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何のために生きてるの?
ムシャクシャして人生に疲れたとき、不意に考えてしまう。 ズバリ!「何のためにいきてるんでしょうね」 しっかり自分と向き合ってそれなりに深い意味が見いだせたまたは見いだせそうな方、その意義や生に寄せる思いを共有しようではないですか。
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- hanakuso10
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きっと全てに意味はありません。 生に意味もなければ、死にも意味はありません。 但し、楽しいこと、悲しいこと、辛いこと、色々な感情が生まれます。 川のよどみや渦のようなものかもしれません。 ただ、たまたま、今、上から流れて下る。 でもそれで良いじゃないですか。 流れている間に、意味があると考えたり、ないと考えたり、自由です。 ぶつかったり、引きこもったり、それも自由です。 すべての生物の弱肉強食競争、遺伝子を後世に伝える為と 説明がありますが、遺伝子はなぜ伝え、残そうとするのでしょう。 多分、意味はありません。 ある流れる方向があり、そこを流れているのです。 ちょっと、明日は普段より多めに寝てみるのも良いかもしれません。 そうして、今日より少し頑張ってみれば良いではないですか。 そんなもんで良いのではないでしょうか。 すべては、流れ落ちるまでのひととき。
- jujulove
- ベストアンサー率0% (0/3)
鬱病経験者です。 私も10代の頃は、自分の生きがいは何かばかり考えていました。大学を休学して、自分の天職たるものを探したりもしました。でも結局見つからず、どさくさまぎれに自殺未遂をしたこともありました。(今考えてみると、よっぽどの甘ったれだった自分が恥ずかしいですが…) 「人生こうでないといけない」と考えていたり、自分が病的に落ち込んでいる時は、視野が狭くなり、死にたいとすら思うこともあります。そんな時、「生きがい」があれば命にしがみつく理由ができるのではないか…みたいに考えていた気もします。 rikorikoさんの場合はもしかしたらこれから生きがいができるかもしれませんが、私の経験から言うと生きがいはありませんでした。ただ、自殺未遂をしてもう人生どうしようもなくなった時、「このために生きよう」と言う考えからは程遠いものでしたが、「まぁ別に、明日生きてても大して変わらないだろう」と思わせてくれたのがテレビでした。 お笑いが結構好きで、次の日の番組にちょっと興味があるからもう1日くらい人生伸ばしてもいいかなーと、なんとなく甘い気持ちにさせてくれました。特にこの仕事、家族、恋人のために生きる、みたいなカッコイイことでは全然なく、そもそもテレビも生きがいだとは思っていませんが、次の日、また次の日、と見ていくうちに、「自殺」の考えが頭をよぎることはあっても、次元が少し遠いものになっていました。 人生すんごいかっこいい瞬間はそうあまりなくて、しかもそれをその瞬間にかっこいいとわかっている人も少ない気がします。でもこういったちっぽけなものでも、ずっと続くとあなどれない力があると思います。 訳わかんない文章だったらすみません;
- monn777
- ベストアンサー率0% (0/0)
ケースバイケースです。 例えば100の舞台があって、100の芝居が上映されています。 あなたは舞台では(殆どの場合)脇役です。 芝居の筋書き(あなたの運命)を読めれば、あなたの役割もある程度 知ることができるでしょう。 舞台の状況が読めなければ、大根役者と同じで、場違いな雰囲気で 一人たたずんでいるのかもしれません。 もしもあなたが主役であれば、大勢の仲間が周りに集まっているかもしれません。 自己中な人は、自分の欲望に忠実ですが、周囲の空気が読めないものです。
- ji-ji2001
- ベストアンサー率36% (39/106)
すみません↓です。エンタルピーとさんざん書いたけど、エントロピーの間違いでした。ただ訂正するのもあれなんで、別の考え方でw 人は幸福で、充実してる時、「なんのために生きてる」かなんて考えない。 落ちている時にだけ、それを考えようとする。 そこにヒントがある気がする。何のために生きているか考えない人は、それを知っているのだね。 食欲と同じかな。おなかいっぱいだと、何もいらなくなる。だけど、おなかがへると欲しくてたまらない。 幸せになりたいのだけれど、幸せになれない、どうしたらいいかわからない人は、心理学的に、それを否定する行動を取る。 「どうせ生きる意味なんてない。」と決め付けて、自分の心の平衡を保とうとする。心理補償 そう、世の中競争社会。恋愛もお金も、地位も名誉も、自由も競争で勝ったものしか得られない。生きるとは、人間であれ動物であれ弱肉強食。レースをしていくこと。 生きることは無意味という人は、どこか自分は高いとこからみて、そのレースそのものを否定している。 レースを否定する前に、参加してみよう。 地位、名誉、愛。手に入れる前に否定しても説得力がない。手に入れてみないと、それが無意味かどうかわからない。 「生きることは無意味」と思う人は、 それを証明しなければいけない。 ゆえに本当に無意味な人生を送り。 「生きることは意味がある」と思う人は、 それを証明しなければいけない。 よって何らかの答えを見つけるのだろう。 まず、「生きる意味」を考える前に、 「生きる意味を考える意味」を考えてみました。 ないと思えばない。あると思えばある。 だから、僕はあると思います。
- ji-ji2001
- ベストアンサー率36% (39/106)
生物学的にみた場合、どの種も自分の子孫繁栄のため行動している。食事も、モテることも、恋も。セックスも、勉強することも、出世することも、何かを頑張ることも、全て自分の遺伝子をより残すため。 ・・・死ぬことさえもね。 長生きすれば、次世代の食料をそれだけ奪うのだから。まあこれが少子高齢化の危険性ではある。 しかし、子孫繁栄に向かってその通り行動しているとしても、それが目的とは言えないのだろうね。 どうして子孫繁栄しなきゃいけないのかっていう問いの解ではないもの。 話は変わるけれど、たしかエンタルピーは常に増大しているっていうのを学んだことがある。 エンタルピー=再びエネルギーとして取り出せないエネルギー。だったよーな。熱いお湯と、水を混ぜると、最終的に一定の温度に落ち着いて、そこから何の変化もなくなってしまう。 エンタルピーがどんどん増える。これは数少ない法則のようだ。 目的というのは、最終到達地点だと思う。 最終地点では、エネルギーが完全に平衡状態になり、何の変化もしない状態になるという予測ができる。 つまり、生物も、光も運動も何もない状態になるのかもしれない。 それが最終地点、目的だとすれば、人間、いや生物はは立派にエネルギーを使い、エンタルピーを増大させるという使命を果たしている。 子孫が繁栄すればするほど、使えないエネルギーは増える。人間はやがて宇宙へ行く。そうすれば、どんどんエンタルピーは増える。 そして、はるか遠い未来、完全な宇宙の平衡状態を迎える。 なーんてのが、目的だったとしても、それを一瞬の命の人間が自覚することはできんだろうね。 できることは、頑張って働いて、恋をして、子供を作って、次の世代にバトンをつなぎ、自らは、邪魔にならんように死ぬことだけなのでしょうね。
- vagabond_0710
- ベストアンサー率26% (68/257)
お礼ありがとうございます。No.36の者で2回目の投稿になります。無職でも、正社員ではないだけでバイトして貯金してますよ!働かないとお金が手に入らないので。^^; 働かない若者がいるのは、おそらく「本人も大人も働く意義を知らない」からではないでしょうか?それで大人も教えることもできないのでは?少しズレますが、教師は今相当悩んでいるそうです。「子供にどう接したらいいのかわからない」と。 そこで自分なりに図書館から「人はなぜ働かなくてはならないのか」小浜逸郎(洋泉社)を借りて読んでみました。 その本には、「人生全体にあらかじめ与えられた意味があると考えることは、明らかに虚妄である」とあります。理由は、「意味や目的の観念とは、もともとかぎられた生活行動のなかで、いかにそのつど自分を充実させるかという動機にもとづいて設定される意識のはたらきである。だから大切なことは、人生全体の意味や目的をむなしくその外側に探し求めるのではなく、与えられた条件にしたがって、そのつど自分を充実させ得るような意味や目的をうまく作りあげることである P218」だそうです。 「目的意識」とは「自己暗示」(言い聞かせ)である。とも書いてありました。また、「全ての生は無意味で等価。意味をむなしく求める前に自分の実在をそれ自体として肯定せよ。それが不幸感情を克服第一歩である。なぜなら、後悔や不安や他への羨望やルサンチマンや生きる自信のなさは、どこか別の場所に今の自分の生とは違った生の意味や原理が存在するはずだとか・・・」とありました。 理屈では確かに僕もそうだと思います。でもNo.36に書いたように、理屈だけでは割り切れないと思います。僕は、ただ生きているだけで楽しいですよ!満たされているというか・・・。勿論生きていく上で大変なこと、苦しいことも多々あるでしょう。でも、苦しいことがあるからこそ、楽しいことを楽しいと感じられるのでは!? あと、この本には、国家、学校、恋愛、結婚、生死、思想、倫理などなど「人生」について著者のとらえた哲学が載ってます。興味をもたれたなら是非お読みになられてみて下さい。ちなみに、働く意義は、「人間は本質的に社会的な存在であるがゆえに働かざるおえないのだ」とありました。
- vagabond_0710
- ベストアンサー率26% (68/257)
初めまして!僕は24歳男性無職です。専門学校で4年間学び、就職する時期になって「働く意味はなんだろう?別にバイトでも生きていけるし。結局、何のために生きてるんだろう?」と人生について悩み、そこで「自分の人生だ。自分の好きなことをやろう!」と決めて今に至ります。今は「海外の一人旅」をやりたくて貯金しています。正直このままだと社会から疎外されるという恐怖もあります。 僕の過去は、父の仕事の関係で転校ばかりしていました。(平均すると2年に一度)そのような環境で育ったせいか、周りに流されるのを嫌い、一人でいる時間が長いと思います。自然、人生について疑問を持って育ってきました。その中で得た自分なりの意見をいいたいと思います。(前置き長いな^^;) ズバリ、「生きていることに意味はない。意味付けをするのは人間の思考だ。」と思います。哲学は人間だけが持つものだと思う。自らの存在価値を探すことを長い人類の歴史の中で培ってきても、答えがないのが現状。それが答えだと思います。ないから探すのです。だから、「その答えを探すために生きている」でもいいし、「自分のため」「愛のため」「欲求を満たすため」「神の意志」でもなんでもいいと思います。哲学は、答えがでないものだと思う。そのような疑問を持つのは、人間が精神的に矛盾した存在だからだと思います。(理屈が「全て」ではない)僕は思考だけではどうしても知ることができませんでした。恋愛を通してそう思いました。 ※意味がないから価値がないというわけではないです。
- nikorin
- ベストアンサー率24% (47/191)
rikorikoさんの質問を読んでひとつ気づいたことがあります。 >ムシャクシャして人生に疲れたとき、不意に考えてしまう。 …ということは、何か辛いことや苦しいことがあったときに人は人生について考えるんですね… 逆にうれしいことや楽しいことばかりだと何も考えない人間になってしまうのでしょうか…? さて、私は「人は"何のために生きるのか"を考えるために生きている」のだと思っています。 禅問答みたいな答えになってしまいましたが、私が現時点で得ている答えはこれです。 答えのようで何の答えにもなってないですね 私自身、生きるに値する「生きる理由」とは何かをを模索している最中です。 もしかすると死ぬまで考え続けることになるのかも…
お礼
…ということは、何か辛いことや苦しいことがあったときに人は人生について考えるんですね… ーーーー>>「いいこと」がずっと続けばいいに超したことはない。しかしながら、そうではないところに「生きることへの苦悩」が、生まれてくる。そして、考えずにはいられなくなるから、「人生への深み」が増していく。、、、「うまみ」は心身を喜ばせ、刹那にすぎていくもの。「厳しさ」は心身を酷使し、深みを与えてくれるもの。、、、ああ、無情、、、、
- kitchen3
- ベストアンサー率20% (1/5)
こんばんは。 いま、生れ落ちた場所について考えたことがありますか。 私は考えます、自分はどのようにデザインされたのだろう。自分はなぜここに生まれてきたのだろう。どこか暮らすのが大変な国でもよかったのに、なぜここに生まれ、くだらないことに時間を費やし、愚かしい消費に身を委ねているのだろう。 必要の無いものを、ただ欲から来る肉の思いで欲し、地球を汚して生活している、と。私のこのデザインに一体何の意味があって、たとえば数学が苦手であったり、語学関係に強かったりするのだろう。 できることから始めよう、恐らく意味があってこのようにデザインされているのだから、何か習いたいと思えば習えば良いし、何かになりたいと思えばそれは自然なことなのだからそれに向かって努力すればよい。 それは閉じられたこの世界をよくすることなのではないだろうか。私がそうしていくことによって、他の人々もそうして一生懸命生きていくことによって、少しでも世界はよくなるのではないか。 そんなきがしています。 因みにNo32の方の宮沢賢治の詩は、クリスチャンがモデルなのです。齊藤宗次郎というひとです。法華経信者の宮沢賢治が、彼を見て書いた詩です。 共通点、あるのかもしれませんね。 突き動かされるような愛は自分が愛されている、自分の存在が本当に必要とされていると知って初めてできることだと思います。そこには歓喜が溢れるからです。 ぜひ下のサイトを覗いてみてください。
- tippokenaotoko
- ベストアンサー率33% (3/9)
「なぜ生きているのか」。それは、私たち自身が自ら見つけるものではないのでしょうか。世の中に存在するすべての事物に意味を与えるのは、個人、グループ、もしくは個人の集合体である人間社会であると僕は考えています。つまり、「意味」という概念それ自体が、人間が創り出した概念に過ぎないのではないでしょうか。 例えば、道端に落ちている石ころ。それに意味を与えるのは、やっぱり人間です。それを使って古代人は狩をし、木をきり、また、武器として用いました。古代人は石にそのような意味を与えたのです。しかし、現代人の私たちから見れば石にそのような意味を見出す人はほとんどいないでしょう(サバイバーぐらいかな)。また、夜空に瞬く星はわれわれに神の声を啓示しているとされていましたが(今も占星術として残っています)、これも人間が星々に意味を与えたのです。同じように、人間に意味を与えるのもやっぱり人間なのです。 ある事物が持つ「意味」というのは、人間個人、もしくは集団、もっと大きいレベルでは人間社会に対して、その対象がどのようなスタンスにあって、どのような存在なのかということでしょう。 とすれば、私たちが存在する意味というのは、私たちが、自分自身に対してどのような存在なのか、、私たちの属する集団(国、会社、クラス、サークルなど)に対してどのような存在なのか、そして、私たちが生きている社会に対してどういう存在なのか、ということを私たち個人個人が見つけ、もしくは決めるものなのではないでしょうか。また、私たちががんばって生きていれば、周りの人々、所属する集団、もしかしたら人間社会が私たちに意味を見出すのではないでしょうか。 そう考えれば、私たちが考えるべきなのは「なぜ生きているのか」ということだけでなく「どのように生きているのか」「これからどのように生きていくのか」ということではないかと思います。それが、自分自身にとっての、そして、社会にとっての意味を与えることになるのだと思うのです。
お礼
人間の基本的欲求に、「帰属欲求」があるとはいうが、、、、政治的意図がにおいますね。そもそも、人間が創り出す集団とは、なにか機能するためのものである。集団を離れたところに、本当の自分をみつけられるようなきがしますね。
お礼
人生について悩み、そこで「自分の人生だ。自分の好きなことをやろう!」と決めて今に至ります。ーーーー>>>だれがなんと言おうが(あらゆる汚い言葉を駆使して働かない若者バッシングしようが)、プライドなんかズタズタにされようが、「生きていくその主体、自分の心身を司る主体は、紛れもない生身の自分自身だけ」であることは間違いない。「自由と純愛」のために生きるのも、勇気ある一つの生き様。ただ、どうも人間生きていくためにはお金は必要不可欠のようだ。可能な限り、お金を稼ぐことに束縛されずに(カトリックの思想らしい)、「自由と純愛」のために生き抜けたら、いいよね(理想論)。