• ベストアンサー

日露戦争後のロシアについて

どうしてロシアは日露戦争後、再度日本、満州を攻めなかったのでしょうか。 血の日曜日事件を片付けてしまえば、もう一度日本を攻めてもきてもいいのではないでしょうか。その後西へ転じてドイツとバルカンで戦うよりは、満身創痍の日本と戦った方がマシな気がします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9602)
回答No.6

t_m_longstreet さん、こんにちは。 どうしてロシアは日露戦争後、再度日本、満州を攻めなかったのでしょうか。 血の日曜日事件を片付けてしまえば、もう一度日本を攻めてもきてもいいのではないでしょうか。その後西へ転じてドイツとバルカンで戦うよりは、満身創痍の日本と戦った方がマシな気がします。 もっとも第一世界大戦とは10年の時差があります。 実は奉天会戦の時点で満州に展開できる兵力を半数失ってしまいました。そこでドイツ国境に展開している部隊が緊急的に満州へ展開させることになりました。つまり、ドイツ国境はがら空きでこの時点でドイツと戦うことは無理です。 血の日曜日事件を単なる暴動事件ととらえてはいけません。それどころかロシアは国内の無政府主義者や皇帝による専制政治に否を称える自由主義者、レーニンのような共産主義者の国内の暴動鎮圧に力を使わなければなりませんでした。 これにより、戦争継続が不可能となり、講和へ大きく傾いたのです。 また、再戦ですが、1907年に日露協商を結んだので、とりあえず、日露戦争後の戦後の国内処理特に軍隊の再整備や治安維持にまい進する余裕を得ました。だから、あえて戦争をしたくなかったととらえるのが普通です。また、日本もロシア同様に10年間の間にかなり軍事力を高めています。 詳細は下記のURLを参照ください。 日露協商 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%8D%94%E7%B4%84#.E3.80.8C.E6.97.A5.E9.9C.B2.E5.8D.94.E5.95.86.E3.80.8D.E6.A7.8B.E6.83.B3 日露戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89 血の日曜日事件 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9B%9C%E6%97%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1905%E5%B9%B4) 奉天会戦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%A4%A9%E4%BC%9A%E6%88%A6

t_m_longstreet
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。なんとなく納得しました。

その他の回答 (5)

noname#210968
noname#210968
回答No.5

http://kids.gakken.co.jp/jiten/5/50022180.html  一番簡単な説明は、上のサイトを参考にしてください(小学生向きです)。 http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/seiji04_detail.html  いきなりむずかしくなりますが、要はこの「血の日曜日事件」によって、 ロシア国民がロシア皇帝と自国を信用しなくなったため、戦争継続はロシア 側にとって困難となり、同時に約10年後のロシア革命へいたる歴史の導火線 が引かれました。 http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/seiji05_detail.html  講和の動きは水面下で進められていました。  現代人には、第一次、第二次世界大戦や、ベトナム戦争、アフガン戦争など、 何年も戦争が続くというイメージがあるかもしれません。  しかし、戦争はいちじるしい兵力と国力の消耗と人命の犠牲がつきものな ので、終結を急ぐというのが19世紀の国々の暗黙の了解でした。  日露戦争もまた、そうした暗黙の了解(といっても、時代は20世紀になって いましたが)があったので、一度ポーツマス条約を締結すれば、それ以上は、 条約にしたがって戦争を終わらせたわけです。  昔の政治家は立派でした。  今だと、大量殺人兵器で何万人も人を殺したあとで、   憎しみの連鎖はやめよう というのが関の山です。

  • zep19
  • ベストアンサー率45% (138/306)
回答No.4

日露戦争後、日露協定を締結して 日露双方の朝鮮、モンゴルでの勢力圏編入を相互に認め 満州の南方での日本の権益、北方でのロシアの権益も認めあいました 協定はその後、何回か付随条項が追加され存続しますが バルカンで相互の権益を認めあい、協定を結んでいたロシアとオーストリア・ハンガリー二重君主国の イズヴォリスキー、エーレンタールの露墺両国外相の会談での思い違いから オーストリアがボスニアの併合を強行して いわゆるボスニア危機が発生した為 日露協定はロシアに取り、両正面に軍事力を分散させることを避けられ有効でした 日本も大陸へ進出に対し最大の脅威であるロシアの圧力を避けられるメリットがありました

  • washi001
  • ベストアンサー率41% (157/379)
回答No.3

戦後に締結した「日露協約」が守られたからです。 今のロシアとは大違い。

  • hamazo2004
  • ベストアンサー率27% (292/1068)
回答No.2

1月革命がほぼ全土に広がったからです。

  • ootemon
  • ベストアンサー率13% (558/4273)
回答No.1

資金と戦力がなかったからじゃないでしょうか。

関連するQ&A