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ヘブル書に引くエレミア書の新しい契約とは?
- 神がイスラエルの人々と結んだ新しい契約について詳しく教えてください。
- 最初の契約が欠けたところのないものであれば、第二の契約はなかったでしょう。
- 神の新しい契約は、彼らの不義を赦し、罪を思い出さないというものです。
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>教会とはなにか、ということにこの問題の鍵があります。 こんな謎めいた言い方をしたのは、教会の研究だけでもいくら時間があっても足りないくらいであり、たかだか数行で教会とはこうだとは言い切れないからです。 ただ、教会の原点はマタイ18:20の、2人または3人集まるところに私(イエス)もいる、ということに尽きると思います。そのエクレシアこそが教会であり、その意味ではおっしゃるとおり家庭が教会であり、そして万人が祭司です。その頭がキリストとなります。 それでは現在の諸教会は間違っているのか、ということになりますが、答えは、その通り間違っている、となります。その根拠は、どの教会も自分達の教会が真の教会と思っているところにあります。自分達の教会こそ、イエスが共におられる教会と思っているからです。 幾千にもあるいは万にも分裂した教会のどれか1つが正当な教会であるはずがなく、その意味でもすべてが間違っています。 それでは教会があること自体が間違っているかというと、それはそうではないと思います。そこに教会の生い立ちを研究する必要性がでてきます。 使途時代の集会は、それこそ2人、3人が家庭に集まるものであり、牧師職があるわけでもなく、ただリーダー的な人の家にてキリストの教えを勉強したものと思われています。 やがて、それが拡大するに従って、偽教師の潜入を防いだり、あるいは教えを正しく伝承するために、組織としての結束が必要になってきます。 コンスタンティヌスのキリスト教解放により、さらに強固な組織、カトリック教会が発足し、教えを正しく伝承することに努めますが、政治的な力を持つようになり、シビリアン・コントロールをするようになってから道を踏み外します。また聖書を庶民から隠蔽し、都合の良いように改ざんし始めます。 やがて有名な免罪符をきっかけとして、ルターの宗教改革となります。 宗教改革により、聖書は庶民のものとなります。ルターは、キリスト教伝承の立場から教会そのものは廃止しませんでした。また、イエスが制定したとされた洗礼と聖餐式も廃止しませんでした。 この洗礼と聖餐式を残したがために、今日数え切れないほどの宗派、団体が存在します。 これは、教会が間違っているととるのではなく、教会のありかたを間違って解釈していると考えます。教会とは形式主義を行うところではなく、聖書に基づいて神の言葉を正しく伝えるところです。 キリストの教えを守り、正しく伝えるために、教会という組織があり、規則があることは、教えを正しく伝えるという意味においてあって当然のものと思います。 ただ、そうした教会を必要としない人たちがいることも、いたって当然なことです。 かいつまんでいうと教会の歴史は上記のようになりますが、家庭が教会の基本であることは今でもなんら変わりないと考えています。 教会はキリストの教えを守るために必然的に生まれてきたものであり、あって当然と思います。 しかし、そこに形式主義を取り入れて、洗礼を受けなければならないとか、10%献金をしなければ神に反するなどというのは間違って教会を解釈しています。イエスはそのようなことを一切言ってもいなければ制定もしていません。洗礼も伝統ある深い意味のある儀式であり、献金も組織の運営には必要です。しかし、それを義務としたとき、つまりそれを行っていなければクリスチャンではない、というのであれば、それは間違っていると考えます。 Brageloneさんの質問に立ち返って、家庭が信仰の基本であり教会であることは上記でも記載した通りです。また、国家はその家庭の集合体ですから、国家が主の家というのもその通りだと思います。 しかし、その国家と政治国家とはまったく別です。なぜなら、政治国家はこの世のものですが、信仰国家はこの世のものではありません。
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- stonepillo
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名指しされたものではありませんが、基本的なことをいくつか。 まず、ヘブル書はパウロ書簡ではありません。読み人知らずです。 それから旧約の考え方ですが、古びて消えうせるのではなく、成就したということです。消えうせるのではなく完成して基礎となったということです。 われわれは全く新しい契約に生きるのではなく、古い約束を土台とした新しい約束に生きます。新約は単独ではおそらく違う宗教になっていたと思います。天地創造からキリストそして最後の審判のストーリーには、古びて消えうせるものはありません。 以上が一般的なプロテスタントでの考えと思っていますが(カトリックのことは知りません)、質問された方の考えはちょっと違うようなので、宗派によっては解釈に違いがあることをここで明記しておきます。宗派による解釈の違いを論じようとは思っていません。 題目のエレミヤ書ですが、書いてある通り、新約の訪れを予言しています。 その新約の世界では旧約の世界とは一転して、王や祭司等が神の言葉を代理するのではなく、神と民が直結の関係となり、新約の最大の特徴である罪の許しもここで予言されています。
補足
ご回答をありがとうございます。 いえいえ みなさんのご見解もお伺いしたいです。ありがとうございます。 (1)パウロの書いたものではないという点につきましては 仕方ありません。エレミア書の内容として取り上げることにします。 (2)旧約は 《古びて消えうせるのではなく、成就したということ》の中身として このヘブル書も たしかに《年を経て古びたものは、間もなく消えうせます》などと字面で言っていますが エレミア書からの《わたしの律法を〔モーセの時のように 石の板にではなく〕彼らの思いに置き、/ 彼らの心にそれを書きつけよう》という文句を引用しているわけですから それほど逸れてはいないようです。 (たしかにパウロが 律法規範主義のような行き方を批難していますが 律法じたいは 聖であり霊ですから その同じ律法が 成就するという内容を ヘブル書も含んでいると言っていいでしょう)。 (3)★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 題目のエレミヤ書ですが、書いてある通り、新約の訪れを予言しています。 その新約の世界では旧約の世界とは一転して、王や祭司等が神の言葉を代理するのではなく、神と民が直結の関係となり、新約の最大の特徴である罪の許しもここで予言されています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おおむね おっしゃるとおりだと思うのですが 《罪の赦し》にかんして もう少し詳しくおしえていただけると有り難いです。 つまり 《わたしは、彼らの不義を赦し、/ もはや彼らの罪を思い出しはしないからである》という文句をどう解釈するかです。もし《〈主を知れ〉と言って教える必要はなくなる》ということが――《宣教という愚かな手段》を 歴史的に介しつつですが―― 教団の必要がないということでしたら もう《神と民が直結の関係とな》る個人の信仰のみで生きていくと言ってよいように思うのですが いかがでしょう。
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補足
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 二人または三人がわたし(イエス)の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。( マタイ18:20) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ BRAVO!!! ヤッホー ワアーイ イエーイ(この語は恥づかしい)!!! 《教会》について この原点をおそわったのは初めてです。 ★ 家庭が信仰の基本であり教会である。 ★ 国家はその家庭の集合体ですから、国家が主の家というのもその通りだと思います。 しかし、その国家と政治国家とはまったく別です。なぜなら、政治国家はこの世のものですが、信仰国家はこの世のものではありません。 ☆ 後者については のちまた 取り上げます。エクレシアおよびチャーチについて このように明確におっしゃっているのを聞いたのは やはり初めてです。 だから 洗礼を受けないというわけではありませんが 信仰を与えられた当初から 社会が キリスト者の仕事の場だと思っていました。 ご回答をありがとうございます。質問というものは してみるものですねぇ。 ★ 現在の諸教会は間違っている・・・その根拠は、どの教会も自分達の教会が真の教会と思っているところにあります。自分達の教会こそ、イエスが共におられる教会と思っているからです。 ☆ そうですよね。(もう そのことには鈍感になっていました)。排他性は 途中から現われたのですね。ルターは 形態・制度じたいは 中立なものだと認識したということですね。 ☆ わたしは ローマは 人を殺し過ぎたと単純に考えます。プロテスタントたちも 挑発に乗り 血を流しすぎました。一たん自己解体して 百年・二百年 時の経過を見守るべきだと考えています。頭を剃るだけでは 償えません。 ☆ 教育施設・研究施設そしてそこは自由な交流の場であること これでよいと思うのですが。 ☆ さて この世の共同自治の問題です。R.A.マーカスという人の研究成果の請け売りですが 次のように考えています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 世界( the sphere of politics )とは 相対的で有限なものである。この有限の領域において 世界は 自律している。ただ 神の国の市民(キリスト者)にとっては まさに この世界の自治ということにおいて それ(世界)とは 無縁ではありえない。 〔これは〕人間という存在の・世界とのかかわりを見つめることを通しての そしてそれが もっとも熟した段階でのアウグスティヌスの考察の一部を成すものであり これはまた 〔わたしたちが巡礼の旅路を行くその〕世界( saeculum )というものを 《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国 ( Civitas Terrena )とのあいだの 非武装中立地帯( no man's land )として》 見るのではなく 《これら二つの国が互いに入り組んでいて むしろその国境は分ち難 く組み入っており その見分けがつけられるのは 人がただ終末を見 通しえた時のみであるという そのような現実の中に 位置する或る 時間帯( temporal life )として》 見るというかれの理解から 発しているものである。 ・Robert A. MARKUS: 《 Saeculum :History and Society in the Theology of St Augustine 》; 宮谷宣史・土井健司訳『アウグスティヌス神学における歴史と社会』 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ と言います。 国家という単位体が 固定的なものだとは思わないのですが というより 自治体(市町村)の連合に仕える連絡調整の機関になっていくと思うのですが この世という世界の共同自治については キリスト者の見解を 明らかにしたほうがよいと考えます。 ★ 政治国家はこの世のものですが、信仰国家はこの世のものではありません。 ☆ から一歩 進めたかたちをマーカスは アウグスティヌスに拠って 述べているのだと思います。まぁ 世界全体が 主の家だと言ったほうがよいかも知れません。そうすれば 信仰が 民族や何やかやに左右されることはなく けっきょく透明になると思いますし。他の信仰と その信仰の形態・あり方として 互いにまったく 同等であり 差異を認め合っていけると思います。どうお考えになるでしょう。 エレミアがそのことを言葉にしたし イエスがキリストとして実現させたと思うのですが。