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羽柴(筑前守)秀吉などの「〇〇守」の意味

歴史の中で出てくる名前に「〇〇守」などといったものを目にするのですが、この役職は誰から与えられたもので、その根拠は何なのでしょうか。また、その役職を与えられた者にとっての職務とは何なのでしょうか。

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  • aster
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回答No.5

  歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。 地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期に下馬将軍と呼ばれ権勢をふるった、酒井雅楽頭という人物がいますが、この場合、雅楽寮という官庁の長官(かみ)は、「頭(かみ)」と呼びます。忠臣蔵に出てくる、浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)も、国司ではなく、内匠寮の長官で、頭(かみ)という漢字を使います。 それはとまれ、律令制において、日本全国は朝廷の領土となり、朝廷は日本全国を、「国」という単位に分け、国を統治する官職として、国司の四等官を置いたのです。この場合、「守」とか「介」は、現在の県などの行政に当たる県知事などとは違い、「行政・司法・警察」など、権力を一手に掌握した官職でした。(更に、徴税なども監督しましたから、税務署長官も兼ねています)。 平安時代では、この官職は、現実の統治権力を持っており、受領階級と呼ばれる、中級貴族が、守や介を交互に任官し、彼らは、領国で、絶大な権力を持って、大金を賄賂や様様な方法で獲得しました。(国司の三等官や四等巻の目は、普通、地元の人間を任命しました。守や介は、京に済む中級貴族が任命され、任国に普通は赴きました)。 しかし、鎌倉幕府が起こると、頼朝は、名目を設けて全国の国に守護を置き、幕府任命の守護と、朝廷任命の国司の二重統治になりますが、次第に守護が実権を握り、国司は名目的なもの、名誉職になって行きます。しかし、「称号」としては、意味を持っていたのです。室町幕府も守護制度を置き、応仁の乱の後の混乱では、守護が独立勢力となって、守護大名となります。戦国時代のはじまりになります。 国司の官職名を、有力武士や大名が勝手に名乗ったりし始めます。例えば、織田信長は、「上総守」を自称します。しかし、東国三国、つまり、上総・常陸・上野の三国は、伝統的に親王が守になることになっており、臣下は、介になるのであり、実質的に、これらの三国では、次官の介が、守の役割を果たしたのです。 臣下であって親王などでない、信長が上総守を名乗るのは、信長がよほど無知であったか、または何か意図があったのかも知れませんが、とまれ、織田上総守などと名乗れば、「馬鹿か」ということになるのが、一応、当時の教養人の常識でした。上総介も上総守も、官職として存在したのです。ただ、上総守などは、一般の人間・臣下はなれないのです。三国は、皇族の親王のための領地だったのです。 上総守は信長の自称ですが、最後には、正二位右大臣になりますが、これは、天下人となった信長が、朝廷から引き出した正式の官職です。信長はまた、自分の部下の武将にも、朝廷に意向を伝えて、様様な官職に任官させます。例えば、羽柴秀吉は、従五位の筑前守です。羽柴筑前守は、これは朝廷の与えた正式な官職です。 秀吉は信長逝去後、親しかった政治公家の京極菊亭大納言を通じて、正五位近衛少将の官職を朝廷から授かり、それに続いて、どんどん昇進し、関白太政大臣にまで昇ります。 戦国時代も末期になると、信長の例のように、朝廷の権威を利用して、官職を部下に朝廷を通じて与え、権力の正統化を行うようになります。家康の三河守や内大臣、また秀吉子飼いの武将の官職などは、すべて朝廷が授けた正式なものです。 家康は将軍となって江戸幕府を開き、源氏の氏の長者、武家の統領として、臣下に当たる大名や大身旗本に、それぞれ朝廷を通じて、官職を授け、大名も旗本も、基本的に、代代、その官職を継ぐことになります。例えば、土佐の山内家は、藩祖が対馬守で、代代、山内家の当主は、対馬守ということになります。 「守」というような官職は、一種の大名や大身旗本の「称号」となったもので、本来、律令制では、一国に、同時に複数の守などが任命されているのはおかしいのですが、山内対馬守の例のように、代代、称号を名乗る者がおり、対馬守は知りませんが、越前守とか伊豆守などは、複数の人がその称号を使っていました。 これらは、従五位(下)相当で、先に挙げた、雅楽頭や内匠頭なども、従五位(下)です。しかし、御三家と云われる、尾張、紀伊、水戸の三つの家は、当主は、尾張と紀伊が大納言、水戸が中納言で、大納言は普通、正三位、中納言は、従三位でしたから、これらは、官職だけでなく、朝廷での位も高かったのです。 江戸時代になると、武士などが、勝手に、公家官職を名乗ることは禁じられました。また、職人で、例えば、日光東照宮を建築したような、業績のある者には、官職を与えて、顕彰したというようなことがあります。  

BOBmmm
質問者

お礼

すべての疑問が解けました。律令制下の任官システムが戦国時代で自称が黙認されるなど、システム自体が腐朽しかかり、江戸で再び公家官職を勝手に名乗ることを禁じるという、システムの再構築が行われたとは意外でした。また、官職が形骸化しても、朝廷(天皇)の権威に利用価値があり続けたというのは、興味深いですね。神格化される(WW(2)に際するような)以前で、しかもローマ法王のような宗教性・道徳規範性も帯びていない存在である天皇が天皇であり続けられたのは何故なのかなーと。中世・近世を通して、どのような天皇観が浸透していたのか。庶民や武士なども「日本書紀」「古事記」などにある国家起源を認識していたのか。また、新たな疑問が湧いてきました。

その他の回答 (5)

回答No.6

いやあ、皆さん大変お詳しいですね。 それはそうとBOBmmmさん。私はともかく、これだけ詳しく教えてくださった 皆さんにひとことくらいお礼を言ってもいいのでは?

BOBmmm
質問者

お礼

先日から出かけておりましたので、PCを見ることができませんでした。別に教わるだけ教わって無視したわけではありませんので。ありがとうございました

  • miska
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回答No.4

ほぼ#3の方のおっしゃるとおりですが、ちょっと間違いが。 >  織田信長の「上総の介」など、朝廷が任命していないのはもちろん、そもそも「上総の国」に「介」の官職は無いのです。 逆です。 上総他数国は"事実上「守」がなく「介」が実質的な国司であった"です。 これらの国(上総、上野、常陸…まだあったかな?)の国司(守)は親王しか任命されることがなく、しかも他の国以上に名実だけというニュアンスが強かったので、実際には次官(介)が政務を行っていました。 というわけで、"上総守"や"上野守"と名乗る武将がいなかったのです。 # 信長は初期に1度だけ上総守と署名していたようですが…このルールを知らなかったのかつい間違えたのか、詳しくは不明です 忠臣蔵の吉良上野介も同じ理由で「介」なわけです。 「介」が存在しない国は…あるのかもしれませんが聞いたことはありません。 ちなみに、戦国時代においてもごく一部ではありますが実力を保っていた国司(国司大名などと)も存在します。 伊勢の北畠氏、土佐の一条氏、飛騨の姉小路氏の三家がそれにあてはまります。

BOBmmm
質問者

お礼

「守」がいなくて「介」だけがいるとは、いわば副知事はいるけど知事はいない、みたなことだと考えるとなんだか変な感じがしますね。ところで、「守」には親王しか被任命権がなかったということは初めて知りました。ということは、各地で「守」を名乗る武将らは、親王(朝廷)から委託された現地官僚という側面もあったということでいいのでしょうか・・・。

  • treetree
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回答No.3

律令制における国司の官職名です。守、介、ジョウ、目の4種があり、朝廷が授けます。現在の県知事のようなものだと考えると分かり易いでしょう。 例えば、    「伊予の守」 => 伊予の国の国司 => 愛媛県知事 律令制では、日本全国が朝廷のものですので、各国に国司を定め派遣します。 筑前の国の国司は、「筑前の守」に任じられ、日向の国の国司は、「日向の守」に任じられます。 しかし、時代が進むと、国司に任命されても都に居て、草深い任地に赴かない者も現れてきました。 また、「伊予の守」や「陸奥の守」のように、何となく清和源氏が独占するのが当たり前の官職なども出てきます。 鎌倉幕府以降は、幕府が守護を各国に設置し始めるので、国司はますます有名無実な存在になります。鎌倉期の建前は、   国司 ==> 行政   守護 ==> 軍事、警察 なのですが、実際には「朝廷の国司」と「幕府の守護」の2重統治から「幕府の守護」の一元統治へ移って行きます。 後醍醐天皇の建武の親政で、現実の国司が復活しますが、これが最後です。 以降は、朝廷による○○守という国司の任命は、肩書きとして残りますが、実際の国の統治とは無縁になります。むしろ、その国を統治している守護に対して、国司の○○守を任命するようになります。今川義元の「三河ノ守」など。  戦国期になると、朝廷の任命など無視して、○○守や○○介を守護大名や国人が名乗りはじめます。  織田信長の「上総の介」など、朝廷が任命していないのはもちろん、そもそも「上総の国」に「介」の官職は無いのです。  では、戦国期以降、○○守は全く権威が無いかというとそうではなく、明智光秀の「日向の守」、羽柴秀吉の「筑前の守」は、「九州も征服するぞ!」、という武威に使われました。  江戸期では、「越前の守」や「佐渡の守」など、朝廷の官職を肩書きとして、旗本や大名が名乗りますが、殆どの場合は領地と関係ありません。  それでも、「武蔵の守」はありません。官職が風化され現実の領地とは無縁になっても、将軍様の領地の「武蔵の国」の国司を名乗るのははばかれたのでしょう。

BOBmmm
質問者

お礼

詳しいご説明ありがとうございます。律令制のにある四等官に由来していそうなことは想像できたのですが、「勝手に名乗っていた」ということを知り、腑に落ちました。と、いうことは例えば「日向の守」が同時代に複数存在していた、ということもあったのかもしれませんね。その場合は「お互い様」って感じだったのしょうか?

  • batyo
  • ベストアンサー率43% (270/626)
回答No.2

shelf_townさんの回答の通り、その地方を治める守護職です。 ただし、戦国時代は有名無実な物になっていました、今でいうなら県警の警察署長見たいなものです。 「〇〇守」という役職は官職ですので、本来は朝廷が任命するものですが、勅書は天皇が出すものの、実際は幕府(将軍)が決めていました。

BOBmmm
質問者

お礼

ありがとうございました。幕府が推挙した守護を最終的に任命するのは幕府、朝廷のどちらだったのか・・・。調べてみます。

回答No.1

鎌倉幕府や室町幕府が地方統括のために置いていた「守護職」 のことではないでしょうか。 職務は領内の武士の統括や、治安維持でしょう。 ただし戦国時代には形骸化していたと思われます。乱世ですから。 「大岡越前守」とかいっていたので、徳川幕府にもあったのでしょうね。 ...自信なしです。

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