- ベストアンサー
誰か教えてください
まずは次の問題を見てください Q藤原氏はどのようにして、摂政や関白の地位につき政治の実権をにぎったか。40字以内で書きなさい A他の貴族を退け、娘をきさきにして、その皇子を天皇にたてたりし た。 これは公立の高校受験にでた過去問です。このような問題は今まで学習をするなかでたくさんありました。 次の答えじゃダメでしょうか? 「自分の娘を天皇と結婚させたから」 とても短いし、上の回答を見ると間違ってるように思うのですがどなたか教えてください。また上の回答よりも簡単で覚えやすい解答がありましたら教えてください。 あと、鎌倉幕府の開かれた年について質問です。1192年と学校では習いました。ごろあわせと一緒に。しかし、最近テレビを見てる中で 「源頼朝が征夷大将軍になった年が鎌倉幕府が開かれた年」 というふうにあってました。 そこで疑問に思ったのですが、もしもテストで出た場合どのように答えればいいのでしょうか?学校の先生に聞いたこところテストには絶対にでないといわれましたが少し心配なので回答お願いします。 長くなりましたけど誰か教えてください
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
No2です。根拠をはっきりと示しませんでしたので資料を利用しながら追記します。 中学の模擬テストの問題に関することとが前提ですので、本来は中学の教科書を基本にすべきなのですが、手に入れることが出来たのが山川出版社の高校日本史教科書「詳説 日本史」ですので、その記述を参考にしながら考えて行きたいと思います。(「詳説 日本史」は都内の書店で買えますのし、問題になるほどの権威ですので) 摂関政治の成立の時期を考えるときに、天安2年(858)の良房の摂政就任から、治歴3年(1067)の頼通引退までを一般的には想定されますが、良房・基経の二代または忠平を含め前期摂関制として摂関政治に含めない考え方もあります。 この件については、『詳説 日本史』では、安和の変までを「藤原氏北家の発展」として、次の「摂関政治」の見出しで、「摂政・関白が引き続いて任命され、政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀ごろの政治を摂関政治とよび、…」しています。これは、他氏排斥を前期摂関制での出来事とし、摂関政治に含めない考え方からです。この部分の記述は「藤原氏北家の発展」に、「村上天皇の死後の969(安和2)年に、左大臣の源高明が左遷されると(安和の変)、藤原氏北家の勢力は不動のものとなり、その後は、ほとんどつねに摂政または関白がおかれ、その地位には藤原忠平の子孫がつくのが例となった。」としています。 前期摂関制を摂関政治に含める、含めないはともかくとして、前期摂関制がその後の摂関政治の展開と違いがあることは確かです。そのためにも、良房以来頼通に至るまでに12名の摂政関白が誕生しますが、その最初の摂関任命時の身内関係および任命直近の官職を見ていきましょう。次に一覧を作ってみました。( )内は任命直近の官職ですが、直前に摂関就任のために官職を急に上昇させた場合はその官職も記述しました。数字は序列の番号です。(道長については実質的な摂関としての内覧時) 良房は娘の明子の子、清和天皇の外祖父として摂政に。(太政大臣(1)) 基経は妹の高子の子、陽明天皇の外伯父として摂政に。(右大臣(2)) 忠平は姉の穏子の子、朱雀天皇の外叔父として摂政に。(左大臣(1)) 実頼は近親ではなく、冷泉天皇の関白に。(左大臣(1)) 伊尹は妹の安子の子、冷泉天皇の外伯父として摂政に。(大納言(5)→右大臣(2)) 兼通は妹の安子の子、円融天皇の外伯父として関白に。(権中納言(11)→内大臣(3)) 頼忠は近親ではなく、円融天皇の関白に。(左大臣(1)) 兼家は娘の詮子の子、一条天皇の外祖父として摂政に。(右大臣(3)) 道隆は妹の詮子の子、一条天皇の外伯父として関白に。(内大臣(3)) 道兼は妹の詮子の子、一条天皇の外伯父として関白に。(右大臣(2)) 道長は姉の詮子の子、一条天皇の外叔父として内覧に。(権大納言(7)) 頼通は姉の彰子の子、後一条天皇の外叔父として摂政に。(権大納言(7)→内大臣(4)) これを見ると、天皇の外祖父であるもの2名、外伯叔父8名、その他2名です。圧倒的に外伯叔父としての摂関就任が多いことが分かります。中学では使用するかどうかは不明ですが、天皇の母方の祖父・伯叔父=外戚であることになります。 さらに、良房・基経の二代または忠平を含め三代は官職において最高位にあり(基経については実質と言うべきですが)、政治権力を握っています。さらに良房の承和の変・応天門の変、基経の応天門の変、時平の道真左遷、実頼時の安和の変などのています。 また、大分専門的になりますが、前期摂関制においての摂政・関白の任命には、最高の官職でありながら職掌がはっきりしていなかった太政大臣の職掌の明確化という問題(関白と言う言葉が最初に現れるのが、官職名ではなく「関わり白す-かかわりもうす-」という職務内容を表す動詞であったことにも表れます)。陽成天皇の廃位と、光孝天皇の擁立、臣籍にあった宇多天皇の擁立などの擁立の臣である基経の処遇(阿衡の紛議など)。以上のような律令が想定していない事態への対処という面もあり、摂関制度が定着するまでの時間と考えられます。 前期摂関制についての条件節ということについてまとめるならば、摂関制度が定着するまでの時期であり、外戚であり、政治権力を握り、他氏排斥が行われ、というようなことではないでしょうか。 次の時期の伊尹(実頼は外戚でもないので除外しておきます)以降を見ると、摂関就任前の官職が大臣ではなく、納言が多いことが目に付きます。序列1位は誰もいません。政治権力を握って摂関に就任するのではなく、摂関に就任することにより政治権力を確立していった時期といえます(摂関になってしまうと権力は安定します)。また、外伯叔父であること、安子・詮子・彰子の兄弟と言うことも目に付きます。安子・詮子・彰子は「国母」と呼ばれる立場にあり、絶大な影響力を子である天皇に持っていました。伊尹・兼通・兼家は安子の同母兄弟、道隆・道兼・道長は詮子の同母兄弟、頼通は彰子の同母兄弟なのです。当時は多くの妻と、その間に多くの母が違う子供がいましたが、子供は生母の身内-祖父母や伯叔父など-が面倒をみる習慣があり、母親を含め母方の影響力が強くなる背景でした(天皇家の場合も同じで、摂関制度の成立の背景でもあります)。ですから、母が違うと同じ父親の子供と言えども一体感は持ちづらかったと言われています。逆に、母方は夫を含め子供の面倒を見ることになります。母方の(国母を含め)摂関が天皇の後見(うしろみ)として天皇を支えることも、この関係の中で理解されます。摂関は摂関家から選ばれ、摂関は常置される中で、誰が摂関になるかは、外祖父がいない場合は外伯叔父となり、同母兄弟間の争いが激しくなります。「兼通・兼家」と「道隆・道兼・道長」の同母兄弟間の争いがこれに該当しますが、これ以外に道長と甥の伊周(道長の兄道隆の子)の争いも有名です。これに決着をつけたのが国母と言われた安子・詮子です。兼通が自分より官職で上位にあった同母弟の兼家を抑えて摂関に就いたのは、亡き同母妹安子の「摂関は兄弟の順に」と言う遺言の存在であり、道長がやはり官位上位の甥の伊周を抑えて摂関に就いたのは、同母姉詮子が一条天皇に強力に圧力をかけた結果であることは有名な史話です。国母を中心とする母方が重視され、母方が夫や子供の面倒をみるという時代背景(前期摂関制でもこの傾向は同じとは思います)の中での摂関の常置ですから、前期摂関制とは違った面が出てきます。天皇-国母-摂関の相互関係が大切だと言うことになります。 伊尹以降の条件節を考えると、国母を中心とする母方の影響力と、同じようなことではあっても外戚であることということになるのではと思います。この部分の『詳説 日本史』での説明は以下のようになっています。 「摂政・関白が引き続いて任命され、政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀ごろの政治を摂関政治とよび、摂政・関白を出す家柄を摂関家という。摂政・関白は藤原氏のなかで最高の官職を持つものとして、藤原氏の「氏長者」を兼ね、氏全体を統率し、絶大な権力を握った。 摂関家の内部では摂政・関白の地位をめぐって争いが続いたが、10世紀末の藤原道長の時におさまった。道長は4人の娘を皇后や皇太子妃とし、30年にわたって朝廷で大きな権威をふるった。後一条・後朱雀・後冷泉3代の天皇は道長の外孫であり、道長のあとを継いだ藤原頼通は、3天皇の50年にわたって摂政・関白をつとめ、」摂関家の勢力は安定していた。 当時の貴族社会では、結婚した男女は妻側の両親と同居するか、新居を構えて住むのが一般的であった。夫は妻の父の庇護を受け、また母方の手で養育されるなど、母方の縁がひじょうに重く考えられていた。摂政・関白は、もっとも身近な外戚(母方の親戚)として天皇に近づき、伝統的な天皇の高い権威を利用して、大きな権力を握ったのである。とくに摂政・関白は官吏の任免権に深くかかわって…」 このように母方重視の時代背景こそが摂関政治の母胎と考えられるのです。 「ウィキペディア」の関連部分の記述は以下の通りです。 「それは摂関政治に代わった院政に関しても同じ事が言える。院政の形態は存在しなくても律令政治初期の頃から、上皇が「天皇家の家父長」として天皇の保護者・後見者を担ってきた。摂関政治ではそれが父系から母系に移り、院政で再び父系に移ったと考えることも出来るのである(藤原良房の権力掌握開始が家父長的権力を有した嵯峨上皇の崩御に始まり、宇多法皇が家父長として背後にあった醍醐天皇の時代に一時摂関政治が停滞し、久しく絶えていた家父長的な上皇の復活である白河上皇が摂関政治に代わる院政を開始した事は偶然では決して片付けられないものである)。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%BB 本来歴史は流れですから、後の時代の変化にも留意しながらの記述が求められると思っています。とくに摂関政治と院政の違いは、天皇の母方、父方重視の違いですから、記述には外せないのではないでしょうか。 次の鎌倉幕府の成立ですが、『詳説 日本史』では守護・地頭の設置までを記述した後、「武家政権としての鎌倉幕府が確立した。」とし、奥州征服、右近衛大将就任の記述の後に、「征夷代将軍に任ぜられた。こうして鎌倉幕府が名実ともに成立してから…」として、成立を1つにまとめていません。 「ウィキペディア」の関連部分の記述は以下の通りです。 「かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在ではこの説は支持されていない。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C 鎌倉幕府の成立年については説がいくつかあって、それぞれが有力で、一つに決められないのが現状です。ですから、「学校の先生に聞いたこところテストには絶対にでない」ということに結果的になります。 以上長々と述べてしまいました。参考まで。
その他の回答 (4)
- Domenica
- ベストアンサー率76% (1060/1383)
短大で平安時代の摂関政治を専門に勉強ました。 問いが > 藤原氏はどのようにして、摂政や関白の地位につき政治の実権をにぎったか。 の回答をより簡潔に書くならば「他氏排斥を行いつつ、天皇の外戚の立場を得ることによって。」になります。 ですが、高校入試のレベル(中学の学習内容)ですと、この言葉は使いづらいですね。 正解とは言いづらいのですが、アンサーの趣旨で書くならば「他氏排斥を行いつつ、天皇の外戚の立場を得ることによって。」になりますね。 それを平易な文章に直したのが、ご質問文にあるアンサーの「他の貴族を退け、娘をきさきにして、その皇子を天皇にたてたりした。」になると思います。 > 自分の娘を天皇と結婚させたから 藤原良房以降(道長まで)の摂政・関白の就任者で、娘を天皇に入内させていないのは忠平のみですから、確かにご質問者さまの仰るとおり…と言いたいところなんですよね。 > 娘をきさきにして、その皇子を天皇にたてたりした。 ご質問文のアンサーの方がより酷い間違い…なんですよね…。 だって、藤原良房以降(道長まで)の摂政・関白の就任者で、これに該当する(=『娘』が天皇に入内して、『娘』が産んだ子が天皇になっている)のは、良房、基経、兼家、道長の4人だけですから。 実頼、伊尹、兼通、頼忠、道隆、道兼は娘を入内させていますが、その娘は天皇の皇子を産んでいなかったり、皇子を産んでもその皇子が天皇にはなっていなかったりです。 ただ、自分の娘を天皇と結婚させた(=娘を天皇に入内させた)だけならば、そんな人は上級の貴族でなくてもたくさんいます。 娘を天皇に入内させていても、政治の実権を握ることができなかった人の方が多いんです。 数多くいる皇子の中から、どの皇子が天皇になれるか…というと、逆に皇子の『後ろ盾』の力の強弱が影響するんです。 政治権力を握っている人の「姉妹や娘が産んだ皇子」だから天皇になれたのであって、「姉妹や娘が産んだ皇子」が天皇になったから政治権力を握ることができた訳ではないんですよね…。 ですから、「他の貴族(実際には『北家』以外の藤原氏も含まれます)を失脚させたこと」が、より重要になってきますので、この言葉は外すべきではないと思います。 ちなみに、まだ習っていないかもしれませんが、藤原北家による『他氏排斥』は次のようなカンジになっています。 810年薬子の変…(式家の)種継・薬子 842年承和の変…伴健岑 866年応天門の変…伴善男 888年阿衡の紛議…橘広相 901年菅原道真の左遷…菅原道真 969年安和の変…源高明 > 鎌倉幕府の開かれた年について質問です。 > 1192年と学校では習いました。ごろあわせと一緒に。しかし、最近テレビを見てる中で「源頼朝が征夷大将軍になった年が鎌倉幕府が開かれた年」というふうにあってました。 > そこで疑問に思ったのですが、もしもテストで出た場合どのように答えればいいのでしょうか? 「源頼朝が征夷大将軍になった年が鎌倉幕府が開かれた年」=1192年なので、ご質問者さまの場合、テストに出たら1192年と回答すればよろしいです。 私ども専門に勉強する立場になりますと、鎌倉時代については『幕府』云々よりも、「1180年の侍所の設置」によって「武士支配機構が成立した」と捉えますが、中学・高校のレベルであれば「いいくにつくろう鎌倉幕府」で問題ないと思います。
お礼
はい、テストでは1192年と答えます。 回答ありがとうございました
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
A:天皇の外祖父等になった こっちの方が短くて、外祖父になるに娘を妃にして、息子を産ませて、天皇にさせるという意味が含まれるのでいいのでは> 等>これに、叔父・伯父となったといのも含むという、官僚的返答でもあります。 結婚させただけでは、他の氏族との競争や、同族内での競争に勝てません。 鎌倉幕府 1190年の、右大将軍任官という説もあります。 この任官により公式に幕府(出征先の将軍の陣地)と名乗れることになり、また、吾妻鏡でも1196年の記事として下記のものがあります。 11月7日 [筑後和田文書] **前右大将家政所下文案 前の右大将家政所下す 和泉の国御家人等 早く左衛門の尉平義連の催促に随い大内大番を勤仕すべき事 右、御家人等、彼の義連の催促に随い、懈怠無く大内大番役を勤仕すべきの状、仰せ の所件の如し。以て下す。 建久七年十一月七日 案主清 令大蔵丞藤原印 知家事中原 別当兵庫頭中原朝臣印 散位藤原朝臣印 1192年に征夷大将軍になっているのに、「前の右大将家」としています。
お礼
そうですよね・・・ 結婚させただけじゃダメですよね>< 参考になりました
- fumkum
- ベストアンサー率66% (504/763)
まず、摂関の件については、答え(A)が充分でないように思います。(高校受験ではこの程度とも思いますが。-中学の教育範囲を超えているかもしれません-) なぜなら、 (1)「娘をきさきにして」とあるが、姉妹の例も多い。特に藤原道長が内覧として政権を掌握できたのは、姉の詮子(一条天皇の母)のおかげであるのが最も有名な例。 (2)母方の身内の権威・影響が大きかったという時代背景がないと摂関の政権掌握は成立しない。これは父方の身内の権威・影響が大きくなったという時代背景の変化から、院政に移行するとの歴史変化を考慮に入れていない。との2点を上げておきます。 そこでたとえば、次のように直してみました。 12345678901234567890123456789012345678 母方重視の中、他の貴族を退け、娘や姉妹を后にして、その皇子を天皇に立てたから。 鎌倉幕府の成立年については説がいくつかあって、それぞれが有力で、一つに決められないのが現状です。ですから、「学校の先生に聞いたこところテストには絶対にでない」ということに結果的になります。有力な説は以下の通りです。 1180年 侍所の設置。 1183年 後白河法皇が源頼朝に東国支配権を実質的に認める。 1184年 公文所・問注所の設置。 1185年 守護(惣追捕使)・地頭(国地頭)の設置。 1192年 征夷大将軍任命。 この内、侍所・公文所・問注所の設置は行政機関の成立で、統治機構の整備に重点を置いた考えです。東国支配権は、実効支配を公認され、支配領域を公式に持ったことに着目した考えです。守護(惣追捕使)・地頭(国地頭)の設置は鎌倉幕府の本質を、守護・地頭などの御家人層に置く考えからです。このように説が多くあるのは、鎌倉幕府の実態は何かと言う問題と深く関係し、また、それぞれに根拠があり、中々決着しないのです。 以上参考まで。
お礼
詳しい回答ありがとうございます。 ん~~(A)の答えは模範解答です。一つの答えにもたくさんの考え方がありますよね。 簡潔にいうのは何がいいのかなと思ってます。また簡潔に書きすぎて不十分だったり、逆に詳しく書いてて一つでも謝ったことを書いてしまいXのなってしまったり・・・・むずかしいところです 鎌倉幕府は本当はいつ開かれたんでしょうかね?気になります
- uverload
- ベストアンサー率0% (0/1)
問題はどのようにして握ったかで 何で握ることが出来たか?ではないので 「」内の答えは不適切だと思います。 答えとしては 「自分の娘を天皇と結婚させて自分が天皇の義父になって実権を握った」 というのはどうでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 言われてみればそうですね。問題の意味から言うと俺のは間違いですね・・・・
お礼
詳しい説明ありがとうございます。 とても分かりやすく参考になります。 鎌倉幕府はやっぱりテストにでないのかな・・・・ なら安心して勉強できます