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承平天慶の乱と唐王朝滅亡
10世紀の初めに中国が唐で滅亡したことが、日本で承平天慶の乱が おこった遠因になっているときいたことがあります。 具体的にはどのような影響があったのでしょうか。
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二つの方向で考えられます ひとつは、地球規模での気象変動 http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:2000_Year_Temperature_Comparison.png 具体的に中国および東アジアの気温変化データがあるとわかりやすいのですが。 (light green 831-1992): J. Esper, E.R. Cook, and F.H. Schweingruber (2002). Low-Frequency Signals in Long Tree-Ring Chronologies for Reconstructing Past Temperature Variability, Science, 295(5563): 2250-2253. このデータによれば900年ごろが気温が最低です。 気温変動により、ある地域の生産量が上がったり、下がったり。下がったところでは、飢饉によって政治的不安定要素があがります。生産量が上がると、その地域が新しい覇権を目指して勢力として成長します。 1000年ころのもっとも暖かい時代=中国史で言えば、寒冷な土地である中国東北部で、遼が帝国を名乗るほど国家として充実します。 いずれにしても、気温が変化することは、政治情勢の不安定要素が増加することになります。同じ東アジア地区の中国と日本で、同様な影響が生じたことは想像されます。 東アジアの政治状況で考えれば、 中国の歴代王朝は基本的に「海禁」です。王権が強力な時には、官営貿易中心で、民間貿易は禁止されます。(民間貿易を、官から見ると、それは海賊行為となります)官が弱まると、民間貿易が栄え、貿易の利益は、官に吸収されずに、民間に残ります。そして、民は民なりに、自己防衛が必要になるので武装化します。 この基本方式を、この時代10世紀前半で考えると。 唐の衰退 → 東アジア民間貿易の興隆 → 海賊の強力化 そして、藤原純友は西日本の海賊を勢力基盤としています。 平将門で考えると、北海道経由のオホーツク文化圏との関連もあるかもしれません<これは、まだぜんぜん解明されていませんが。 10世紀に力をつけて、それが遼や金という中国の帝国になっているのですから、それらの元になった集団と東日本との民間レベル(正史に残らない)の交流があったのかもしれません。