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聖徳太子

聖徳太子っていたのですか? よろしくお願いします。

みんなの回答

  • tokrenf
  • ベストアンサー率25% (3/12)
回答No.10

 聖徳太子は不思議な存在ですね。  自分なりに考えてみたのですが、少なくともモデルになった馬厩皇子はいたのかもしれないですね。日本書紀の記述から、隋書の記述に見られる倭国王の阿毎多利思比孤を元にしているようです。ただ、はっきりとは書かず、ぼかして曖昧な書き方をしてますね。新唐書には用明天皇が目多利思比孤だと書かれていて、紛らわしく判りづらくしてます。日本書紀が成立する120年ほど前の大王の名前がはっきり解らないのは不審ですね。  井沢元彦さんの「逆説の日本史」にあったのですが、太子は伊予の風土記によると、道後温泉に療養のためにやって来たのだそうです。井沢さんは太子の家庭環境について意見を述べられてましたが、この通りだとすると彼は人間不信に陥っていたことになります。(学会はこの説を認めない)そんな人が急に政治改革を行うことが可能だったのか、人と信用・信頼の関係を持つことができたのか疑問に思います。  崇峻天皇が亡くなった時、太子は位を継ぐ最有力候補で蘇我氏の血を引く人であったのに、天皇になれなかったのは、彼が聡明な人で蘇我馬子や推古天皇にとって扱いづらい人だったのではないかと思います。また、太子よりも推古天皇のほうが長生きだったというのもあると思いますが、亡くなるまで摂政だった例が神功皇后にもあるので、不審に思います。  

noname#157998
noname#157998
回答No.9

馬宿王子をモデルにした架空人物らしい。 推古天皇以前も架空らしい。

  • ringouri
  • ベストアンサー率37% (76/201)
回答No.8

No.3です。 一般の「聖徳太子非実在論」関係の新書などを読まれた方からの質問と思っていましたが、質問者さんは関連資料などを非常によくご存知で感心致しました。 コメント欄に挙げられた史料の問題点を深く理解されているようなので、世に言う聖徳太子の治績・業績・人格が歴史事実とは大きく異なるのではないかという疑問と、その意味での、「聖徳太子はいなかった」という説であれば、その通りだと思います。 (前の解答欄にも記しましたが)『上宮聖徳法王帝説』などに見られるように、当時 法隆寺の存在基盤を強化するために、相当猛烈な「聖徳太子」顕彰運動が展開された事実があります。その中で創作(捏造)されたり意図的な曲解をされたりした説話、遺品、資料などがあるでしょうね。批判的な立場で各史料の実証的研究を行なっていくことは本当に大切です。 ただし、狭い意味での、史料に記載のある特定人物が当時生きていなかったという意味での、「歴史上の人物が実在しなかった(人物の捏造である)」という説を立てる場合、慎重に慎重を重ねて検討する必要があるでしょう。その姿勢は上記の研究態度と矛盾するとは思いません。 『日本書紀』推古紀の該当部分を全面的に否定するには『書紀』以上の信頼できる文献や証拠が必要ですが、現状では「ないものねだり」の無理な要求でしょうから、「いわゆる聖徳太子と呼ばれている人物に対応する人は存在したが、その人格や業績については必ずしも信頼できる資料は残っていない」という平凡な立場に立つしかないです。(センセーショナリズムやジャーナリズムの観点からは興ざめかも知れませんが....) なお、『隋書』その他の中国文献の「倭」や「イ妥」(←文字化けするので:タイの字です)の記事を何の史料批判もなく推古紀の記事と対応させて合う・合わないと議論する方法は再検討が必要かと思います。 「三経義疏」なども聖徳太子が作ったものとの前提で議論や立論するとおかしなものになりますね。『勝鬘経義疏』や『維摩経義疏』については御指摘のように、太子の作とするには無理がありますし、『法華義疏』も内容、形式ともに太子真作とするのは困難です。 ご研究頑張ってください。

  • sekai_s2
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.7

以下のことから厩戸王子と「日出處天子」(聖徳太子)は別人であり、「日出處天子」は九州王朝の人物で、冠位十二階、憲法十七条制定、遣隋使派遣、仏教に深く帰依した。厩戸王子はヤマト王権の人物で、これといった実績はないと考えられる。九州年号に「聖徳」(629年)とあることを聖徳太子と結びつけ、伝説の聖徳太子は九州王朝の王の一人であった(聖徳太子の太子は本来は、仏教に深く帰依した大師である)とする説もある。 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 イ妥國」によれば、イ妥國王の多利思北孤(日出處天子)の国は山島にあり、イ妥國には阿蘇山があると明記されているので、イ妥國は九州のことである 。 開皇二十年(600年)の「倭王姓阿毎字多利思比孤」は男王であり「王妻號鷄彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」がいるので、太子でも女帝(推古天皇)でもない。また、当時のイ妥國の王が女性であったならば、中国では大変珍しいことなので、隋の使者が見逃したり記録に留めなかったりしたはずがない。 古事記には 用明天皇記において「厩戸豊聡耳命」という名の記載が1箇所あるだけで業績に関する記載は無い。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
回答No.6

斑鳩の法隆寺から、小墾田宮跡まで直線距離にしたら約15キロ、 馬を飛ばしたら約1時間で行けますよ。

回答No.5

いましたよ。でも、太子の生前は、1.厩戸、2.豊聡耳、3.八耳(やみみ)、 4.上宮、5.聖王、6.法王(法皇)、7.法大王(法王大王)、8.法主王と 8つの呼び名があり、聖徳太子は諡号(おくりな、しごう、死後の名)で、最初に現れるのは、死後84年たった、706年(慶雲3年)「法起寺」の三重塔の露盤銘にある「上宮太子聖徳皇」です。 http://urano.org/kankou/topics/taishi/index.html

tanukiwien
質問者

お礼

ありがとうございます。 ただ厩戸王が聖徳太子とは思いません。斑鳩から飛鳥までかなり 距離があります。伝説の馬を使おうとも政務をになうには遠すぎます。 遠くに行かされたような気がします。また飛鳥に葬られずに河内磯長 に葬られたのは政権にいなかったからだと思います。 推古朝遺文に現れる天皇や上宮法皇等は基本的に怪しい感じがします。 「天寿国曼荼羅繍帳銘」は金沢英之氏によって儀鳳暦であるとし成立 時代が下る(持統)事を証明しました。 天皇の文字は674年唐の高宗が皇帝を天皇を称したことが最初で 日本でも使われるようになったのでないかと思います。 法起寺露盤銘の銘文は「太子伝私記」にあるもので出自自体怪しいで すが露盤銘は塔の高い部分についていて普通見ることはできません。 その後九輪が盗まれたり、改鋳などの動きがあり不穏な動きがあり ます。

  • googahaku
  • ベストアンサー率17% (43/242)
回答No.4

私は「聖徳太子はいなかった(谷沢栄一著 新潮新書 2004)」で読んだ記憶があります。結局よく分からなかったけれども、色々な説はあるようです。日本書紀に描かれた人物には、複数の人物を統合して一人の英雄を作り出し、時の政権を賛美する手法が数多く使われていたといわれています。聖徳太子もそういった作られた英雄のひとりである可能性は大いにありそうです。  昔から歴史と創作文学の境目はあいまいで、歴史上の人物が面白おかしく脚色されてきました。今にテレビドラマ「水戸黄門」をみていて つくずくそれを感じます。  知識として?は持っていても、いまさら「いた」「いない」を厳密に追求しないでもいいのではないでしょうか。

  • ringouri
  • ベストアンサー率37% (76/201)
回答No.3

そんなに簡単に歴史上の人物を捏造できるわけがないです。 本当の名前はともかく、いわゆる聖徳太子にあたる人物が存在したことは疑えないと思います。というよりも、日本書紀に書いてあるのだから、一応その存在自体を認める立場から出発しないと、文献歴史学は成り立ちません。人物の存在自体を否定するには余程強力な論証が必要です。 近年話題になった「実績のある大学教授」0氏の説くらいでは、聖徳太子存在の否定はできないと思います。根拠薄いです。また、彼の文献の解釈はかなり恣意的です。 ただし、人物の治績については慎重な検討が必要でしょう。『上宮聖徳法王帝説』なんていう翼賛説が既に7世紀に広まっていたのですから、「聖徳太子の治績」については潤色が多いと想像できます。 日本書紀があまり信頼できない文献ですので、研究は大変ですし、いろいろな説が出るのは仕方ないでしょうね。非常に面白い分野です。

tanukiwien
質問者

お礼

ありがとうございます。 ただО氏が急に言い出したことではなく明治以降の研究の 積み重ねによってだと思います。 確実と思われた資料も怪しくなってきました。 推古天皇の時代に書かれたとされる文章には以下のよう なもの等があります。 1.伊予道後湯碑文<---万葉集注釈、釈日本紀 2.元興寺伽藍縁起ならびに流記資材帳 3.法隆寺金堂薬師仏光背銘 4.元興寺丈六釈迦仏光背銘 5.法隆寺金堂釈迦仏光背銘 6.法隆寺天寿国曼荼羅繍帳銘<---上宮聖徳法王帝説 7.三経義疏 1.現存せず。法興という年号や法王大王は怪しい。 2.元興寺伽藍縁起の成立が問題。 3.天皇号の使用、薬師仏信仰、聖王の使用等が怪しい。 4.現存せず。元興寺伽藍縁起の成立が問題。 5.法興、知識、仏師の使用は怪しい。 6.について多くの疑問がだされてきました。 宮田俊彦「天寿国繍帳銘成立私考」 東野治之「天皇号の成立年代について」 金沢英之「天寿国繍帳銘の成立年代について」 宮田は元嘉暦ではおかしく推古朝の物でなく後年の物とし ました。また上宮記との類似をこれも時代が下る理由とし ました。 金沢は「癸酉」が儀鳳暦に基づくものであることをつきと めました。 儀鳳暦は持統四年あるいは文武元年以降であるので推古朝 のものではあり得ないでしょう。 元嘉暦で書くべきところをうっかり儀鳳暦で書いてしまっ たのでしょう。 当時の文化について、藤枝晃は当時の日本では高度な仏教 文化を理解する素地が無いとしました。 藤枝晃は勝鬘経義疏と敦煌写本を比較検討し7割が同じも のであることを証明しました。 伝太子の義疏は当時の最新の成果を取り入れていますが、 内容的には凡庸なものとなっています。 つまりそれを太子に帰すことは無慚なことです。 使われている紙、書体とも中国の物とみて間違いないと思 われます。 福井康順「日本上代思想研究」で維摩経義疏は「百行」を 引用していますが、これが杜成倫の「百行章」であるとす ると太子が引用することは無理だと述べています。

回答No.2

聖徳太子=蘇我入鹿という説もありますね。 遣隋使が派遣された時に日本の支配者は男王だというような発言が あったという記録があるそうです(推古天皇の治世)。ですから 推古女帝以外に王権の中枢にいた男の指導者がいたことは事実なんじゃ ないでしょうか。今日伝えられる聖徳太子像とは違ったイメージかも しれませんが。

tanukiwien
質問者

お礼

ありがとうございます。 私は馬子が大王だった思います。 また「是の歳、蘇我大臣蝦夷、己が祖廟を葛城の高宮 に立てて、八佾の舞を為す」とあることから、蝦夷も 大王だった可能性もあります。

  • mat983
  • ベストアンサー率39% (10264/25669)
回答No.1

現段階では確証がないようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90 日本書紀などに記された彼の事蹟はいずれも歴史学的な観点からは確証がなく、その存在さえ疑問がもたれている。 聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立した次の史料が初出とされる。 『懐風藻』(天平勝宝3年・751年)に編纂とされる。 『日本書紀』(養老4年・720年):敏達天皇の妃推古天皇についての記事に「豐御食炊屋姬尊為皇后 是生二男五女 其一曰 菟道貝鮹皇女 更名 菟道磯津貝皇女也 是嫁於東宮聖德」と見えるが、「聖徳太子」という名称は記されていない。 顕真の著『聖徳太子伝私記』に引用される「法起寺塔露盤銘」(慶雲3年・706年という)に「上宮太子聖徳皇」と見える。 聖徳太子の他にも厩戸王、厩戸皇子、豊聡耳、上宮王、上宮聖徳法王(『上宮聖徳法王帝説』)…と様々な名前で呼ばれる。

tanukiwien
質問者

お礼

ありがとうございました。 日本書記は怪しいですね。目的は馬子の存在を薄めるた めと系譜の確立だったのかもしれません。 古事記 日本書紀 上宮記 上宮聖徳法王帝説 上宮聖徳太子補闕記 聖徳太子伝暦 法起寺塔露盤銘<---聖徳太子伝私記 これらは成立年代が下りますし、久米邦武、津田左右吉等 によって内容的にも疑問が挙げられています。 坂本太郎、田中英道等は三経義疏等を親筆としていますが 明確な証拠が必要でしょう。 法起寺塔露盤銘の問題は、古い時代には法起寺は岡本寺と 呼ばれていなかったことです。これもうっかりかもしれま せん。

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