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殺される側の論理(新約聖書)

新約聖書では,ユダヤ人をぼろくそに非難したキリストが結局,殺されますね。 Q1)てことは,ユダヤ人とキリスト教徒って仲が悪いんでしょうか?(キリスト教徒の方は,ユダヤ人がにくい?) Q2)アメリカって一部のユダヤ人が支配してるって言うけど,そのユダヤ人も一般の下流アメリカ人(キリスト教徒)と仲が悪いんでしょうか? Q3)キリスト教が成立した原動力は,ユダヤ人に対する鬱屈した優越感(寛容さ,博愛)によるものなんでしょうか?

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  • aster
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回答No.6

  >新約聖書では,ユダヤ人をぼろくそに非難したキリストが結局,殺されますね。 何をもって「ぼろくそに非難した」のかよく分からないのですが、イエズスの有名な言葉に、「私は、律法を成就するために来た」というのがあります。原文でどういう動詞を使っていたのか記憶していませんが、これは、「私は、律法を終わらせるために来た」とも解釈できる文章です。 「律法を成就する」と「律法を終わらせる」では、だいぶ意味が違うのですが、前者だと、従来の律法を認め、それを高いレベルに完成させるために来た、と読め、後者だと、律法を否定的に捉え、それを廃止するために来たと読めます。どちらなのかよく分からないのです。 なぜならイエズスは、「律法のために人があるのではない、人のために律法がある」と述べ、必要なら律法に従わなくとも良い、と言っている場面があるのですが、他方、律法を守りなさい、と律法遵守を勧める場面も、「新約聖書」にはあるからです。 「律法」というのは、代表的なのは、「モーセの十戒」で、何をしてはならない、というように、道徳的規範が述べられていて、これを守ることを、「神と約束した」ということです。もっと細かい行為の規範で、神との契約の条件とされる項目は、「レビ記」などにたくさん出てきます。何をしてはならない、とか、何をせねばならない、などと、一杯、禁止事項や、義務事項が出てきます。 「律法」は、ユダヤ民族が神ヤハウェと交わした「契約」の証として、人が神に対する約束として遵守しなければならない規範で、ユダヤ教の信仰は、まず律法を遵守することから始まるのです。 イエズスは、終末思想を唱えた訳で、それはバプテスマのヨハネも唱えていたことで、「悔い改めよ、ときは来た」という言葉で表現されます。「ときは来た」という時の「とき」は、ギリシア語で、「カイロス」という言葉になっています。これは「チャンス・好機」というような意味を持つ言葉で、「特別なときが来た」ということです。 それでは、何の「とき」かというと、世界が終末するときだというのが普通の解釈です。イエズスは、実際にどう考えていたのか、はっきりしませんが、やはり、世界が終わると考えていたようです。 「世界の終末が、まさに訪れようとしているので、神の国に入ることができるように、行いを正しいものにしなさい」とイエズスは教えていたのだともいえます。 イエズスの言動は、この終末思想の上に立って、従来より自明とされていた律法の適用・解釈に対し、非常に独特な理解を提示し、また実践に移すということをしたのです。もちろん、イエズスの言動において、「奇跡」が伴っていたことが、イエズスの教えや言動を、真実性のあるものとしていました。 そこで、最初に戻って、イエズスは、「ユダヤ人をぼろくそに非難したのか」というと、非難に当たるような言動もあったのですが、イエズスは、まずユダヤ人に教えを説いていたので、非ユダヤ人にも同じ教えが適用できるということは認めていましたが、やはり、直接には、ユダヤ人に教えを説いたのです。 イエズスは、人間の平等や尊厳性などを説いたのです。具体的な教えであり、貧しさの故に生活できない者や、病気になっても医者も医薬も手に入れることもできない者はどうすればよいのか、というような問題に答えたのだといえます。イエズスの奇跡のなかには、パンや魚を大量に生み出したとか、病人を癒したとか、本当に貧窮し困っていた人々の生活を救ったというようなものが多数あります。 イエズスは、律法を守ることの重要性も語ったのですが、しかし、ユダヤの社会の底辺階層には、あまりな貧困の故に、律法を守ろうとしても、守れない人が多数いたのです。律法を守るには、お金や財産がないとできないような仕組みがあったのです。そのため、非常に貧しい人は、律法を守ろうとしても守れないという事態が現実にあったのです。 「パリサイ派」というのは、そういう集団がいたのではなく、ある程度富裕な市民で、商人や技術者で、律法を熱心に守り、自他に厳しく律法遵守を主張していた人たちのことです。この人たちは、経済的余裕があったので、お金のかかる律法遵守などもできたのですが、社会的に貧しいがゆえに、律法を守ろうと思っても、守れない人々に対し、その貧しさ故に、彼らを斟酌するという立場は取らず、貧しくて律法を守ることができない者でも、守っていない者は、神との契約違反者で、自分たちとは「違う」という主張を鮮明に述べました。 イエズスは、人間の平等や、人間の尊厳を語り、また、誰もが幸福になりたいと願っていて、それがかなわない現実を知っており、貧しさ故に律法が守れない人たちには、あなた方は、律法を守らなくともかまわない、守りたいという心だけで、十分、律法を守ったことになるのだ、というような意味の説明で、貧しい人々を擁護します。 しかし、これはパリサイ派の人々の主張や、彼らの立場と正面から衝突したのであり、貧しい人や差別されていた人たちのあいだでイエズスが有名になり、その教えが正しいという人が増えてくると、必然的に、パリサイ派は、イエズスの主張は間違っており、そのような教えに従っていては、社会の秩序は崩壊するので、イエズスを論駁しなければならないということになります。 イエズスは、パリサイ派と対立関係になってしまうのです。パリサイ派の律法遵守の心はイエズスも認めるのですが、しかし、彼らが、貧しい人たちを容赦せず、むしろ、律法の遵守によって、人を差別する根拠としていること、また律法を遵守していると自称しつつ、偽善的な者の多いことを指摘し批判します。 つまりイエズスが批判したのは、律法遵守主義者で、律法の遵守の名において、差別や搾取を正当化していた人たちの言動が、果たして、「信仰の精神」において妥当かどうか、妥当でない、としたのです。 イエズスは従って、ユダヤ人をぼろくそに非難などしたのではないのです。イエズスは富裕なパリサイ派の人たちを批判し、彼らと敵対関係になったともいえます。 こういう事実を前提に考えなければなりません。イエズスが、「あなたは、神の国に入ることができる」と述べていたのは、やはりユダヤ人に対してなのです。「神の心にかなうように祈り、行いなさい、神はその心を受け止めてくださる」と語っていたのも、ユダヤ人に向けてです。 >Q1)てことは,ユダヤ人とキリスト教徒って仲が悪いんでしょうか? キリスト教は,イエズスが生きて教えを説いていた頃には、存在しませんでした。キリスト教の信仰の核心は、「イエズスはキリスト(救世主)であり、実は神の子であり、その崇高な命を、磔刑という拷問刑でささげることで、人間が神に対し犯した罪を、清めてくださった」ということです。 人間が神に対し犯した罪を、「原罪」というのですが、本来、人間がつぐなわなければならない罪を、神の子であるキリスト・イエズスが、人間に代わって十字架で死ぬことで、罪を帳消しにしてくださった、というのがキリスト教なのです。 イエズスが生きていて、教えを語っていた頃には、こういう結末になって、キリスト教が成立するとは、誰も考えていなかったのです。 生前、イエズスの周りに集まった人々は、ユダヤ教の異端的一派と考えられ、「ナザレ派」とも呼ばれました。イエズスが逮捕され処刑されたとき、ナザレ派はばらばらになるのですが、しばらくして、ナザレ派は再び集まって、イエズスについて、その教えを反省したりします。しかし、この段階でもまだ、キリスト教ではないのです。 ナザレ派は、自分たちはユダヤ教の一派だと考えていたからですし、ローマも、外国人も、ユダヤ人自身も、ナザレ派は、異端的なところがあるユダヤ教の一派だと考えていました。 結局、キリスト教はいつ成立したのかというと、パウロが、非ユダヤ人、ローマ帝国の領土内の色々な人に、「キリストの復活の神話と信仰」を伝えて、それが定着したときです。 従って、多くのキリスト教徒は、非ユダヤ人であったということがあります。キリスト教は、その成立の当初は、ユダヤ教の異端分派として出発しています。そうであれば、キリスト教徒と正統ユダヤ教徒は仲が悪くなります。この場合、キリスト教の側では、ユダヤ教を尊重しても、ユダヤ教の正統を自認する人たちにとって、キリスト教は「異端」なのですから、キリスト教やその信徒を評価できるはずがないのです。 キリスト教は、しかし、ユダヤ教とは違った宗教になって行き、やがて「異教」となります。もはやユダヤ教の異端ではなくなるのです。こうなると、ユダヤ教側では、キリスト教を批判する根拠はないのですが、キリスト教は、ユダヤ教側から見ると、「ユダヤ聖典」を、「旧約聖書」の形で勝手に解釈して取り込んだ、聖典の略奪者だとなりますし、ユダヤ教が更に神の啓示で高度なものになったのがキリスト教だというのが、キリスト教側の主張ですから、そういう相手と仲がよくなれるはずがないのです。 生前のイエズスは、こういう形の展開は考えていなかったはずです。イエズスは人間の平等を説いたのですが、キリスト教は、教義上、ユダヤ教よりも進んだ信仰であるとなり、キリスト教徒、ユダヤ教徒双方において、相手を妥当に評価できない事情となります。 キリストを殺したのはユダヤ人だというのは、かなり後になってから出てきた理由付けです。元々、ユダヤ教の異端分派としてキリスト教が成立したので、仲が悪かったのです。 >Q1)てことは,ユダヤ人とキリスト教徒って仲が悪いんでしょうか? この質問に対する答えはYESですが、何故仲が悪いかの理由は、ユダヤ人がイエズスを処刑したからではありません。 >Q2)アメリカって一部のユダヤ人が支配してるって言うけど,そのユダヤ人も一般の下流アメリカ人(キリスト教徒)と仲が悪いんでしょうか? アメリカを一部のユダヤ人が支配しているのではなく、金融業界で大きな力を持つユダヤ系財閥のアメリカ政府等への影響力が非常に大きいということです。貧しい者は、やはり大金持ちに対し、羨望と、敵意が入った感情を抱くもので、ましてそれがユダヤ教徒だとすれば、敵意は大きくなるともいえます。従って、仲が悪いともいえます。 しかし、それはユダヤ人が金融業などで成功を収め、大きな勢力を築いたからで、ユダヤ人がキリストを殺したからではありません。中世西欧の頃、ユダヤ人への敵意や差別や迫害を正当化するため、そういう理屈をつけたのが起源です。 >Q3)キリスト教が成立した原動力は,ユダヤ人に対する鬱屈した優越感(寛容さ,博愛)によるものなんでしょうか? これは、まったく違うといえます。ユダヤ教の分派として、布教や伝道をしていると、いつの間にか、ユダヤ教とは別の宗教になっていたのです。イエズスが「自己に罪なく、この世の人を救うため、十字架で、自分の命を犠牲にしたこと」が、地中海世界の人々に大きな感銘を与えた結果、キリスト教が成立したのです。 パリサイ派と、ユダヤ人の支配階層のサドカイ派が共謀して、民衆革命の指導者になりかねないイエズスを、ローマ総督ポンティオ・ピラトを利用して、抹殺(十字架での処刑)することで、結果、「キリストの犠牲の死と復活の神話」ができ、これがキリスト教信仰のコアになったのです。 キリスト教側からすれば、キリストを殺してくれたユダヤ人に感謝すべきなのかも知れません。それによって、救済の教えや宗教が成立したからです。 なお、No.5 の方は、他にも複数回答されていますが、非常に「奇妙なこと、従来のキリスト教の常識では認められていないことを、出典を明示せず断言」されています。それは、スィーリングの本に書かれていることだと考えるのですが、そういう主張は、歴史学的に、新約聖書学的に、十分に認められている話なのでしょうか。   わたしが述べているのは、「新約聖書」に記されていることと、キリスト教のその後の展開についての常識、新約聖書学の一般的通念とされるものを元にしているつもりです。   (「死海文書」が示唆した、キリスト教成立における新しい視点と資料には、それなりの重みがあるとは思いますが、まだ確定的に何かを語れるような状況ではないというのが、わたしの知っている範囲での新約聖書学での認識のはずです。あるいはわたしが無知なのかも知れませんが)。  

BadCompany
質問者

お礼

詳細な解説に感謝します。 ここまで,聖書に詳しい人がいるとは思いませんでした。 asterさんなら,世間に流布している宗教に対する偏見や誤解を全て氷解できるかもしれません。 私のような無知蒙昧なる人にでも納得させるだけの説得力は,私の知ってる限り見当たりません。 素人が独学で宗教について何かを得ようとするには,非常に難しいのが現状です。 宗教の本は沢山在りますが,半分ぐらいは新興宗教の信者向けです。 日本の自殺率が世界最高になってしまった現状と言うのは,やはり宗教的なものが必要なのかもしれません。 しかし,今の日本人には,カルトやドグマ主義にはしる力さえ失いかけている様に思えます。閉息感が漂う社会では,私のように偏向した人が増えていくかもしれません。大抵の日本人は無宗教であって,なにかの宗教に入ると少なからず偏見を受ける気がします。例え,それがキリスト教だろうが創価学会のようなカルトと言われているものでも大同小異の偏見や差別が見うけられます。 今後,asterさんのような人が増え,活躍すれば少しは世の中の風通しもよくなるかもしれません。回答,どうも有難うございました。

その他の回答 (5)

  • Singollo
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回答No.5

> 朝鮮人と違って,キリスト教徒はドライ 朝鮮人だって何千年も恨み続けていられるかどうか分からないと思います 例えば、元寇のとき、朝鮮は蒙古のお先棒を担いだわけですが、それから六百年かそこら経っただけの現在の日本人が記憶しているのは『蒙古に攻め込まれた』ということだけであって、その蒙古に対してすら大した恨みは抱いていないでしょう イエス処刑時のイエスの支持者にとってみても、イエスを直接十字架に掛けたのが、自分たちと同じユダヤ人(まだキリスト教会成立以前の出来事であったことを忘れないでください)であったとしても、それを命じたのがローマ総督であるのはわかっていたはずですので、自分たちを含むユダヤ社会全般に対して恨みを抱くのは難しかったでしょうし、ましてや二千年もの間継続的に恨み続けるのは困難ではないかと思います > 小泉改革のようなものでしょうか そんな感じでしょうが、覚悟はイエスの方があったろうと思います 少なくとも、シモン・マグスとの会談が設定された時点で罠の存在は把握していた(だからこその『最後の晩餐』でしょう)はずですが、それでもあえて罠に足を踏み入れたイエスの覚悟を、北朝鮮で、敬愛なる将軍様の横面一つ張れずに早々に退散してきたような小泉総理の覚悟と比較するのは酷かもしれませんが

BadCompany
質問者

お礼

有難うございます。これですっきりしました。 ローマ総督が悪いんですね。 これでユダヤは救われますね。ローマ人が諸悪の権化でしたか。 今度,聖書を読むときは,ローマ人憎しの気持ちをもって取り組みたいと思います。 覚悟について: 人のほっぺたを叩くのが覚悟とは… キリストって右のほっぺをなんちゃらとかいいながら,結構,好戦的な覚悟を持ってたんですね。びびりました。偉大なる将軍様にも心労で丸禿が。 予断ですが,田中真紀子には,外交は勤まらんかったと思う。 やはり,白州次郎みたいな人が…まだいるのかしら。(旧内務省はどこへいった?) 総理の批判ばかりしてるけど,少しは応援したり,評価する気持ちがあるのかしら。 日本人はいつからこんなに好戦的になったのかしら?(よしりんの仕業?)

  • Singollo
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回答No.4

> 無理といより,自然な流れじゃ…? これが、仰るようにもし、イエスが(ユダヤ社会の外部から)『ユダヤ人をぼろくそに非難し』、それを根に持ったユダヤ教徒によってイエスが殺されたとして、それから1世紀とか2世紀とかしか経っていなければ、それほど不自然ではないかもしれませんが、2000年ですからねぇ… 恨みを根に持つユダヤの神ならともかく、イエスの教義とはあまり似つかわしくないように思います また、イエスの処刑に至った経緯におけるユダヤ社会の重みは小さくはありませんが、ユダヤ教徒がイエスを処刑したわけでもありません(暴力的なユダヤ教徒の一派の幹部で、お尋ね者であったユダにイエスははめられ、その一派の首謀者との会談を、ローマ総督に密告されて、処刑となったわけですが、ユダがユダヤ社会を代表するような人物だったわけではありませんし、ユダ自身も、新約では裁判で罪を認めて首を吊ったとされていますが、被疑者に自殺の機会が与えられるというのもおかしな話ですので、結局イエスと引き換えの自身の安全の取引が反古とされ、イエスらと共に処刑されたのでしょう) これで、ユダヤ社会全体に対し(自らもほとんどがユダヤ人であった時代の)キリスト教徒が恨みを抱くというのはちょっと厳しいのではないかと思います むしろ、イエスの件は、後に金融業などで各地で勢力を伸ばして地元民からやっかまれる存在となったユダヤ人に対する反感に、後付の言い訳を与えたに過ぎないのではないかと思います > やっぱり,ユダヤを下に見てるんですね いえ、自分をユダヤの外に置いてユダヤを見下すのではなく、内側から改革した新たなユダヤの、宗教的(そして可能ならば政治的)指導者になろうと考えていたのではないかと思います 少なくともペテロらの小分派の指導者としてユダヤ教から独立できれば満足というのであれば、旧来の律法主義勢力や、ローマから、あれほど睨まれることは無かったでしょう ユダヤ教内部に留まって支持者を増やしていったからこそ、それらの守旧勢力が危機感を持って結託したのだと思います また勢力拡大のためにも、ユダヤ王家の血統というのは有力な武器だったはずですから、間違っても自らユダヤ教から離脱しようとなどはしなかったのではないでしょうか

BadCompany
質問者

お礼

有難うございます。 >それから1世紀とか2世紀とかしか経っていなければ、それほど不自然ではないかもしれませんが、2000年ですからねぇ… 朝鮮人と違って,キリスト教徒はドライなんですね。 >いえ、自分をユダヤの外に置いてユダヤを見下すのではなく、内側から改革した新たなユダヤの、宗教的(そして可能ならば政治的)指導者になろうと考えていたのではないかと思います 難しくてよくわかんないんですが,例えるなら,小泉改革のようなものでしょうか?

  • misoka
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回答No.3

っていうか、仲が悪いなんて話を聞いたことがあるのでしょうか? ないなら、やっぱり、別にそういうことはないんだと思いますよ。 もっともそれは、どの程度のことを「仲が悪い」と呼ぶのか にもよると思いますが。 基本的には、批判したから憎みあう、というものではないですね。 キリスト教内部でも、カトリックとプロテスタントがありますが、 現在、カトリックとプロテスタントが憎みあっているという話は あまり聞きません。というか、全然聞きません (一部、社会問題を引き起こしているものは別として)。 じゃ仲良しか、といったらそうでもないでしょうけれどね。 すくなくとも、プロテスタントはカトリックのある部分を否定 しているはずでしょうから、完全に相性がいいというわけには いかないだろうと想像できます。 「仲が悪い」とはどの程度のことなのか、 すくなくとも、それが第三者を悩ますほどのレベルではない だろうと思います。 ユダヤ教とキリスト教についても、ほとんど同様だろうと 考えていいんじゃないでしょうか? というか、仲が悪いだろうと想像するだけの理由がない と思います。 実際に問題が起こっていないのならば。 -- ところで、確か、イエスが批判したのは、ユダヤ教のなかでも パリサイ派とよばれる、一種の権威主義的な(ちがったかな?) 信仰についてだったと記憶しています。 つまり、キリスト教は別にユダヤ人そのものを否定している わけでもないし、ユダヤ教全体を否定しているわけでもないと 思います。 それに現在、ユダヤ人はかならずユダヤ教徒というわけでも ないでしょうから、ユダヤ人はみんなユダヤ教的な信仰を もっている、と考えるのはマズイと思います。 それから、キリスト教ではイエスの処刑の位置付けは 「人間の罪をあがなうための犠牲」ということだったと思います。 だから、キリスト教徒は、「殺られたからヤツは仇だ」的な 考えはもっていないはずですよ。 むしろ、人間全体が処刑側の人と同等であり、 自分が今なにをしているのか、そのことの意味がわからないような 愚かさを共有している、という発想でイエスの処刑をとらえている はずです。 そもそも、キリスト教もユダヤ教も、別におおっぴらに 仲の悪いと宣言しているわけではありません。 そういう事柄について、十把一絡的に キリスト教徒だからヤツはこうだ、とか、 ユダヤ教徒だからこう考えるんだろう、などと考えるのは どうなんでしょうか? ユダヤ教徒にもキリスト教徒にも、 いろいろな考え方や悩みをもつ人がいるはずですし、 仲の悪さをよしとする人ばかりだなんて、とても考えられません。 ヤツらはみんな仲が悪いだろうなんて、そんな発想は、 まず的外れだと思いますよ。

BadCompany
質問者

お礼

有難うございます。 >ユダヤ人はみんなユダヤ教的な信仰を もっている、と考えるのはマズイと思います。 そうは思っていません。私は,ユダヤ人の定義を正確に分かりません。 非常に短絡的で申し訳ないんですが, 聖書に書かれている差別的なところは,現代人はどうやって理屈をつけているんでしょうか?

  • Horus
  • ベストアンサー率14% (78/528)
回答No.2

 イエスの生涯は、その歴史的実在性にもかかわらず、非常に神話的です。ディオニューソスやオシリスのような犠牲にされた神のように、死んで又復活するのです。  福音書の記述は他のローマの作家の言うことともあわせると事実を多く含んでいるにもかかわらず、あまりにも神話的劇的でユダの話なども民話のモチーフそのものであり、みんなこれから起きることを知っていて、各自がその役割を果たしているだけのようです。そういう風に神話を生きなければならない理由があったものと思われます。  何か自分たちの命を賭けてまで、そういう大芝居を打つ必要があったものと推察されます。そして当時の人々に十分なインパクトを与えるに足るだけの効果があったことだけは確かです。  このことにラビたちがどれくらい関わっていたのかは分かりませんが、ユダヤ教に元からあったメシアが現れると言う予言に対し、自らキリスト(=メシア)であると宣言したイエスをラビたちが否定することから話は始まるのですが、こうならないと犠牲にされた神のストーリー自体が成り立たなくなってしまいます。  キリストは犠牲にされる必要があったのです。この話ユダヤ教徒の協力なしに成立するでしょうか?  いずれにしても、ユダヤ教徒に今のところメシアが現れたという話は聞きませんし、この問題は普通の人が考えることをはるかに越えた出来事でした。古代の密議宗教の祭式が実際の人生あるいは歴史において忠実に再現されたのです。

BadCompany
質問者

お礼

貴重なご意見を有難うございます。 ユダヤ教は,やはり奥深いものですね。 神話との関係も不思議に思いました。

  • Singollo
  • ベストアンサー率28% (834/2935)
回答No.1

Q1、Q2については、肯定にせよ否定にせよ、過去の事例を『ということは』と現在の状況の直接の原因とみなすのは少々無理があるように思います Q3に限っていえば、イエス自身もユダヤ人、それも新約聖書や死海文書を信じるならば、当時は祭祀を司っていたはずの王家の人間ですし、(勿論、従来のユダヤ教社会から見れば容認しがたい背教者でしょうが)ユダヤ教徒をそれほど明確に『他者』とはみなしていなかったとろう思います むしろ、自らをユダヤ教の(より良い)新分派とみなしていたのでは?

BadCompany
質問者

お礼

有難うございます。 >No.1 Q1、Q2については、肯定にせよ否定にせよ、過去の事例を『ということは』と現在の状況の直接の原因とみなすのは少々無理があるように思います 無理といより,自然な流れじゃ…?ワシは単純じゃ。素朴な疑問じゃ。 >自らをユダヤ教の(より良い)新分派とみなしていたのでは? やっぱり,ユダヤを下に見てるんですね。 結局,何にでも優劣をつけ差別したいんですかね。 >(勿論、従来のユダヤ教社会から見れば容認しがたい背教者でしょうが) これが寛容ってやつですか? さすが王家の人は,言う事が違いますね。ユダヤが一方的に毛嫌いしてるだけって事になるのか。 これなら,一般のアメリカ人も仲違いしない筈ですね。

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