- 締切済み
聖徳太子
ひところ、実在さえも疑われていた聖徳太子が、 今も教科書から消えていないようにみえるのはなぜですか? (今朝のニュースで子どもが聖徳太子について学んでいる映像が出てきたので) 疑う学説の方に問題があったから 居ないとまで証明するには至らなかったから その他 どれでしょうか?
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
みんなの回答
- gomapapy
- ベストアンサー率39% (41/104)
二度も回答を書き込んですみません。よく伝わっていなかったようです。 慎重に呼んでいただけると理解してもらえると思うのですが、私は別段、神武天皇がいたとも、聖徳太子は存在したとか書いていないはずです。 私が言いたいのは、存在したか否かということよりも、それを信じていたという日本人のこれまでの信仰と、史実を分けて考えるのはおかしいのではないかということです。 厩戸王が実在した、ということは実証主義の功績です。そして、彼の功績が聖徳太子と呼ばれるに値するものだったかどうか、ということはわからない。あるいは、疑義が残る。 従って、聖徳太子と教科書に記述すよりは、厩戸王と記述すべきだという意見は一理ある。と書いたはずです。 しかし、後世がそれを「捏造」したかどうかも、まだはっきりと結論が出ているわけではありません。懐疑論はあくまでも疑わしい点があり、実証できないために、厩戸王にせよという意見です。 では、実証できないからと言って、聖徳太子と呼ぶのをやめて、厩戸王と呼ぶことが妥当なのかどうか。という議論が起こるはずです。 しかし、この議論にまだ決着が付いていない状態であるにもかからず、教科書には厩戸王(聖徳太子)と書かれるということは、実証主義に偏っていはしないか?と言いたいわけです。 えくぼがあばただったとわかったら、あばたと遠慮なく言う。しかし、人はえくぼだと信じてそれを愛してきた。それを無視するような態度で歴史を語り、教科書にまで書いていいのか?と言っているに過ぎません。 皇国史観が産廃かどうかは、これも議論が必要でしょう。百害あって一利もないものなどあるのでしょうか。あったとしても、稀有な例でしょう。 一利でもあるなら、しかし、一利しかないのであれば議論に於いて否定されるという意味においても必要な思想です。 議論もなくして結論することは、個人的意見の粋を一歩も出ません。思考は常に慎重でなくてはならないはずです。そういう意味で、聖徳太子懐疑論に疑義を呈しているのです。 まだ議論は止揚されるまで尽くされていません。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34516)
私は、聖徳太子の存在は厩戸王も込みで怪しいなあと思っています。厩戸王もちょっと不自然。だってなんでそんな高貴な人がわざわざ馬小屋で生まれるのですかね。「馬小屋で生まれた高貴な人」といえば、やっぱりなんといってもイエス・キリストですよね。キリストの誕生神話が持ち込まれたと考えるのが自然じゃないかなあと思うのです。「遠い遠い国の聖人が、馬小屋で生まれたらしい。その伝説をもらってくっか。天竺(インド)より遠い国の話らしいから、バレねえだろ」だったのではないかなと。 では聖徳太子は誰なのかというと、私は蘇我氏一族(蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷の三代)だったのではないかなと思っています。つまり、冠位十二階や十七条憲法を作ったのは蘇我一族だったのだろうと思っています。 蘇我一族はご存知の通り乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺されて一掃されます。かつては「大化の改新」と呼ばれていましたが、今は入鹿暗殺とその後の改革(というほど大きな改革ではなかったという指摘もありますが)は分けて考えるべきだという指摘があり、暗殺事件は乙巳の変と呼ばれるようになりました。 これは純粋な権力闘争であり、これに勝利した中大兄皇子と中臣鎌足が権力の中心になり、中臣改め藤原氏の時代となります。そしてその藤原氏が編纂したのが「古事記」と「日本書紀」で、ご存知の通りそこでは蘇我一族はケチョンケチョンに書かれています。古事記と日本書紀の表記は乙巳の変の正当性を主張するものになっています。天皇にとって代わろうとしたから誅殺したのだ、とね。 でも冠位十二階とか十七条憲法を作ったのが蘇我氏ですとなったら、なんでそんな偉大な功績を残した人を殺したの?ということにもなりますから、私は蘇我一族の功績を「聖徳太子」という人物を作り上げることによってそこに持って行ったのではないかなと思っています。 おそらくモデルとなる実在の人物は存在したとは思います。まったくのゼロの人物ではない。でも誰も知らないような平凡な人物だったのではないかな。「とりあえずこいつにしておこう」という感じでね。何も特徴がない平凡で目立たない人だったら、逆に死んだ後に伝説は好きなだけ作れるじゃないですか。その人を覚えている人はほとんどいませんからね。 石舞台古墳は蘇我馬子の墓であろうといわれていて、その石室は他の遺跡と比較しても別格の存在です。どれだけすごい古墳だったのだろうかと思います。 その古墳を、石室が晒されるまで徹底的に破壊したのです。死者に対する最大限の冒涜ですよね。どれだけ中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我一族を憎んでいたかってことですよ。 神武天皇については、ローマ建国の王とされるロムルスとか古代イスラエル最初の王のサウルみたいな存在だと思います。あるいはアーサー王みたいな。 どこかにローマや古代イスラエルを建国した王様がいましたよ。いましたけれど、古すぎてそういう人は伝説の存在になってしまいます。実在の人物と、伝説がごっちゃになってどれが史実でどれが伝説なのか分かりません。後付けでいろいろと設定が作られたものもあるでしょう。 神武天皇もそういった伝説と現実の狭間に存在する人なのだと思います。
お礼
蘇我氏三代の功績を一人の平凡な人物に仮託した、という説と受け止めました。面白い考えですね。これが「実在しなかった」説なのかもしれませんね。ただし居なかったとまでは実証できないので、今も教科書に残ているのかもしれません(伝承や民俗を含めて)。 それにしても蘇我氏は、天皇の臣下でありながら、実力を持ちすぎて妬まれ憎まれて滅ぼされた……平家に似た運命です。中国にもこういう例は多くあるようです。狡兎死して走狗烹らる、と『史記』の時代に既に言われていますからね。
- kappa1zoku
- ベストアンサー率29% (334/1137)
聖徳太子というのは、後世での尊称もしくは諡号な訳で、推古天皇の甥っ子の厩戸皇子が摂政になり、冠位十二階、十七条憲法の制定、遣隋使、国史の編纂などを行った人物とイコールであるという部分はぼんやりとしても是としていいのではないでしょうか。 いわば日本において律令制の国家体制を築いた人たちがいた事実です。神かかりや力によってでの人民支配から法をもってする支配になったという象徴的な出来事を示す人物として聖徳太子は重要な訳です。 ところで、天皇の問題も書かれていますが、「天皇」という言葉が登場するのは中国での話です。 始皇帝以降、「皇帝」と称していた中国の君主のなかで、唐の高宗が674年に初めて「天皇」と称したのです。日本の天皇号はこの模倣で、同時代の天武・持統朝ごろから使われ出したという説が有力です。 皇国史観による神武天皇が即位したといわれる紀元前660年は縄文時代です。 紀元200年~300年頃から最初の古墳ができたという考古学の調査がありますから、その時代に卑弥呼の存在を主張してもおかしくはないのですが、それをもって初代天皇とすることは苦しいでしょうね。 それでは実在の天皇は誰かという話になりますが、歴史学者・水野裕氏によれば、第10代崇神天皇からだろうということです。成立年代は紀元290年頃と見ています。もちろん、「天皇」という呼び名はしていなかったでしょうが。 江戸時代のある時期、「神武天皇陵」なるものを見つけ出せとの命で探し出そうとしたが、「日本書紀」と「古事記」では微妙に所在地が違っていて、畝傍山の東北の方だろうと探した場所が、「糞田」だったという話があります。 これは何故かと言うと、古代神道の「穢れ」の思想がそうさせるもので、亡くなった天皇陵なるものを次の天皇は顧みもしなかったのです。 ですから、亡くなった天皇のお墓を参るなどと言う行為は神道とは別なものだといえます。
お礼
尊称もしくは諡号であれば、両立するのですが、 ひところ実在しない・架空の人物だとする説が 拡がっていませんでしたか? それで今はどうかと思い質問したわけでした。
- cse_ri3
- ベストアンサー率25% (165/640)
すみません。回答追加。 神武天皇陵は、奈良の橿原神宮でした。 天皇陛下は、伊勢神宮と一緒に橿原神宮にもご親拝されたようです。 でも伊勢神宮でも、神武天皇をよう拝しています。 この辺の理屈は、神道に詳しくないのでわかりません。
お礼
訂正を丁寧にありがとうございました。
- cse_ri3
- ベストアンサー率25% (165/640)
厩戸王として、残っていると思うよ。 史実は史実として、神話や伝承は、神話や伝承として教育するのが私は正しいと思います。 なお、余談ですが私は神武天皇はいたと思います。なぜなら、子孫である皇室が残っているから。 皇室の方々が、木の股から生まれたわけではないでしょう。 ですので、記紀に記されている神武天皇が史実かどうかは知りませんが、神武天皇(の役割をした方)は実在します。 あと伊勢神宮には神武天皇は祀られていないよ。 なぜか、神武天皇陵が伊勢神宮にあるだけです。 神武天皇を祀っているのは、奈良の橿原神宮だ。
お礼
未だに議論に決着は付いていないのですね。 神武は何百年も生きたことになりますが、それでも実在するというのは、神話と歴史の混同でしょう。中学の「歴史」で教えることではなく、フィクションのお話物語として明示して自由に読ませる程度のものです。
- gomapapy
- ベストアンサー率39% (41/104)
最新の教科書がどうなっているかは知りませんが、最近の流れとして、厩戸王(聖徳太子)になっていたと思います。 聖徳太子が実在したかどうかという話は、未だに議論に決着は付いていません。 聖徳太子懐疑論者は彼の功績とされる諸々に疑わしい点が多いことを挙げています。が、モデルとなる厩戸王はいたとしています。 なので、歴史教科書からは徐々に消えて、厩戸王とのみ記述すべきだとしています。 この主張には一理ありますね。史実なのかどうかわからないものを、あったとするのは不誠実だとする立場です。 それに対し、聖徳太子擁護論者は、歴史的事実として聖徳太子の功績に疑いがあることを認めつつも、その「信仰」まで否定することは、史実と伝説との連続性の否定だとしています。 懐疑論は、つまり、後世によって「捏造」された聖徳太子を否定しているわけです。が、擁護論は後世によって作られた伝説と史実を分けて考えるのはおかしいとしているわけです。 私も後者の考えを支持しています。というのも、例えば菅原道真公は後に学問の神として北野天満宮に祀られているわけですが、もともと彼は人間です。が、これも「捏造」された歴史でしょうか。 伝説が後に信仰になり、昔から現在まで延々とその信仰が繋がれてきました。なるほど、たしかに初めは「捏造」だったかもしれません。 ですが、事実に反した「捏造」だからといって、これまで信じられてきた歴史まで否定し、なかったことにして、子どもたちが学ぶ歴史の教科書から消していいのでしょうか。 私にとってこれは現代人の、事実でなければ信じないという、科学的で実証的な思考に偏った考えだと思います。これもある種の信仰ですね。 それはともかく、懐疑論は史実を追求するという意味において価値がありますが、勢い余って聖徳太子を愛してきた日本の歴史まで、無知蒙昧な行為だと断じてしまう傲慢さが透けて見えます。 私が嫌なのはそこなのです。傲慢になるくらいなら無知でいた方がいいと思うので、聖徳太子(厩戸王)と考えます。
お礼
そうすると、回答者様は神武天皇も居た、と認めるお立場ですか? 昨年にNHKが、天皇家の伊勢神宮参拝か何かを「『祖先の』神武天皇を祭る伊勢神宮に参拝」とか報じて物議を醸しましたが、「皇国史観」の肯定と言われても仕方ない、前世紀の遺物です。参拝より産廃では?
お礼
皇国史観は日本で310万人を殺し、アジアの罪のない人を数千万人殺した、虚妄の歴史観です。民俗学や伝承学を楽しむことと、歴史学における実証を重んじることを混ぜると、元の与太話に戻ります。 また悲劇を招かぬよう、歴史に学びましょう。