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歴史上、戦を指す「役」について

教えて!gooでも過去に何度か質問があった「戦」「役」「変」「乱」等の 区別ですが「戦」「変」「乱」はともかく「役」についてが良く解りません。 >「役」は他国との戦争(明治前期よりも以前に限定)や辺境(周縁地域)での戦争に対して   http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=381537 >役~上記のルールが決められる前の、他国との戦争のこと。   http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=317097 と紹介されていますが例にも挙げられている「弘安の役、前九年の役、 慶長の役、征台の役」を見る限りではそうかとも思えるのですが 旧陸軍参謀本部編纂の戦争記録では 「関ヶ原の役」「桶狭間の役」「大坂の役」等の項目が設定されています。 関ヶ原も桶狭間も、ましてや大阪も外国や辺境ではありません。 (参謀本部以外の書籍でも  「関ヶ原役 -合戦とその周辺-」松好貞夫著 人物往来社刊(昭和39年)) 征台の役は台湾出兵と同義語の様に扱われておりますが当時はどう呼ばれて いたのでしょうか? 出兵時から「征台の役」と呼ばれていたのか?台湾併合後に用いられる様に なったのか?(調べが付きませんでしたが) 思うに「役」とは「他国・辺境との戦争」という定義ではなく「合戦」「戦争」 そのものをさす言葉であり、単に古い用法であるという気がするのです。 多くの役は後に改められましたが広く固定され浸透してしまったものについては 「役」のままで定着してしまった・・・(教科書の影響が多大?)と思うのですが。 ちなみに私が勉強していた山川の高校日本史教科書では 「前九年・後三年・文永・弘安・文禄・慶長」~役と名付けられたその全てが 何故か( )付きで掲載されていたかと記憶しています。 専門的にはどう扱われているのでしょう???

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  • d-y
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回答No.2

まず、手元の国語辞典や漢和辞典を引いてみました。「役」という字には、次のような意味がありました(もう辞典はしまっちゃったので、正確な引用ではありません)。 1. (おおやけの)役目 2. (賦役としての)国境の警備 3. (人民が徴発・動員されることから)戦争 以上から推測すると、「役」は、「他国・辺境との戦争」というような相手や場所に着目した言葉ではなく、「ある程度公(おおやけ)の性質をもった義務として将兵が動員・徴発されていること」に着目した言葉ではないかと思います。 関が原の役、大阪の役は、天下人たる家康が諸大名を動員した戦いでした。征台の役は徴兵された兵士が戦ったんですよね。前九年の役も外国・辺境での戦いだからで「役」ではなく、この戦いを京都の朝廷側から見ると奥羽地方での朝廷の権威確立・治安維持のため、源氏と現地の豪族を動員して逆らう者を征伐した戦いだったから「役」なのではないかと思います。 上に書いたように辺境警備も「役」といったようですから、それで辺境・外国の戦いを「役」と言う考え方もあるでしょうが、私としては、例えば諸大名が「関が原でのお役目は大変だったなあ」と言ったり、家康が「大阪でのお役目ご苦労であった」と言ったりするような言い方から、役目を意味する「役」が次第に戦争そのものを意味するようになったと考える方が自然だと思います。 裏づけ・根拠のない個人的な推測・意見です。専門的でなくってごめんなさい。

gokuh_
質問者

お礼

ありがとうございます。 > 裏づけ・根拠のない個人的な推測・意見です。 あぁ、でも確かに「役」という文字は「賦役」「懲役」等の「役」に語源が通じるかもしれませんね。 軍事行動・軍務集合のような感じかな? 「戦の中の役」ではなく「言葉の意味としての役」から調べると何か手がかりがでてくるかもしれません・・・その方面も探ってみます。

回答No.1

たぶんに当て推量ではありますが、 基本的に、「役」とは他国との戦争を指す言葉でいいと思います。 >「関ヶ原の役」「桶狭間の役」「大坂の役」等の項目が設定されています。 >関ヶ原も桶狭間も、ましてや大阪も外国や辺境ではありません。 とありますが、関ヶ原も桶狭間も、当時の認識では充分他国であったと思います。 日本の六十余州、武蔵の国、陸奥の国、相模の国などなど、それぞれが国としてとらえられていたので、当時の認識からしたら、外国ではないけれど、他国ではあったろうと思います。 桶狭間の合戦も、美濃の国の斎藤さんと尾張の国の織田さんが合戦したので、それは他国間の争いになるのではないでしょうか? 明治の維新後、日本人の中に現在の意味での「外国」という存在が認識され、それまでは日本の中の地域を「国」といっていたのが、「県」という呼称に改められ、戦争に関する表記もかわってきたというのはどうでしょう? 明治十年の西郷の反乱を、「西南の役」というのは、まだその頃は鹿児島県は他の地域からしたら見知らぬ外国であったということだと思います。 だって、そのころなんて日本国内でも鹿児島県民と青森県民では会話も満足にできないくらい、日本の中で言葉や習慣・文化のちがいがあったのですから。 と、専門的でない意見でしたが、考えてみました。

gokuh_
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ん~でも > 関ヶ原も桶狭間も、当時の認識では充分他国であったと思います。 とすると、何処に対しての「他国なんでしょう?」 > 六十余州、武蔵の国、陸奥の国、相模の国などなど、それぞれが国としてとらえられていたので・・・ とすると国と国と行政区画をまたがる争いを「役」? ちょっと違うような気もするのですが・・・。 「西南の役」を九州は辺境の地だからとするならば誰が「西南の役」と名付けた のでしょう? 確かに遠国ではありますが「前九年の役・後三年の役」の頃の東北地方とは違い 立派な日本と言う国の一地方だったと思われますし、第一、維新政府を牛耳るのは 薩長土肥。 薩摩自体は兎も角、長州・土佐・肥前とてbrainbasterさんの論ですと立派に外国となってしまうような気がします。

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