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「忍耐の徳」の意味を教えてください
祖母が、昔自分が辛くて辛くてたまらなかったとき 「知り合いのクリスチャンの人から『忍耐の徳』という言葉をきいて その言葉にすくわれた、それが人生の教訓になった」 という話をしてくれました。 この言葉の意味を、私も正確に心にとめておきたいのですが 残念ながら教えてくれた祖母は認知症が進んでしまって、 いまはもう直接聞くことができません・・・ ご存知のかたがいましたら、 教えていただけませんでしょうか。 どうぞよろしくお願いいたします。
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「苦しんだ分だけは、必ず光が差し込む」です。
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- magga
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キリスト教の考えを私は知りませんが。 忍耐・堪忍はいいことだと思います。 苦しさに飲み込まれ感情的にならないように堪える。これは自分も守ることになるし、他人に迷惑をかけないことにもなる。 周りの物事に対して怒ったり・欲張ったりする気持ちを抑える。これも自他共に守ることになるでしょう。 怒ったり・欲張ったり・違う見解を持っている人に対して、その状態にいると確認し、自分は感情的にならないように、柔軟な見解を持とうと心がける。これも。 そこに慈悲の念を入れれば、自分が一番守られるし、周りの人々も守ることになる。そのような意味ではないでしょうか? 上座仏教でも「忍耐堪忍は最上の修行」といいます。 充実感を持つために欠かせないものだと、私は思います。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
お礼
上座仏教でも同じような考えがあるのですね。 さまざまな宗教で「忍耐」についてなにかしらの考え方があるとわかりました。ありがとうございました。
- ri-zyu
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キリスト教とは違いますが禅の先生で鈴木大拙先生の本を読んだ事があります、その中に宗教の本質を解るには寝食を忘れ一生懸命学んでも解るものではない、苦しんで苦しん苦しんで追い詰められて立ち上がりまた落ち血反吐くまで苦しんで死ぬくらい追い詰められ其処から蘇生して初めて解ると。クリスチャンの方がおしゃった、「忍耐の徳」とは耐え難き苦しみに耐えて初めてイエス様の真意がキリスト教の救いの本質が判り救われるのかもしれませんね。
お礼
禅の世界にも少し似た考え方があるのですね。 祖母は宗教に興味があったわけではないので、イエス様の真意を理解したいと思っているわけではなさそうですが、自分なりの解釈で十分すくわれ、納得しているようでした。ありがとうございました。
- ANASTASIAK
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>クリスチャンの人から『忍耐の徳』という言葉をきいて このことばから私はイエス自身のとばやパウロの書いた 手紙の中のある個所を思い出しますが、そのクリスチャ ンの方がどういう徳を指して言われたのかはわかりません。 イエスは耐えることの大切さを説いています。その先には 光があるからですが、有名な山上の垂訓の教えにならえば、 いま不幸せな人は幸せ以外に見るものはないから最も幸せ な人だとも言えるのです。そこにあるのは希望です。 パウロはまた忍耐の慰めということを言いました。喜びを 自分だけのものとしないで、自分を犠牲にして隣人の徳を 高めなさいと教えています。それが忍耐の慰めです。母親 の子に対する愛にもたとえられるかも知れません。だれで もわが子を放置して自分だけの幸せを求める母親はいません (最近の日本では悲しい事件がありますが基本的には愛は 確かなものです)。あなたのお母さんもあるいは自分の苦 しさを超えてあなたへの愛を優先されたのかもしれません。 もし聖書をお持ちでしたら、 「マタイによる福音書」10章22節 「ローマ人への手紙」第14章15節 をお読みください。さらにご理解いただけると思います。
お礼
聖書は一度も読んだことがありませんのでなかなかすべてを理解できませんが >イエスは耐えることの大切さを説いています ということで、祖母はそのあたりが心に響いたのだと思います。 ありがとうございました。
- cyototu
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どういうわけか、人間て苦労をし、苦しまずに手に入れたものにはすぐに飽きてしまいます。苦しめば苦しむ程、それから抜け出せたときの安堵感、達成感、充実感は大きくなるようです。 勿論、苦しんだまま終わってしまう方が何人もいらっしゃるのは承知しています。でも、そうだからといって、上で述べた事には変わりありません。 私は冗談に「多分これは人間としての業の結果、すなわち前世で皆何か悪い事をした結果で、今世で罰が当たっているのだ。だって、楽して手に入れたもので本当の意味で幸福感を持続して味わえるほど素晴らしい事はないじゃないか。私もそんな経験をして見たい。う~~む、でも少なくとも私にはそれが不可能なようだ。残念」と友人によく言っています。 でも、安心して下さい。東西南北上下、空間の十方にそれぞれある浄土を司る佛様が何柱もいらっしゃいますが、一つだけ例外的に特異な浄土、すなわち極楽浄土で西方を司っている阿弥陀様がこの業をもった私達人間のためにおいでなさいます。その他の浄土は、すべて何か善根を成し、諸々の佛様を喜ばせる事が出来た優れた者だけに入場が許されておりますす。しかし、極楽浄土だけは、不完全で何の取り柄も無くただただ苦しみを味わっただけの我々凡人達に、その大きな苦しみの後に来る、より大きな安堵感、達成感,充実感を味あわせてくれるために、すなわち、「忍耐の徳」ばかりでなく、「忍耐出来ずに苦しんだ者」のためにも開かれています。極楽への入場資格は、ただ「私は神を信じます」、おっとそうじゃなかった、「阿弥陀様お助け下さい」だった、を唱えるだけだそうです。そんなことが源信の往生要集の中に書いてありました。 親鸞の「悪人正機」と言い、源信の「極楽浄土」と言い、佛様も西洋人ごひいきの神様に遜色がなく、結構粋な方ですね。
お礼
ありがとうございます。仏教でも同じ考え方があるということですかね? すべてを理解できませんが冒頭の雰囲気からいって、「苦しみが大きければ大きい(または多ければ多い)程、それから抜け出せたときの安堵感も大きい」ということでしょうか。また後半は「最悪、阿弥陀さまがいる」(←専門の方にとっては言葉が適切でないかと思いますがご容赦ください)ってことですかね。たくさん書いていただき、ありがとうございました。
ことばを並べても はて どうしたものだろうとなると思いますが なぞを持って 進まれるのも よいと考えます。そういうわけで 文章の引用のみを とりあえず かかげます。 愛は忍耐強い。 愛は情け深い。 ねたまない。 愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。 預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部 分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、 幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。 だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。 わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知ら れているようにはっきり知ることになる。 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。 その中で最も大いなるものは、愛である。 (パウロ:コリント人への第一の手紙13:13-41)
お礼
ありがとうございました。
補足
ありがとうございます。 おっしゃるとおり全く読み解けていないですが… いろいろなかたの解釈をお伺いしたいので、みなさま引き続きよろしくお願いいたします。
お礼
ありがとうございます。 とてもピンとくる解釈でした。 辛くて視野狭窄になっているときはとくに 気がふっと楽になるような言葉ですよね。 ありがとうございます。