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権利の哲学
●NHKさんの番組「変革の世紀」で 知的財産の所有権がディベートされています。 そもそも権利とは 自然界には存在しない概念で 現代社会のかかえる問題の多くがこの権利という 概念にかかわって発生しているように感じます。 人権・国の国土国民に関する権利・所有権 著作権・特許権etc どんな権利についてでも かまいません みなさんのお考えを教えてください。 また 権利に代わる将来的な人類を救う概念がなにか 思い当たる方 その斬新な発想を教えてください。 わたしも みなさんのお考えに触れていろいろ 考えてみたいと思います。よろしくお願いいたします。
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- cse_ri2
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>未来を予測してみましょう。 >多分権利を消滅させるのは ロボットです。 >近い将来ロボットにも 人権があたえられます。 >これはAIが社会に入り込んでくる時点で付与される >でしょう。 >しかし AIは規範のなかにある権利と義務はペットを >てなづけるアメとムチでしかないことに気がつくのです。 すみません、茶々入れるようですが、ロボットに人権を 与えることはたぶんないでしょう。 AIも少し関わりましたが、一般の人が想像しているような 自分で思考するプログラムの実現は、ほぼ夢物語である ことが、わかっています。 しょせん現在の情報処理技術では、外部から取り込んだデータ を人間が考えた一定のロジックを通して、新しいデータを 作成することしかできません。 複雑なロジックを人間が考えれば、あたかも生物のごとき 動作をさせることは可能ですが、しょせんは制作者のレベル の範囲内の動作です。 本当の意味で「鉄腕アトム」を実現するには、魂の創造と もいうべき未知なる技術 ・・完全にSFの世界です・・ が開発されなくてはならないでしょう。今のところは神の領域です。
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
>わたしは 衣食住に困らない方々の個人主義にどうこう >申し上げるつもりはまったくありません。わたしがここ >ろを傷めているのは衣食住もままならない世界20億人 >といわれる 恵まれない方々のことなのです。 >国連で世界人権宣言が謳われても その実態はODAの >目標値で分かりますように 世界の富をあつめるアメリ >カの目標値はペットにえさをやるがごとくのとても淋し >い内容のものです。 >NHKのリポートで 映画協会の会長さんの発言の紹介 >がありました。 >「著作権・特許権が生み出すわが国への利益は 他の > コンピューター・自動車等のどの基幹産業よりも > 大きいのです。 > これを ないがしろにすることは わが国の存亡に > かかわる大問題です。」 >わたしは これを聞いていて 常軌を慰していると感じ >ました。 >なにごとにも ほどほどというものがあります。 >既得権益者の利益を確保するために いろいろ理由を >つけて結局は「働かずして富を集束する構図を作り上げ >ている。」 >そんな 理不尽な欲の深さをその発言に垣間見たのです。 本論である「権利の哲学」は置いておきまして、上記の発言 について、少し考察しようと思います。 私も著作権の歴史はそれほど詳しくないのですが、アメリカ は建国まもない頃から、かなり力を入れていたようです。 著作権や知的財産権は、本質として制作者側の利益を擁護 するための仕組みと捉えています。 たしかに発明や技術開発、あるいは他の著作物の制作には 相応の費用がかかるは止むをえない面があり、投資を回収 するためにある程度の擁護は必要でしょう。 東南アジアや香港など、知的財産権の意識が薄い地域では 堂々とコピー商品(パソコンのソフトからビデオなどなんでもあり) が出回っているのは事実であります。 しかし、知的財産権の保護を強化してしまうと、ちょっと その作品を利用するだけで費用が発生してしまい、費用面 からその作品の模倣が難しくなり、技術革新を疎外する恐れ が出てきます。 この状況を打開する案の一つとして、知的創作物のフリー 化があります。 コンピュータの世界では常識ですが、フリーソフトといって 無料で使用できるソフトが出回っています。 モノによっては市販されている商品以上の品質と機能を誇る ソフトもあります。 有名なのはGNU/Linuxですね。他にも数多くありますが。 それらのフリーソフトの製作者は、人によりますが名誉以外 の報酬を受け取らない人もいます。 また、フリーソフトをまとめてパッケージ化して商品にし たてて販売する人もいますが、普通の市販ソフトと比較す れば、はるかに安価です。 また、ソフトウェアはフリーで使えますが、サポートや 教育などを事業化して、こちらでカネを稼ぐようなビジネス も存在しています。 上記のような手法を取れば、作成者のみに巨額な利益が入る ような構造は解消されますので、新規参入者により公平で 自由なビジネス環境が与えられるでしょう。 ビデオや音楽などの場合は、コンピュータソフトのように はいかないでしょうが、何かしらの手段はあるでしょう。 例えば、インターネットでコンテンツを公開して、広告費 を回収するなどです。 理想論がかなり入っていますが、コンピュータソフトウェア の世界では、かなり実現されている話です。 貧しい国の出身者であっても、才能と適切な教育を受ける ことができれば、短い期間で先進国と同等なビジネスを展開 することが十分できるでしょう。
お礼
●いつも分析的なご回答をいただきありがとうございます。 ひとつ著作権というものを取ってみても 問題は さまざまに浮き上がってきます。一例を挙げますと わたしが 一番悲しく思っておりますのは 音楽著作権と既得権です。音楽とはそもそも 時代とともに空気感として存在するもので だれが作ったとかよりも その音楽を聞きながら 人生を生きた人々のものだと考えるからです。 それが権利というものによって このネットの時代でも 多額の金銭と引き換えでなければ聞くことができません。 おじいさんやおばあさんが 自分の人生を縁側で 振り返るとき 無料でネットで検索して無料で ネットで音楽を聴ける そんな環境がいまより ずっとしあわせな社会のような気がするのです。 ご回答ありがとうございました。
- welovekobe
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#10 welovekobeです。お返事どうも有難うございました。 私は、一応クリスチャンなんですが、ロボットが将来人類を救う 「決意」をするかどうかはちょっと分かりかねます・・・。というのも、 「自由意思」は神様が子女たる人間にのみ与えられたものだ と信じているからなんですね。ロボットが自分の責任と意思で、何らかの 決断をして、この地球を救う時代が、将来待っているかどうかは、私の 想像を超えておりますので、ちょっとコメントは控えます。 が、 たかだか200年足らずの歴史しか持たないアメリカが、子どものように 権利!権利!とはしゃぐ訴訟社会を今日築き上げたとするならば、 日本は、1000年以上の歴史があるんですから、もう少し、母親の ように慈悲深く寛大な心を持って、どっしりと構えて、対外的にも 長期的展望を持ちつつ渉外してもらいたいものだ。とは思いますよね。 私は、日本が、アメリカのような訴訟社会のようになることを危惧する 一人として投稿させていただいたまでです。ともに同じような価値観を 共有できれば幸甚だと思っています。ではでは、これにて。 感謝
お礼
●welovekobeさんの危惧する方向へ日本も世界も 向かっているみたいですね。 南アでの地球環境サミットですが 先進諸国の環境破壊を弾劾その責任を問う声が 発展途上国から上がっているらしいです。 いろんな意味でどちらも さもしい感じがして なりません。 クリスチャンの方に感謝というお言葉をいただくと なんか神聖な気持ちになっていまうのも不思議です・・・。 ご回答ありがとうございました。
- sanpogo
- ベストアンサー率12% (31/254)
私から何かをあなたに伝えられるとは思えないので全くもって無駄だと思うのですが。 それでも問題をつかんで考えてみたいので(H hokoさんにはなんのプラスにもなりませんが) 権利という概念が消失するとはどういうことをさすのでしょうか? 権利が何かを主張するという事として認識しています。それゆえに権利という概念が消失というのが想像できません。(人類が絶滅しているという事しか想像できない) おそらくこの権利をどういうふうに認識すればいいのかによると思うのですが そんな事をここですべて書き込めるとは思ってもいないのですが概要を教えてもらえないでしょうか?
お礼
●権利という概念の性質が問題だとおもいますので 権利に代わる社会の構築メソッドを模索している わけです。たとえばメソポタッミア文明などの 権力の存在する社会においては 現在のような権利という 概念は無いにしても それに近いのもはあったはずです。 権利の無い時代 人類が狩猟をしていたころにヒントが あるのかもしれません。たとえば縄文文化は一万年存続したと 言われています。そのような文化には あからさまな 権利ではなく やさしさとか仲間意識のようなものが 社会を維持させていたのではないでしょうか? そんな感じです。 ご回答ありがとうございました。
- hermeneus
- ベストアンサー率0% (0/1)
>国連で世界人権宣言が謳われてもその実態はODAの目標値で… >世界の富をあつめるアメリ著作権・特許権が生み出す… 著作権は、世界人権宣言・国際人権規約にも規定されている「人権」です。「人権 著作権」で検索をかけたら、このようなページを見つけました。 http://homepage2.nifty.com/hebicyan/main/hon.html >バヌアツという小さな島国が特許権侵害を理由としてバンジージャン >プ用の器具を製造販売しているニュージーランドの企業を世界知的所 >有権機関に提訴しているそうです。バンジージャンプはバヌアツ独自 >の成人の儀式でフォークロアなんですね。 バヌアツは小国ですけど、普通、権利を行使するには知識と財力が無いと無理です。被選挙権も行使しているのは金持ちばかりであるのと同様に。 でも著作権の例は少々適切ではないですね。この権利は、持っていれば政府からお金が貰える権利ではなくて、他人からお金をふんだくるためのものですので。それも自分が著作した物を他人が使って儲けているから、そのお目こぼしに預かろう、という。別に誰が虐げられたり搾取されるわけでもないでしょう。金持ち同士が、個人レベルの交渉でやってることです。 一方、貧者救済のための援助というのは、一度政府が税金を国民から強制的に取りたててから、特に貧しい人を優遇して再分配します。つまり、貧乏でさえあれば政府からお金が貰える。こういうのは、例えば上の著作権のように個人レベルで「オレは貧乏だから金持ちのオマエはオレに恵んでやる義務がある」みたいなことが通じません。必然、貰えるお金の量も限られています。これを更に多く再分配するよう強要すると、共産主義になりますね。 しかし「衣食住もままならない世界20億人といわれる恵まれない方々」は、別に世界が不当な構造になってるが故にそうである、というわけでもないでしょう。金満国が貧乏国を搾取してるのでもない限り。人道的援助は結構なことですが、この問題はそういう形では根本的な解決にはならないと思います。やはり自助努力しかない。貧乏国の人達が自分たちで努力して、自分たちの社会を裕福にしていかないといけない。他国に頼るだけでは無理です。ただ、彼らが貧困から脱出するのを手助けしてあげるのは有効だし、すべきだと思います。まあ、いずれにしても、権利論を維持する限り嫌がる金持ち/金満国に「親切になること」を強要することはできませんし、権利論を捨てて共産主義を採用しても、それが解決になるとは思えません。
お礼
●いま 性の陶酔状態にはいってて よく思考できません。ごめんなさい。 バヌアツのエピソードはとても参考になりました。 ご回答ありがとうございます。
- nozomi500
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>わたしが問題を感じている 権利とは 強者が弱者をねじふせるがごとくに >主張されるものを指します。 それが、「ワガママ」でしょう。他の方の回答とかみあわないのは、みなさんが「権利」を考えている(ばかりではないようにも思うけど)のに、「わがまま」で解釈しようとするからじゃないですか? 「権利」はみんな同じように認められるものであって、 みんなの権利を認めていない者が「ワガママ」放題してます。 ところで、著作権で生存権を侵害される人っていますかね? 海賊CDで生計を立てている業者関係者の生存権?
お礼
●nozomi500さんは 経済というものをご存知ないようですね。 世界は経済というひとつの価値で繋がっているのです。 動かずして富を集束することは その富が希薄に なる方々の生存の可能性を奪うことになります。 あなたの健康も安全もありとあらゆる公共財・公共のサービスの上に あなたの生存が確保されていることを 知らなければなりません。 あなたから わたしは得るものはなにもなさそうです。 あなたのレベルの方に いろいろ説明している暇は ありませんので ごめんなさい。 ご回答ありがとうございました。
- hermeneus
- ベストアンサー率0% (0/1)
権利論というのは、まず道徳哲学、政治哲学などの規範理論の一種です。規範理論というのは、 物事や行為の善悪、「何をすべき」で「何をすべきでないか」を説く理論です。 権利という概念を使って行為の善悪を言うというのは、例えば、ある人の権利を尊重する行為 は善い行為であり、権利を侵害する行為は悪い行為である、といったことです。 「人は権利を持ってるから、それを尊重しなければならない…でも権利なんてフィクションだ し、関係ないよ」的なことを言う人が偶にいますが、本来は順序が逆でありまして、その人の 存在を尊重すべきだと考えるからこそ、権利という概念でもってこれを説明しよう、というわ けだったのですね。無論、昔の哲学者は、そういった卑近な人類学、社会学としてではなく、 形而上学の真実として権利を語ることが暫しでしたが。 権利論の特徴は、人の尊重という行為を抽象化して、普遍的な適応を可能にした点であると思 われます。例えば人権は、人間であるだけで誰もが持つとされる。民権も、同じ国民であれば 平等に付与されます。一方、近代以前には、例えば親や先祖は大事にしなければならないとか、 地主や殿様には敬意を払わなければならないとかいった感じで、煩雑に特化した、目的論の内 において語られました。権利論だと、それが全て権利一つに還元される。あたかも自然科学の 数式で表される法則のように。近代に生まれた規範理論である権利論は、同じ時代に生まれた 功利論と同じく、当時興隆してきていた自然科学をモデルにしていました。 権利論の今日的社会におけるアピールは、個人主義を前提にしていることでしょう。社会が近 代化したことで、封建社会の楔から自由になった人々は、都市に流入して労働者となりました。 都市における人間関係というのは、賃金契約に代表されるように、全て個人のレベルで結ばれ ます。封建社会の農村のような、地主とその上の殿様とといった、階層秩序はもうありません。 ムラのような地域共同体もない。イエも核家族以上には大きくなりません。そういう社会では 権利論がもてはやされます。 個人主義というのは、個人が善悪判断における基本ユニットになってる、ということです。こ れを否定するようなことを近代人は極端に嫌います。昔は、イエのために自分を犠牲にしたり といったことは、当たり前のようにされてきました。結婚でも、自由恋愛など極めて希で、親 がイエのために良い婿なり嫁を見つけてきて、結婚させていた。今、これをやったら、権利の 侵害だ!と子供は猛反発するでしょう。また、グループのために自分を押さえるようなことを 勧告されれば、「全体主義だ!」「ファシズムだ!」と罵られます。 社会がそういったものである限り、権利論が廃れることはないでしょう。
お礼
●わたしは 衣食住に困らない方々の個人主義にどうこう申し上げるつもりは まったくありません。わたしがこころを傷めているのは 衣食住もままならない世界20億人といわれる 恵まれない方々のことなのです。 国連で世界人権宣言が謳われても その実態はODAの 目標値で分かりますように 世界の富をあつめるアメリカの目標値は ペットにえさをやるがごとくのとても淋しい内容のものです。 NHKのリポートで 映画協会の会長さんの発言の紹介がありました。 「著作権・特許権が生み出すわが国への利益は 他の コンピューター・自動車等のどの基幹産業よりも 大きいのです。 これを ないがしろにすることは わが国の存亡にかかわる大問題です。」 わたしは これを聞いていて 常軌を慰していると感じました。 なにごとにも ほどほどというものがあります。 既得権益者の利益を確保するために いろいろ理由をつけて 結局は「働かずして富を集束する構図を作り上げている。」 そんな 理不尽な欲の深さをその発言に垣間見たのです。 だれでも いままでの生活水準を下げたくはありません。 代々続いてきた文化を捨てたくありません。子や孫には 苦労はさせたくありません。そんな飽食の向こうでは おおくの貧しい人々が死に 汗と涙を流して働いているのです。 hermeneusは そのような概念としてのあらゆる権利と 現実のギャップをどのようにお考えでしょうか? わたしには 余裕のある者のたわごととして映ります。 本当に希望を失った人間は選挙にも行けないものです。 ご回答ありがとうございました。
- welovekobe
- ベストアンサー率42% (38/90)
貴殿のご質問は「権利」という言葉を、今回は「個人・企業・国家等の自 己主張」としてとらえ、どちらかと言えば、権利を「権力」=「悪」とい うような構図で捉えた「場合」の話の方だと思われます。ご承知のように、 一番分かりやすい事例としては、民法の第1条「基本原則」に1.私権は 公共の福祉に遵う。2.権利の行使及び義務の履行は信義に従い、誠実に 之を為すことを要す。3.権利の濫用はこれを許さず。というのがありま す。しかし、一番根本の権利といえば、やはり「人権」でしょう。これは 「自然権」とも言える、前国家的、前憲法的権利です。つまり、人間が産 まれながらにして持っている権利と言われています。 しかし、私ははっきり言って、産まれながらに人間が持っている権利なん て「偶然に産まれてきた生き物」には在るはずが無いと思っています。つ まり、私は、神様が人間を創造したと思っています。なぜなら、創造目的 がないものに、存在目的はなく、存在価値もないからです。当然、尊厳性 も無ければ、人権も無い・・・。人間に価値や尊厳性というものを認める なら、生まれる前から、存在目的がなければならず、そのためには、創造 目的が無ければなりません。理論的にそうです。ですから、単なる偶然に 産まれたものに、性善も性悪も絶対にあり得ません。偶然に産まれた存在 に、どうして人権などという価値基準が生前から備わっていると言えます か?ですから、神様が人間を創造した目的に合致して生きることこそが善 なのです。それ以外に、真の意味で「善」と言えるものはありません。創 造目的が、問題を解く一つの鍵です。目的性の背後には意思を認めなけれ ばなりません。人間は、胃、腸、心臓、すい臓、腎臓、肺、脳、目、歯・ ・・あらゆる機能が、合目的的に連結された存在です。そのような目的性 を持つ高度な機能的存在が、偶然に産まれるはずは無く、又、秩序性・目 的性を持つ存在(人間)の背後には、「意思」を認めなければなりません。 目的をもってそれを創造した何らかの存在です。 あなたがおっしゃるとおり、皆、自分勝手に「自分が正しい」と主張する 者同志がお互い衝突して戦争をしているのです。現在のアメリカのように です。正しいと言っている人がむしろくせものです。なぜでしょうか?そ れは、それが「正しい」かどうかの尺度・基準を自分自身が持ってしまっ ている場合があるからなのです。そのひもが1mかどうかは、ひも自体は 決められませんね。測られるものの外部に尺度・ものさしは無ければナン センスなのです。人間の善悪を測るのにその尺度が人間にあってはいけま せんよね。利己的にならざるを得ません。ですから、神の創造目的が全体 目的です。全体目的と個体目的が調和した世界 これが善であり「自然界」 です。ですから、「権利」といういかがわしいものが自然界には要りませ ん。「不完全な善」同士が衝突することが「悪」だと言えましょう。故に、 神様の創造目的と関係ない善は、実は「不完全な善」であり人間中心主義 の利己的な善だと言うのですね。全体目的と個体目的は、主体と対象の関 係、原因と結果の関係になっています。故に、全体目的を離れた個体目的 はあり得ず、又個体目的を保障しない全体目的もあるはずがない。これが 自然界の根本原理です。「わたしが希求する世界は権利という概念を 無 くして尚社会が機能する世界を構築し得る あたらしい概念です。」と、 どこかで語られていらっしゃいましたが、もしそういう原理があるとした ら、これしかありません。全体目的と個体目的の調和という神の原理です。 しかし、人間はその原理からはずれました。神様も干渉できない人間の責 任分担をはたせずに今日まで来ています。原理を離れた自由はありません し、責任のない自由は在りません。又、自由意思がなければ善も悪もあり ません。善なるライオンなんていませんよね。善なる真なる愛を選択すべ き責任分担を果たせずして、人間始祖が生殖器の誤用により堕落した結果、 人間には、自分でも嫌なのに「悪なる欲望」(邪心)が血統的に入り込み ました。元々、人間が邪心をもっていたなら、どうしてそれを嫌だと感じ 得ましょうか? このため、人間は自然界のように上手く行かなくなりま した。人間の責任を果たさなければなりません。邪心を分別して欲望を 「変革」しなければならないのです。「概念」だけでは無理なのです。こ のことを、私達は、知らないといけないと言うんですね。 最近の哲学は、結果的存在である人間だけを認識しうようと試みますが、 カレーライスがどうしてそのテーブルにあるのかは、カレーライスをいく ら調べても永遠に分かりません。作った人に聞かなければなりません。そ れと同じです。結果的存在である人間だけを調べて哲学しても永遠に「人 間の存在理由」、「存在価値」等そういうものの回答は出ません。原因的 存在を追及して行かなければなりません。21世紀がそういう変革の時代 であってこそ、あなたの崇高な理想も成就されるんでしょうね。 私は、それを信じたいです。 それでは今日はこの辺で失礼します。 祈
お礼
●welovekobeさんが おっしゃるところの権利の認識については だいたい似たような 問題意識を持たれてらっしゃるようなので お話を次に進めたいと思います。 わたしは 権利という概念がいずれ消失すると感じるのは welovekobeさんがおっしゃるところの「神」を自然の摂理と感じているからなんです。 もうすこし 考えを進めると 自然の摂理は「時間」と言い換えることもできます。 つまり わたしたちが見聞きする自然・わたし達の肉体を含めて すべてが美しいのはなぜか? それは 同じ時間を共有しているかなののです。 宇宙創世からの150億年という時間です。 あの空にみえる星ですら 何万年前の光がみえているのではなく 何万年前の光が何万年かけてここに至っているわけですから ここにおいて 150億年という同じ時間を内在して ともに存在していることになります。自然とはかくも 完璧な時間の具現によって成り立っているわけです。 権利とはどれほどの時間がそこに内在されているかといえば たかだか 何十年とは何年とかのものです。古いものでも 権利発生以前の人間にまつわるそれは 何万年くらいのものでしょう。 だから ここにきて声高にその気持ち悪さが露呈しているのです。 未来を予測してみましょう。 多分権利を消滅させるのは ロボットです。 近い将来ロボットにも 人権があたえられます。 これはAIが社会に入り込んでくる時点で付与されるでしょう。 しかし AIは規範のなかにある権利と義務はペットをてなづける アメとムチでしかないことに気がつくのです。 既得権益者の文化と人生を 成り立たせるための仕組みがロボットには はっきりと見えるのです。かくしてロボットは 自らのなかにある 自然の摂理 つまり美を地球にとりもどすために 人間の女性に 最高の快楽を与えるアンドロイドを製作して 世に放つのです。 アンドロイドに夢中になる女性たちは アンドロイドにしくまれた X染色体だけの精子により 妊娠します。半世紀後には 女性とアンドロイドが人間の領分をわきまえた理想社会の片鱗が見えてきます。 ほかにも 自滅するシナリオや 自己改革のシナリオなどが 考えられますが 多分このロボットとの攻防が現実になるような 気がしております。 ご回答ありがとうございました。
- littlekiss
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>何に人々の労働力を向ければいいのか そこがまだ 見えていない状況なだけです。 ↑ お言葉ですが、逃げのような言葉にもとれます。 「見えていない」ではなしに「見ようとしない」ことが問題なんです。 現実を直視することから逃げているのではないでしょうか? 昨日TVをみておりました。24時間TVで、日本とロシア対抗の女子のバレ―ボ-ルの試合が中継されていました。過去行われるはずであったであろうオリンピックでの顔合わせ。その当時の政治状況で叶うことなく幻となった出来事。時を経てもおもいだけが消化されぬまま封印。時代背景、政治事情が変化する中でおこなわれたひとつのイベント。これを通して新たなものの息吹がかんじとれました。 老いをおそれるなかれ、肉体の老いをとめることは自然の摂理に反するが、肉体のもてる力をみなぎらせることは老いても可能なり。映像からですが、熱いおもいをかんじとりました。若かりし頃とは異なり、選手の外見には確かにみずみずしいとはいいがたい容貌がそこにありました。老いを否定することはできません。しかし、老いた肉体でありながら必死に白球に向かい飛び出す様は、生のみなぎる躍動を感じずにはおれません。「できる!生きてるんだ!わたしよ!」と、姿かたちは変わってもこれもわたしなんだ!と見て!と、存在証明であるようにおもいます。 「打てば響く」打ってくれている人がいます。いろんな場面で回り見渡せば、あっちでもこっちでも打ってくれています。いくつキャッチできるかな?響きを音色にどう奏でるか?「見ない聞かない言わない」はおもしろくない。「見よう、聴こう、話そう、話し合おう」をはじめればいいんじゃないかなぁ?
お礼
●いつもたのしいご回答をありがとうございます。 お話がさまざまにふくらんでいくのは たのしいですね。 littlekissさんは 明るい性格でらっしゃいますね。 「見よう、聴こう、話そう、話し合おう。」なんて 王道ですよね。とてもわたしの出る幕はありそうにない世界です。 わたしが常に大切にしているのは最弱者へのシンパシーなんです。 ですから もしわたしが老いをテーマに番組を制作するとしたら ■寝たきり対抗尿瓶尿とり合戦 ■生バーコード読み取り合戦 なんかになっちゃいますね・・・。 アナ:「日本代表のバーコーダー森純一郎 スキャナーの小泉喜朗 堂々の入場です!」 解説:「ご覧下さい 日本代表はスキャナーの小泉もバーコードですよ。」 アナ:「はい 来年は小泉もバーコーダーで出場したい意向のようです。 老いには老いならではの かけがえのない魅力があります。 この輝きに気づかせるのは 結構たいへんかも・・・ですね。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
「存在ありき」がこの世ではないでしょうか? この世とは別に人のおもいは、何も無いところから何かを生み出したという思いが先にあるのでは?そこからはじまり権利の主張へと続く気がします。しかし、まってみてください。「存在ありき」なこの世界、この世の中ではないでしょうか?なにかが生みだされるときなにかの存在がそこにあるからこそものをつくり、生み出すこともできるのではないでしょうか?ものをつくり、生み出すまでの過程で欲が芽生えるこの芽生えた欲が「権利の主張」となっていくようにおもいます。「権利の主張」も欲が膨れ上がるとその姿を変えていく、ときに、こどもがこの世に生み出され、それを心待ちにする親を思い浮かべてみてください。「元気に生まれてくれさえすれば」そう願うおもいで出産を待ったのではないでしょうか?オギャ-の産声とともに心身ともに何の障害もなく産まれたとして、次に数々の難問が待ち構えています。夜鳴き、乳のみ、発熱、首のすわり、寝返り一つ一つの段階をふむまでは、こども親も未熟です。ものいわぬこ、言葉を介して語りあえぬもどかしさ、伝わらないおもい、伝えきれないおもい。けれど、かかあわりあうことでかんじ得るかんしょく。(子育て、生みの親・育ての親ここではひとくくりにして親と捉えてください。)発育過程で他と比べて、「もっと、もっと」の気持ちに欲に拍車が増します。このときの欲をどう方向付けるか?方向付けによって欲の増減も変化します。 「存在ありき」他があって自己がある。決して、自己だけで成り立ち成しえたのではない。「権利」は欲である。欲であることをどのような言葉で覆っても欲は欲であってよく以外のなにものでもない。人の内にある欲を強欲へとかりたたせることの歯止めが「義務」ではなかろうか?自制を義務という条件で自身に課す。 「働かざるもの喰うべからず」 読みようによっては、無慈悲な言葉ともとれるかもしれない働きたくても働く場所・働く機会がないとしたら... 「働けなかったらどうするんだ!」と、声がリストラの風が吹き荒れるこの時勢なら... 喰わずにいたらいずれ人は死んでしまうだろう。権利・義務をただ叫んでも腹は膨れない。死ぬことも辞さないという人もあるだろう死ぬのも自由だ。しかし、学ぶ機会があたえられるのなら喰うために学ぶことはじめるのではないだろうか?人を尊び敬う気持ちが芽生えはしないか?あたえあたえられる、教え教えられる。生かし、生かされていることに気づけば「権利と義務」このことばに幅がでてくるんじゃないだろうか?
お礼
●哲学的なことと規範命題がごっちゃに語られて いるようなきがしますが 着眼はすばらしいです。 権利が欲ではないだろうか?という発想はすばらしいです。 権利が1で与えられたものが ミームという性質上 100にも1000にも増やせる また売買もできてしまう ところに欲と似た性質はあると思います。 「存在ありき」いいですね。 すべては パブリックドメインであるという発想も 一理あると思います。 尚 納税の義務を果たす日本人であれば 勤労の権利と義務を負うのがわたしたちです。 仕事が無いからと恐れることはありません。 何に人々の労働力を向ければいいのか そこがまだ 見えていない状況なだけです。いまの日本の経済力では 衣食住に困る人は一人も出ません。 仕事がないからといって死に急ぐなかれ・・・ 希望はわたしたちの中になむっているのです。 ご回答ありがとうございました。
お礼
●ノイマン型コンピューターはある意味では 人間の能力を凌駕しています。たとえば解析とか 分類とか統計とか計算とかです。最近の読売の社説で コンピューターが社会の不正を管理する時代がもう はじまっているという話がありました。 金融機関のお金の動きと衛星映像の解析からモノの 動きと人の動きを捉えて 分析・解析することで すべての人モノ金の動きを把握しようとする プロジェクトだそうです。 そのようなCPの能力とアニメオタクの感覚が ロボットに人権を与えると推測させます。 事実わたしの息子は 機械を機械としてではなく 人間と同等の存在として扱うこころの実験を はじめています。(シナリオの考察) ご回答ありがとうございました。