まず源義仲が京に入った時の全国の勢力地図ですが、西には京を追われた平氏がおり、坂東には頼朝の十万騎が、そして奥州には藤原秀衡が17万騎を持って独立国の様相を体していました。頼朝は、義仲が京に入っても、奥州を警戒して直接手出しをせず、外交だけで対抗していたのです。
寿永二年11月下旬に義仲は、法皇を捕らえてクーデターに成功します(法皇寺御所焼討ち)。それまで、貴族の下人でしかなかった武士が御所に踏み込むなど古今に類のない横暴だったのです。義仲は『自分は、王にもなれる。誰でも大納言にでも中納言にでもできる』みたいなことを言いますが
軍師の大夫房覚明にー公卿は、藤原氏がなるもので、清和源氏ではなれませぬーとたしなめられると諦め、その代わりに法皇に強要して従4位下に上ります。鎌倉の頼朝が従5位下兵衛佐(ひょうえのすけ)ですから義仲は頼朝を凌ぎ、源氏一統の中で最高位を得たということになります。
しかし鎌倉の頼朝は、義仲が法皇寺焼討ちするに及び期が熟したと見て範頼・義経に義仲追討の命を出しました。
2・300騎しかない義仲は、西国の平氏と同盟を結び、これに対抗しようと考えますが、末端の兵士のいざこざで平氏は京に兵隊をよこさないことになります。頼朝との戦いで負けは確実となり、義仲は『都を捨てて北陸に落ちる』ことを考えます。しかし、義仲以上に慌て、パニックに陥ったのが後白河法皇とその側近です。義仲は法皇を一緒に北陸に連れていくかもしれないし、もっと悪くすれば、やけになって殺してしまうこともあり得ると考えたのです。
『義仲をなだめよう。やけを起こさせてはいけない』というのが法皇のこの時期の懸命の思索でした。そのためには、義仲に幻覚を持たせること。それも、とびっきり甘い幻覚をです。そして出されたのが三つの院宣です。
一.平氏との同盟を固めるために法皇からも使いを出す。
一.奥州藤原氏にも17万騎をこぞって京へ上り、義仲を助 けよと使いを出す
一.征夷大将軍にしてやる
この三番目こそが義仲が最も望んでいたいたことだったのです。義仲は木曾で生まれ育った学問もない田舎者です。そんな義仲でも、かねてこの故実があることを聞き、その宣下を望んでいたのですが、院では、源氏にそれを与えた前例が無いという理由で拒絶し続けていたのです。征夷大将軍というのは平安初期に坂上田村麿がそれに任じられたのが最初で、次いで天慶(てんぎょう)三年藤原忠文がそれに任じられて以来245年、その職は、一度も存在したためしがないのです。
此の度、義仲がそれに宣下されるとあれば、源氏では最初の征夷大将軍です(以後この職は源氏の独占となり源頼朝、足利尊氏、徳川家康と続いてゆきます)。この官職に就けば名目上は全国の武士に対して動員権を持つことになります。(もっとも現実には、誰も動員されて来ないことは義仲も院も知っています)また、法皇は、この死を覚悟した義仲のために『旭将軍』という通称も一緒に与えています。
これこそが、朝廷が、時勢時勢に乗って来る権勢家を骨を抜く、奥の手であり、公家の間では、『位打ち』という隠語で呼ばれるものなのです。かつて、平家がこれに引っかかり、後には、義経や戦国期の武士までもかかり、義経が頼朝に殺されなければならなかったのもこのためです。(これに引っかからなかったのは、頼朝や家康ぐらいだったのではないでしょうか?)
お礼
ご教授いただきありがとうございます。 とても詳しく説明してくださったので、興味ぶかく拝読させていただきました。 こうして全体像をつかんでみると、やはり頼朝はとてもうまく兵を動かしていたのだと分かりますね。もう少し義仲についても詳しいことを学びたいと思います。じつは私が読んだ本は、義仲英雄論についての史話でしたので、みなさんが回答してくださったこととはいささか違う解釈をしているものでした。 そのあたりもまだ謎ですので、回答くださったことを念頭に調べていきたいと思います。ありがとうございました。