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ノモンハン事件
なぜノモンハン”事件”と呼ぶのでしょうか。 モノによれば日ソ戦争と表現しているのもあるし、 宣戦布告絡みなら日ソ事変ではいけないのですか。 長らく日本の惨敗のように言われてきましたが、 ロシア側の情報が公開されると、ほぼ5分5分くらいの 被害状況だと聞きましたが、最新の情報ではどうなのでしょう。
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シニア男性です。 日本側の言い方が「ノモンハン事変」が多いようです。 国境紛争、衝突であり、宣戦布告があったわけではありません。 日本軍は大損害を出しました。 理由はソ連の戦車が優れていたからです。 米国のクリスティーが開発した高速走行が可能、かつ傾斜装甲により 防御にも優れる試作戦車をもとにしたもので、後のT34の前身となる 戦車です。 このような戦車が配置されていた理由は、スターリンの軍粛清の結果、 最先端である電撃戦部隊が左遷されていたからです。 ソ連側も被害は大きかったことは後、明らかになりました(五分五分か どうかは?)。 が、この直後39年9月に第二次世界大戦が始まり、40年ドイツの 電撃戦が英仏軍を駆逐し、その優位性が明らかになりました。 そして41年のドイツによるソ連奇襲、侵攻に至ったのですが、T34を 主力とするソ連機甲部隊が揃う43年にはドイツ軍を圧倒し始めました。 つまり、NO1と思われていたドイツ陸軍よりもソ連陸軍は強く、世界 最強の軍団であったわけです。 39年も、41~42年も、そうであることをヒットラーも、そして スターリンも知らなかったわけです。 日本がそのことを知ったのは45年8月(ソ連対日参戦)、ないし戦後だと 思います。 このような軍と関東軍は戦ったのでした。
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- Pinhole-09
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国家間の戦は大きい順に、 戦争、事変、事件、紛争と呼びます。 戦争は宣戦布告をした場合ですが、そうしなくとも 著しく大きい場合は戦争とも呼ぶようです。 日本ではノモンハンの前に日中間で大規模な戦争を していましたが、宣戦布告なしだったので、日支事変 と呼んでいました。 その後満ソ国境の張鼓峰で国境紛争から小戦争が起こり ましたが、地域的面もあり日ソ事変とはいえず、場所名 を使い張鼓峰事件と名付けました。 次に満ソ(満蒙)国境のノモンハンで同様の戦争が怒り かなり大規模で事変と呼んでもおかしくないのですが、 日支事変都の比較で、同様ノモンハン事件と名付けたわけ です。 勝敗は前線部隊は全滅に近い被害を受け、後詰の師団を あわてて動員する有様で、停戦後も国境線は敵の言いなり ですから、惨敗は明らかです。 しかしソ連側も日本に劣らぬ大損害を受け、その後戦闘が 続いたらと考えると惨勝というところです。 川中島の合戦みたいですね。 ソ連軍はよくいわれているように、戦車隊と歩兵隊の連携 がよく行われず、失敗しました。 砲兵隊は欧州の軍隊の伝統として優秀でした。 日本の砲兵隊は?
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日露戦争と同様、勝ちに乗じてどんどん 戦うとドツボにはまるから、ころ合いを見て… ということですね。 日本の砲兵隊は知らんですが、航空隊は かなり優秀だったそうですね。 回答ありがとうございました。
- qazwsx21
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日本から宣戦布告していないので事件というのだと思います。 最近は、日本よりソ連のほうが人的損害が多かったということが言われるようになっています。しかし、勝敗は政治的にきまるので、停戦協定を結んでしまえばそれまでです。
お礼
宣戦布告なしの軍事衝突は”事変”といわないですか。 ただ、日本絡みの事変はみんな中国(中華民国)相手 ですから、中国以外の相手にはその呼称は使用しないと いうようなこだわりでもあったのでしょうかね。 シベリア出兵の尼港事件も事変とは言わないし。 回答ありがとうございました。
- eroero4649
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#3です。 話は本題からそれますが、辻氏って世間で思われているほどたいしたことはないんじゃないかって思っています。確かにノモンハン事件では色々「活躍」しましたが、あれで陸軍内でも「好きにさせるとヤバいやつ」と認識されたようで、その後って割とどこでも相手にされていないです。 マレー作戦のときも色々とやろうとしましたが山下将軍に「ウザいやつだ」とピシャリとやられて活躍する場所がない。せいぜいが前線に神出鬼没に現れてはああだこうだと口を出しては「司令部っスか。なんかよく分からん人が前線に来て司令部命令だとかいってんスけど」「また辻か!そいつの相手はするな!」ってなっていたようです。 んで相手にされないもんだから随行の新聞記者なんかに滔々と自慢話をする。それで新聞に「作戦の神様」と持ち上げられたのが「作戦の神様伝説」の起源のようです。 その後「米兵ってたいしたことないね。根性なしだ」というようなことを書いた小冊子を作ってばら撒いて、それが「日本軍が米軍を侮った一因となった」といわれることもありますが、あの小冊子もそんなに熱心に広まった感じがないのです。 むしろ、「マッカーサー参謀」とあだ名された堀栄三氏の「敵軍戦法早わかり」がペリリュー島防衛部隊に取り入れられて非常に的確であることが知られ、後の硫黄島戦や沖縄戦にも取り入れられて米軍を苦しめたのです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%A0%84%E4%B8%89 堀氏は1995年までご存命だったようですが、ご自身の功績について自ら語るようなことはしなかったようです。そういう人って、そういうものですよね。 一方、辻氏は戦後にベストセラー作家として人気を博し、後に国会議員にもなりました。作家の半藤一利さんは戦後は編集者をしていて生前の辻氏と面識があったそうですが、彼の自慢話は体に入った破片が10個になったり30個になったりする。先輩の編集者に聞いてみたら、「それがあいつの山師たるところさ」といわれたそうです。 辻氏の本質は、今ならテレビタレントであり、政治家だったということだと思います。数々の「伝説」は本人が脚色した部分が大きかったんじゃないかなと思いますよ。それに巻き込まれて死んじゃった兵隊さんは浮かばれませんけどね。
お礼
周りが引き止めるのを承知で、死ぬ気もないのに 「俺を最前線に行かせろ」と喚いて、「みんなが 止めるからしょうがねーな」というような、なんの 作戦の神様どころか、疫病神ですね、辻正信は。 面白い余談、ありがとうございました。
- eroero4649
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つらつら考えてみたのですが、「張鼓峰事件」との絡みでしょうね。張鼓峰事件は事変と呼ぶレベルではなく、事件と呼んでいいレベルだったと思います。 それに比べればノモンハン事件は特にソ連側がはるかに大規模な動員をしたわけですが、あれだけ大規模な動員をしていたというのが分かったのはソ連崩壊によってロシア側資料が沢山出てきたから分かったことです。 一方の日本側(特に大本営と日本政府)はあくまで「国境紛争の小さな事件」として処理したかったわけですから、日本側のとらえ方としては「張鼓峰事件の延長線上」というものだったのではないでしょうか。航空部隊まで動員して大規模な軍事衝突までもっていったのはあの悪名高い服部&辻コンビによる現場の暴走ですからね。 被害状況ですが、ソ連側も少なくない損害を被って苦戦を強いられたのは間違いないようです。ただし、砲兵戦に関してはもう一方的敗北といってよく、「火力の戦いになると帝国陸軍に勝ち目がない」ということを知らしめたという点ではやはり戦略的にも戦術的にもソ連側の勝利といってよいのではないかと思います。 このノモンハン事件で、日本陸軍は「極東ソ連軍はその量においては関東軍及び満州国軍を凌駕し、質においても優位に立ちつつある」ということを思い知らされました。陸軍が抱いた危機感というのは相当だったんですよ。特に「大砲の性能に関して勝てる気がしない」と思い知らされたのは衝撃的だったようです。 だから後に独ソ戦が始まってモスクワが陥落寸前になっても日本は対ソ戦に参戦しなかったのです。まあそんときゃ対米戦が始まっていましたけどね。しかし日米関係が悪化する中で陸軍は「ちょっと待て。ドイツがソ連に勝つかもしれないからアメリカと戦争はおっぱじめるな」とはいわなかったわけです。 あえて日本側によくいえば、あの時点で停戦したからこそ「日本軍の敗北ともいえないのでは?」といえるのではないかと思います。もし服部&辻コンビが望んだように更なる拡大となって「第三次ノモンハン事件」となったら今度は一気に坂を転げ落ちるように日本軍側が敗北を被った可能性があります。第23師団は実質的に全滅状態でしたからね。 なに、我が国じゃよくある風景ですよ。「上がバカをやって、現場が必死にフォローして上のバカのミスをなんとか取り返す」というアレです。
お礼
辻正信、作戦の神様と呼ばれた男も、 ソ連邦末期のグラスノスチで名誉回復 ですが、彼はどこへ行ってしまったのだろう。 硫黄島の戦いにも辻の名は出てきます。但し辻の派遣に 現地軍から「そいつは要らん」ということですが。 回答ありがとうございました。
- mm058114
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その当時何と呼ばれていたかは、分かりません。 後日の名付けかもしれません。 張鼓峰事件もあったからつけられたのでは、ないでしょうか? 当時、日本では、宣戦布告のない戦争、紛争は事件と呼んでいました。 それに、地名をつけただけではないでしょうか? 一方、ソ連では『ハルハ河戦闘』中国では『ハルハ河戦争』と呼称しているようです。 ソ連側資料では、確かに5:5だった様です。 撤退も考えていた程のようです。 スターリンが、ヨーロッパ情勢を考えた時に、2面戦争になることを恐れたと言われています。 また、する必要はないと考えており、日本は近未来に、石油も求めて、イギリス、オランダと戦争するから、 あえて、世界3大陸軍国どうしが、戦争する必要はないと考え、追加部隊を送らなかった様です。 それにより、現地軍は、迫り来る日本軍に恐怖をいだいていた様で、戦闘は5分5分だった様です。
お礼
日ソ両軍とも相手に恐怖を抱いていたということですね。 日本は自分で負けたと思い込んでいたことがのちに 太平洋戦争への誤った道を進む分岐点になったということでしょうか。 回答ありがとうございました。
お礼
日露戦争後、ロシアの復讐を恐れる日本陸軍は 対ロ恐怖症になっていたので、ソ連との戦闘で 自軍の被害が予想以上になって「やはりやつらには かなわない」となったのでしょうか。しかし被害が ほぼ同数と当時知っていれば、のちのドイツとの同盟 関係からの対ソ戦が勃発していたかしれませんね。 回答ありがとうございました。