑な動きになってきます。 ところで、ご質問者様のような考え方は、常識的には何の問題もないのです、ただ、単純に考えて、これらから、人間の自由を否定したり、決定論的な考えに偏ってしまうと、少し問題があるのかな、と感じる程度です。社会の習慣に逆らって、独自性を強調するのも、大層なコストの掛かる事です、確かに人間の自由は危機にさらされていますが、無限定に自由と言うのも、結構怪しい事だと近頃は考えています。 長々駄文を連ね、批判的な回答とお感じになるかもしれませんが、哲学に詳しいわけでもないものが、出来るだけ哲学ぽく書いてみまし、否定するなり、ご笑納されるなり、ご自由に。
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- kigurumi
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>する、とも、しない、とも決めていない状態は >しない、に含まれるのでしょうか。 いや「していない」という状態じゃないか と。 それは、未来はするかもしれないが、現在はしていないが含まれる。 今は同性同士のカップルとか法的に夫婦にならない という選択肢を支持する人がヨーロッパでは増えているそうです。 同性同士の結婚を認める国(州だったかな?)もありますし、動物と結婚することを認める州もあります。 法律的に婚姻関係になっていない異性同士に、結婚契約を結んでいる男女と同等の権利を与えるところもあります。 今過渡期です。 法律は人を縛るためにあるのではなく、保護するためにあると思うんですね。 結婚も人を縛るためにあるのではなく、保護するためにできたものだと思います。 で、結婚をする しない 以外に 結婚生活みたいなことはするが、届出は出さない という新しいスタイルが何十年前からかできているようです。 試験結婚が同棲ですが、試験のままで結婚は無し。 試験だから 新鮮さが継続できる 相手に対する思いやりが持てる というのもあるかもしれません。 親が憎しみあいながら別れもせずにいるのを見た子供達が、選んだ道かもしれない。 ヨーロッパではカトリックが権力を持っているんですね。 生まれると同時にカトリック教徒になったりするんです。 カトリックでは離婚は認められていません。 だから、「あちゃ 失敗だった」と思っても、離婚できない。 池田満寿夫さんの奥さんはカトリック教徒だったので、他の女性たちを好きになったが離婚できなかったようです。 憎しみあいながら、冷めた家庭で暮らすより、新鮮さを保った思いやりのある家庭を持ちたいと願う人たちが、法律上の結婚の弊害を重く見て、結婚を選ばず同棲を選ぶのかもしれないですね。 ですが、これまた弊害があり、新しいパパ、新しいママが何度も入れ替わり、アイデンティティーを確立できない根無し草の子供が増える。 本来なら、家庭で両親がそろって両方から影響を受けて子供は家族の概念、親族の概念を築いていくのだが、片方は血のつながりが無い、すぐまたいなくなる、では信頼関係も築けません。 それがやがて、自分と血のつながりのある片方の親に対してもそう。 継続性が無い親に「我慢強く1つのことを継続しろ」と言われても無理です。 両方を信頼できない子供になる。 過渡期ですから「結婚しないが結婚生活みたいな家庭を持つ」を選んだ人たちが、どういう人間関係を作り上げるか どういう影響を社会にもたらすか、これからですね。 今のところ マイナス効果しか聞えてきませんが。 ってことで、する しない 以外に「結婚はしないが結婚生活みたいなことはする(子供も持つ)」 という新しい選択肢があります。 結婚をしないと法律で罰せられるってことないですよね? 内縁関係って日本でもありますよね。
お礼
海外ではそんな事情があるんですね。 驚きました。 「結婚はしないが結婚生活みたいなことはする(子供も持つ)」 私もそうするべきだったかな(笑) 私の親の二者択一の結果が 自分なわけで、そういう自分から考えると する、しない、の中間で生まれた子供でなくて よかったなというのは素直な感想です。 ありがとうございました。
私はこの世の中はすべて二択と思ってます。 「するともしないとも決めていない」ぼんやりした時間は、「していない」に含まれます。 例えば 「石橋を叩いて渡る」 「石橋を叩いても渡らない」 「石橋を叩いて渡る前に壊してしまう」 あなたが石橋を「渡る」までは、「渡らない」ことによる結果が起こります。 ぼんやりした流れというのは「しない」ことによる結果です。 あなたが「する」をした瞬間、「する」ことによる結果にあなたの人生は変わります。 話は少しそれますが、私は昔、心理学研究室に勤めていた頃、部屋の片付けができずに教授に怒られてました。 私が「いつかは片付けもできるようになりたい」と言うと、教授は 「あのね、目標っていうのは遠くの山のようにあるのではなくて、今ここにあるものなの。今このゴミを君が捨てたら、君はもう目標を手に入れたことになるんだよ」 と言いました。 それ以来、私の人生は「片付けができる」人生に変わりました。 人は一刻一刻、自分の人生を自分の決定によって構成しています。 現時点の決定が、次の瞬間以後の未来を形成するのです。
お礼
片付けのエピソードをお聞きして 「私は幸せになりたい」と神様に話すと 「お前はもう幸せになりたい人になっている」 と言われるというエピソードを思い出しました。 ありがとうございます。 私は今コーヒーを飲みましたが、 「私は飲む」と決断したわけでもないのです。 そういうぼんやりした活動のほうが多い気がするんですが そういうのも、自分の決定と考えて良いのでしょうか。
No.2です。 将棋の《手渡し》というわざは知りませんが たぶん それではないでしょう。 《相手による》というとき こちらは 何も はからいを持ちません。ただ相手と自分との合い性などによるという意味です。 結婚は 相手のあることですから このように関係の問題です。 もちろん 自分の考え次第で 何が何でも する と決めて その意志のとおりに話を持っていき 実現させるという場合も あるでしょうが その場合も 相手の合意が 条件になっています。 ただ そのことを言ったまでです。 ★ する、とも、しない、とも決めていない状態は / しない、に含まれるのでしょうか。 ☆ つまり 相手のある案件であれば 少なくとも その相手には 《しない》に含まれるということではないでしょうか。
お礼
おっしゃっていただいた内容が うまく頭に入らなかったのですが、 する、しない、という選択肢は 自分が作って自分が決めるという種類の選択肢で、 《相手による》というのは、そういう種類のものでない。 する、しない、という自分が作った選択肢によらずとも、 相手との関係が、結婚や出産を決めていくわけで、 そういう進み方も選択肢である。 というふうに感じとってみました。 する、しない、と確かに自分中心に考えてしまいがちですね。 ありがとうございます。
- ri-zyu
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ON4です。 する、しない、は >損得だけではないような気もしますけれども。 なるほどごもっとですね、結婚したのは損得でない、お叱りを受けるのも判ります。もっと深い意味で言ったつもりなのですか。 私の感じているぼんやりとした流れというのが >「空」にあたるものなのでしょうか。 こちらも、ごもっともだと思いますよ、ぼんやりした流れのようなものに乗って、これって自分(自我)を超えてませんか=自分の意思をを超えている=自分のとってがない・・・。。 是々非々は共に非なり。 おこがましいですが哲学でなく宗教的にですね。 、
お礼
>もっと深い意味で言ったつもりなのですか。 言葉以上の意味はありません。 損が生じれば、得も生じ、 得が生じれば、損が生じる。 とどのつまり、同じ事である。 そんなような意味で解釈しております。 手のひらで空の広さを 測る事などできない。 有、無、する、しない、その是非も 空を右手で測るか、左手で測るかほどの違いである。 是々非々は共に非なり。 良い言葉ですね。 この言葉は私にはまだ早い気がしています。 最後の切り札として大切にさせていただきます。 ありがとうございました。
- nisekant
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物事は、二極化(比較)することにより意識できるのだそうです。 私たちは、「光」と「闇」を対比させますが「光と闇の境界線」は存在しませんし、もしこの世が闇だけでしたら「光」という認識もありませんし、闇すら認識できないのです。物事を意識するための形式らしいのです
お礼
ありがとうございます。 私はよく絵を描くので、光を描こうと思ったら、 陰を描くしかないというのは実感を持って分かります。 球体に光が当たっている時、 一番明るい部分と、一番暗い部分はほんの少ししかありません。 ほとんどは、その中間のグラデーションです。 する、しない、という決定を下す時、 それまであったグラデーションを吹き飛ばしてしまうような 暴力的な部分があると感じています。 人間の意識というのは、 多かれ少なかれ、そういう側面があるのでしょうかね。
- ri-zyu
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する(有) しない(無) 空(自分にとってがない) (有無)は自分にとって損得。 合掌。
お礼
ありがとうございます。 する、しない、は 損得だけではないような気もしますけれども。 自分の過去をふりかえって、 2者択一の連続として明確に自分が決めたと感じる部分と、 それだけでは括りきれない、 ぼんやりした流れのようなものに乗っかって 今の自分に至っているように感じる部分があります。 私の感じているぼんやりとした流れというのが 「空」にあたるものなのでしょうか。 うーむ。
- shift-2007
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選択肢は確かに二つしかないですが、 結果が2通りしかないわけじゃないです。 結婚したから、しないから、それで残りの人生すべてが決まるなら 初めから悩みませんでしょ。 自分が何について悩んでるのかという心理を自覚しないと 哲学的な回答を得ても意味無いんじゃないでしょうか。
お礼
確かにその通りですね。 結果が2通りしか無いわけではないですね。 悩んだものごとほど、決定は明快に する、しない、に分かれているような気もしますね。 その後の出来事に対しても、覚悟ができているように思います。 する、しない、よりも どうするか、どうしないか、の方が 大切なのかもしれないと感じました。 ありがとうございます。
相手によるという選択肢があります。
お礼
ありがとうございます。 相手による、というご回答をいただいて、 将棋の高段者同士の勝負に出現する 「手渡し」と呼ばれる、高等技術を思い出しました。 局面を硬直させるような手を指して 相手に打開させるという戦術ですが、 相手による、というのもそういうニュアンスで 考えて良いのでしょうか。
- 1582
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日和見 先送り うやむやにしてごまかす するともしないとも決めていない状態は中立かな
お礼
ありがとうございます。 たしかに、普段の生活でも、自分が する、しないを保留するような中立を 積極的にキープしようとしていると感じる事があります。 するしないを決めないというのも選択肢なのかもしれないですね。
お礼
むぅ、すごい。 キーワードは「時間」と「過程」ですね。 失礼かと思いましたが、自分で整理するために、 いただいた回答を私なりに翻訳してみました。 好きな写真の話に置き換えています。 =============== 写真を撮る時、 シャッターを押すか押さないか以前に そもそも、景色を見て歩き、対象を見いだし カメラを向け、ピントを合わせなければならない。 ファインダーに切り取られた風景が、 自分が撮りたい心象と重なった時はじめて シャッターを押す、押さないという二者択一が発生する。 そのような一連の流れの中で 撮るという行為を考えた時、 シャッターを押すか、押さないかはあまり重要ではない。 そこだけを取り出して、撮る行為を語るのは無理がある。 そもそも写真は、 景色と自分との関係と、そこにいたる 捉えきれない流れの中から生まれるのであって、 シャッターを押す、押さないという 単純な二者択一から生まれるわけではない。 シャッターを押さなければ写真にはならないが、 写真にしなくとも、その風景はそこにあるし、 そこまでの経験も失われたりしない。 =============== つまり、私と妻、私たちを囲むたくさんの人たち、 つきあった時間(けっこう長い)と 過程(相当いろいろあった)の中から 結婚というものが生まれたのであって、 私が「する」と決めたから結婚が生まれたわけではない ということですね。目ウロコ。 ここまでの幾人かの回答者さんがおっしゃろうとしていた 意味が、ようやくつながったかんじもしています。 翻訳がトンチンカンだったらごめんなさい。 私の中では勝手に腑に落ちております。 丁寧なご回答、本気で感謝いたします。