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「笑って死ぬ」人生観について
「笑って死ぬ」ことを人生の目標にする意見を多くききますが、共通することは、死期がまじかに迫った状況の中で自分の人生を振り返り、納得して死んでゆく、ということのようです。しかし、このような考えはかなり楽観的ではないでしょうか?なぜならこのような考えは、特に肉体的な苦痛もなしに、安らかに死ねることを前提としているように思えるからです。しかし人間はどのような死に方をするか想定しきれないと思います。死の現実を前にしていない時に臨死の状態を想定しても、いざ、自分が死の現実の前に置かれたら、心身がどのような状態になるかわかりません。人生を振り返る余裕などなく、ただ激痛に苦しみながら死を迎えることになるかも知れません。臨死の状態は様々なケースが考えられます。その中の一つの可能性を人生の目標として重きを置くことは、人生観としてはあまりに狭いのではないでしょうか?もちろん、人生をどのように考えるかは個人の自由であり多様であって然りです。私はただ、「笑って死ぬ」ことを目標にしている方々と対話したいのです。攻撃しているわけではないので、くれぐれもお間違いなきようお願い致します。ちなみに私自身は、どのように死ぬかではなく、どんな死に方をするにせよ、命ある限り、自分らしく生きてゆきたいと思っています。ご意見をお聞かせ下さい。
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質問者が選んだベストアンサー
>「笑って死ぬ」ことを人生の目標としている人々 >かかる人々の考えはプロセスよりも結果に重きを置くのです 本当にそうですか? 死ぬまでに後何十年かあるとして、この思いだけで生きていけるでしょうか。 良い結果を生むためには良い方法(プロセス)を用いなければならないはず、ならば良い結果は必然的によいプロセスと言えないでしょうか。 結果とプロセスは等価でありそういう意味で、プロセスよりも結果に重きを置くは不可能だと思います。 もう少し彼らへの観察が必要じゃないでしょうか。
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- adaypajimy
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いや、苦痛に顔をゆがめて死ぬほうが、思想的に狭いと思うよ。 遺族や現在に末期ガンの人に大変申し訳ないけれど、自分は末期ガンになって、モルヒネ打たれまくって苦痛を感じながらも理性を保って笑って死にたいと思います。笑いに拘るわけではありませんが、泣いてどうしろというものでもありませんから、生を達観したという意味で笑いたい。 苦しいというのは自己に向かう意識です。 笑うのは他者か別の事象…例えば、 世界に向かう表現ではないでしょうか。 苦しいのは自分です。しかし、笑うという行為は、自分で自分を笑っているわけではありません、自分生命がこの世界にあったこと…それがほほえましく思える。ただ家族でも子供でも世界や社会に対する自分の取り組みでも何でもいいのですが、それらと関わってきた自分を思い返せば笑えるということだと思いますが。 苦しみを感じるだけの人は、自分が一番かわいいというだけの狭い思想です。意地でも笑うのは…見苦しいのではなく、現世への思いです。(別に私は仏教徒などではありませんので)
お礼
ご回答を感謝します。笑いは世界に向かう表現、たいへん参考になりました。
- dai-ym
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「笑って死ぬ」ことを人生の目標にするということは何も本当に死ぬ瞬間に笑うことを目指しているのでは無いです。 そういうくいのない人生を歩むと言うことの比喩ですよ。 交通事故でもの凄い痛い思いをして死ぬにしても、病気で寝てる最中にそのまま息を引き取っても、 悔いが残らない人生をあるんで居ればいいのです。
補足
ご回答を感謝します。比喩としての「笑って死ぬ」ですね。参考になりました。
- boke-chan
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いつも泣いている人が、死ぬ前だけ笑って死ねません。 いつも怒っている人が、死ぬ前だけ笑って死ねません。 笑って死ぬとは、笑って生きるという事です。 笑って生きる事は、難しい事です。 日常の悩みや、苦しみを乗り越え、 いつでも「死」が身近にある事を感じながら、 それでも笑えるような心を持ち続ける事が必要になりますから・・・。 私は「笑って死ぬ」事が目標ではありませんが、 「後悔の無い死に方」をしたいと思っています。 その為には、後悔の無い生き方をしたいと考えます。 その為に・・・(以下略)
お礼
ご回答を感謝します。言われてみればそのとおりです。しかし、私が問題としている人々は、「死ぬ時」ということを強調するのです。臨終の時、臨死の時に、「笑って死ぬ」ことが目標であると言うのです。もし、笑って生きることが目標なら、何も「死ぬ時」を強調する必要はないはずです。私見では、かかる人々の考えはプロセスよりも結果に重きを置くのです。たとえ人生が波乱万丈で苦しいことが多くても、要は人生の最後の瞬間に自分が納得して死ねればそれでいい、という考えなのです。ですから、おっしゃるような深い考えで「笑って死ぬ」と言っているわけではないと私は感じています。それで疑問を抱き、ご意見を求めた次第です。参考になりました。
- code1134
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質問者さんを非難する意図は絶無ですが、人間なる存在は >死の現実を前にしていない のではなく、単に常時「本来は前にしているのに(!?)それを殆ど意識してい(or意識したく)ない」、のではないでしょうか? 生まれた瞬間から(死の現実は兎も角としても)死は厳然と前に(しかも時として恐怖になり得る)概念ですし、例え1時間でも経過すれば、何才かに関らず、生ある限り、死に近づく宿命から逃れられぬ存在こそ人間なのですから。 「無論故なく他人を笑い、嘲笑しつつあの世に直行は褒められ得る」とは考えませんが、自らの生き方や生き様を振返りつつ、笑うのなら構わぬ気はしますね。 例えそれが>激痛に苦しみながら、であってもです。 確かに私も激痛に見舞われれば耐え難く、悲鳴を上げるかも知れませんけど、それが治療中の事で担当医の売上に結び付くとの考えに立つなら、内心笑いながら他界する場合なきにしも非ず、なのかも知れません。
お礼
ご回答を感謝します。言われてみればそのとおりです。厳密には常に死を前にしております。私が問題としているのは、臨死とか臨終といった状況で、笑って死ぬことを目標としている人々です。実際に、そのような人々がいるのです。と言ってもそれは個人の自由ですが、私には疑問に思われました。その、臨死や臨終の時に、人生を振り返るような余裕などないかも知れないからです。「臨死」と言っても、いわゆる「臨死体験」の「臨死」とは必ずしも同義ではなく、死の直前、もしくは最期に意識がなくなるまでの短い時間という意味です。その最期の時間、確率的に言っても、自分が想定するような心身状態でいられるかは予測できないのに、その可能性の一つを想定し、しかもそこに重きを置く人生観というものが浅いのではないだろうか、と思い、ご意見をうかがった次第です。参考になりました。
- ri-zyu
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難しく考えないで、答えますと、幸福な人生を送りこの世に未練なく死ねたらという意味だと思います。そうすると笑って死ねる。 難しく考え答えますと、生きると何ぞや、死とは何ぞや人生とはなんぞや等々をカイケツしたら未練なく笑って死ねるという事だと思います。
お礼
ご回答を感謝します。しかし残念ながら、私が問題としている人々の考えは、「幸福な人生を送り」という面はまったく見えないのです。むしろ人生の過程については重きを置かず、最期の瞬間に重きを置いているのです。だから疑問を感じた次第です。もちろん個人の自由ですが。参考になりました。
- envrio
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この場合の笑って死ぬというのはそういう即物的な意味ではないと思いますが。 たとえば戦争に行って死ぬとしますが、銃弾に撃たれて死ぬのは辛く苦しい物です。しかし、自分菓子を迎えるその瞬間に敵を蹴散らし自軍が勝利していて自分の国や家族や我が子などといった自分の命よりも優先したくなるほどの大切な物を守り抜けていたならば、たとえ辛く苦しい死であってもそれは満足な死であり、笑って死ぬことのできる死でしょう。 要は、置かれた状況下においてやれるだけのことやれるだけやったという満足を得られるように一生懸命生きましょうということなのではないでしょうか。
お礼
ご回答を感謝します。私が問題としている「笑って死ぬ」というのは、臨死とか臨終と呼ばれる死の直前に、人生を振り返って満足するのか何かはよくわかりませんが、とにかく「笑って死ぬ」ことを人生の目標としている人々です。実際にそのような人々がおられるのです。もちろん個人の自由です。ただ、死の直前、と言っても意識がなくなるまでの最期の時間と言ってもよいですが、その最期の時間に自分の心身状態がどのようになっているかは予測できないのに、その可能性一つに人生の目標を置くという考え方について疑問を感じ、ご意見を伺った次第です。参考になりました。
お礼
ご回答を感謝します。たしかに事例が少なく、観察は浅かったと思います。結果とプロセスは等価である、たいへん参考になりました。