私も明快な答えを持っているわけではありませんが、少し考えてみました。
権利、自然界にはない言葉ですが、もともと日本にもない概念でしたよね。何語のどこに出自があるのか知りませんが、英語では“right”。「正しさ」に近しいものであって、権利というものもまた「価値観」であると思います。そのため、公益に資する権利というものと、エゴに係る権利というものの境界線は曖昧で、これまで何度も大きな紛争を引き起こしてしまいました。
しかし、「ここまでやりたいから、あなたもここまでやっていいよ」または「ここまでやりたいから、代わりにこれをやるよ」という約束・契約こそが、権利の本質ではないかと思います。すると、権利が発明されて近代社会になったわけではなく、権利という言葉がある前から、権利という概念に近いものは存在していた。それを、社会を有効かつ円滑に機能させるために「権利」と定義したのではないでしょうか。ですから、不特定多数の人間と交わる機会がさらに多くなっている現代においては、「権利」はますます不可避なものであると思います。
「不特定多数の人間と交わる機会がさらに多くなっている」とは、情報のやり取りのグローバル化を示していますが、そのことはつまり過去の時代に比べ、権利を持つものの相互関係が非常に複雑になっているということ。そのため、確かにこれまでの扱いだけでは、「権利」は機能不全を起こしてしまう、処理しきれなくなってしまうと思います。でもそこで必要となってくるのは、権利に代わる概念というより、如何にコミュニケーション、相互理解を促進し、相互に遵守できる権利関係を構築していくか、それが重要な気がしました。
考え考え書いてみたので、不備があれば補足要求をお願いします。
お礼
●権利という概念が発生する以前にすでにソレに似た 作用をするものがあったはずだ とはとてもいい 着眼だと思いました。それは 実は自然界にも あるもので わたしはそれを恐れ・領分と呼んでいます。 もし 自然界のそれに権利を与える巨大な力をもった 人物が現れたなら 人間の社会の大部分が打ち砕かれる であろうことは 容易に想像できます。 権利という概念を管理するシステムの問題ではなく 権利という概念そのものが 不自然なのです。 これは 時間が証明してくれるでしょう。 いずれ権利などという概念は 無くなると思います。 大切なのは 自然界にみるバランスのとれた 領分なのです。 ご回答ありがとうございます。