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明智惟任日向守光秀などの「○○守」の命名者など
明智惟任日向守光秀、羽柴筑前守秀吉など「○○守」という名前(正確には、官職の名称でしょうか)がありますが、戦国時代においては、この名前は誰が命名したのでしょうか。 また、ドラマなどを見る限りでは例えば筑前守秀吉が筑前を統治したことなど一度もないように見えますが、「○○守」という名前を名乗っていることと実際にその「○○」の国を統治したかどうかあるいはその「○○」の国から金や物を納めさせたかどうかとは、戦国時代には、何の関係もないのでしょうか。
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前にも同じようなものがいくつかありますが(定期的に同様の質問が出ています)・・・前に書いたものを多少編集して載せます。 まず、本来的に守職というのは、その地に赴いて政務を行うのが役目です。 古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。ただし、官職によっては親王のみがなれるものがありまして、その際は次官である介(スケ)が実質統治する場合がありました。 ついでにいうと、お金を稼ぐなら守がよい(賄賂とか税収をピンハネしたりとか、結構潤っていた人が多い)ということでわざわざ官位としては四~六位程度であまり高い位ではない守にしてくれ、という人までいました。もっとも、人気のない国はあり、これは簡単に言うと金銭収入が低い国です。そういうところに限って官位では高い位にあります。 しかし、武家の台頭により実際に任地に赴くことはまずなくなり、戦国時代にはただの箔となっています。武家の台頭とともにただの箔になったのです。厳密に言うと、守護とか地頭とかいう「守以外の長官」がでてきてからですね。 さて、戦国時代以降ですが、この時代多くの武士は官職を名乗っていました。 しかし、正式任官と、いわゆる僭称(勝手に名乗っている)の2種類がありまして、戦国にはほとんどが僭称となっています。正式任官している人のほうが例外です。 特に七位程度だと9割以上は僭称なのですが・・・守となると一応は正式任官している人が多いです。 しかし、それは大名クラスの話で、守職でも結構な人数が僭称しています(北条家臣団なんかは守職が山ほどいます。でも大名以外は任官していません。僭称です)。 織田信長を例に挙げますが、これは僭称です。最初上総守と書いていたのですが、すぐに上総介と変えています。非常にいい加減ではありますが・・・こういうものです。 つまり、勝手に名乗っていただけ、ということです。 僭称となれば、ただ名乗っているだけですから当然職務はありませんし、こなす必要もなければ義務もないのです。 ・・・以下は取ってつけたようなものなので、かぶるところがありますがご了承を。 さて、誰がつけていたかというのをまとめると 1.勝手に名乗る 2.先祖が勝手に名乗ったものをそのまま使う 3.朝廷からもらう もちろん本来的には3が正しいものです(正式任官となります)。 しかし、戦国時代以降3はほとんどなく、その多くは1,2、つまり僭称です。 なお、明智光秀の日向守については正式任官、羽柴の筑前守についても正式任官となります。 しかし、これは1575年の話で、それ以前になのっていたものは僭称となります(滝川一益は左近将監をなのっていたがおそらく僭称)。織田家については、京に上洛するなど、政治の中心地にいたから正式任官がいるわけでして、非常に「例外的」です。織田家については3でして、信長が朝廷に依頼して、家臣に官職を与えてもらったのです。 なお、僭称は江戸時代になると余計にひどくなり、守が人気のある国は5人くらいいるなどざらでした。 ただし、No1の方がいっているように「知行地と関係のない官位を名乗るのを禁止した」というわけでもなく、理由なんてほとんどなしに官職の名乗りは通されていました(実際にはその土地にかかわりがあるからという理由が必要だったのですが、そんなものはほとんど嘘を書いても通ったようです)。 例外的に「大名藩が丸ごと治めていて、かつその大名藩が名乗っている官職(前田の加賀守など)」については、禁止していました(それと同姓同守もまずいので差し止められました)。 また、これを行っているのは幕府です。本来的には守は朝廷が任官させるのですが、この時代は幕府が、名乗らせるかどうかを決めています。 統治したとか関係あるかというのは、戦国時代においてもほとんど関係ないです。えらそうに聞こえるから適当になのっていたようなものでして、あくまで「箔」なのです(そのため戦国時代以降において、名乗る=任官ではありません)。 まえに出ていた質問ですが、江戸時代の官職についてはこちらで詳しく述べられています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2222395
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- oume
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官位は本来なら朝廷(場合によっては親王から)授けられるものですが、戦国時代の官職名は主君から臣下に与えられる官途書出、受領書出と呼ばれるものが多かったようです。理由としては、一つは自分の領土の正当性を主張するための名乗り、もう一つは主君が家臣に褒美として官位を与える場合です。明智光秀や秀吉の場合は後者でしょう。 先程述べましたとおり、官位は褒美として与えられるもので、知行地と関係してないことがしばしばあります。江戸時代の武官官位は混乱を避けるために、知行地と合わない官位を名乗ることを禁止したくらいです。戦国時代では、官位を貰うこと自体が名誉なので、特に知行地と関連づける必要がなかったのでしょう。 また、戦国時代の官位は自称と朝廷の許可を得たものと両方あり、織田家臣団は朝廷の認可を得た正式な官職名でした。
お礼
やはり実際の領地とは無関係なのが多いのですね。 織田は朝廷の認可を受けていたのですか。意外ですが、信長も当初は朝廷の権威が欲しかったのでしょうね。 ドラマでは「○○守」というのがかっこよいと見えてめったやたら出てくるのですが、戦国時代の武将もきっと全く同じ心情だったのでしょうね。 有り難うございました。
お礼
たいへん詳しい御説明を有り難うございます。何を求めて守を名乗っていたのか、名乗らせたのか、戦国時代の気分を私なりに感じられ、疑問が氷解しました。 Webサイトもお教えいただきたいへん勉強させていただきました。 有り難うございました。