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血の日曜日事件 ガポン

血の日曜日事件の主導者ガポンが、皇帝側の スパイだったという記述が用語集などにあるのですが、 詳しく書いていないので意味がよくわかりません。 皇帝側があの状況であのような事をするメリットは何でしょうか 日本のスパイとかならまだ解るんですが…

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  • bossnass
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回答No.1

ガポン神父については、100年たった今でも正確な分析や評価が なされていません。 歴史の世界によくありがちな事ですが、一人の人間を一つの面で 判断できないものです。 確かに、ロシア秘密警察のズバートフ大尉から資金援助を受けて いましたが、 この大尉も果たして皇帝や秘密警察の総意で動いていたかどうか よくわかっていません。 クリミア戦争以来、貴族や軍部の間には皇帝の権力を縮小させ 英国的議会制民主政治の確立を目指す一派もいて、皇帝側は決して 一つの意思で動いていた訳ではないからです。 あるいは、秘密警察を騙して得た資金で反皇帝活動をしていたのかも しれません。 日本やドイツのスパイとして。 そもそも「血の日曜日事件」で、ガポンに煽動された民衆に もし、皇帝が面会し彼らに改革を約束したら・・・ 後のロシア革命は起きなかったかもしれないと言われています。 ガポン神父は、皇帝側の指示で民衆の皇帝への謁見を演出するはず だったのが何らかの手違いであのような悲劇になってしまったのか? あるいは、日本やドイツや革命家たちの指示で民衆の皇帝への反感を 増長させるために演出したのか? または、単に義憤に駆られ民衆救済に動いた「大塩平八郎」的な事 だったのか? 今となってみては、よくわかりません。 ガポン神父も様々な思想や主張を持っていました。 「劣悪な生活を送る労働者たちを救済したい」 「皇帝の宗教的権威で混乱したロシアをまとめたい」 「国家社会主義思想で、ロシアを近代化したい」等等・・・。 場所や相手によってコロコロ変えるところがあり、 一体どれが彼の本当の主張なのか、判断に悩むところですが ロンドンに亡命中のガポンに会った明石大佐によれば 「あいつは怪僧だ。非常にあやふやな人物だ」と評価しているところ を見ると、単にラスプーチン気取りの人物だったかもしれません。 しかし、当時ロシアにおいて 明確で単純な主張をする人間は、たいがい抹殺されました。 皇帝側であろうと、社会革命家であろうと。 ガポン神父の一貫性の無さや多面的な活動は、もしかしたら自分の 真の目的を達成するために行った防衛手段だったかもしれません。 以前、何かの本で読んだ受け売りですが・・・。 ガポンの生まれ故郷は、ウクライナの中央部ポルタヴァ。 この地域の言葉は、現在のウクライナの標準語となっているそうです。 彼は、そもそも富農出身。 ロシア革命当時にもあった「ウクライナ分離(独立)主義者」だった 可能性もあります。 ロシアの混乱は、同時にウクライナ独立のチャンスですから ガポンの活動も何となく、そこにリンクしていたかもしれません。 または、単にロシア正教側の人間として 政治的な動きではなく、感情的に「民衆と(正教の長である)皇帝」 を救いたいと思っていただけの陰謀家でも策略家でもない人物で 各方面から援助を受けていたのは、さほどの意味がない可能性も あります。 すいません。結局明快な回答はできませんが 活動期間が短く、非業な死をとげた人物ほど正確な実体はわからない のは仕方がないことだとも思います。

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