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何のために生きてるの?
ムシャクシャして人生に疲れたとき、不意に考えてしまう。 ズバリ!「何のためにいきてるんでしょうね」 しっかり自分と向き合ってそれなりに深い意味が見いだせたまたは見いだせそうな方、その意義や生に寄せる思いを共有しようではないですか。
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- songbook
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この手の質問には今まで何度となく答えてきた気がします。 最近では、 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=322508 のNo.11と、下記参考URLのNo.20及びNo.58で回答しておりますので、参考にしていただきたいです。もっとも質問者にどれぐらい通じたかはわかりませんが。 ご覧いただければわかると思いますが、現在の私の考えは、「いかに死ぬか」を学ぶことこそが、生きること。いや、本当はそれだけではないのですが、ちょっとネガティブになっている人には、そういう言葉で回答しているのです。 で、ここで付け加えることとして。 「何のために生きる」は、本来人それぞれで、極端な話、それを必ずしも考えなくてもよいように思います。考えるべきことは、「生きて何をするのか」「何をするべきなのか」なのです。 袋小路に陥ってしまったとき、確かに、「死」を考えてしまいます。 でも、やはり最後には、「俺はやっぱり、生きるに値する人生を送ることができた」という境地にたどり着きたいものです。 人生を大きな目で見つめたとき、最後に自分を肯定し、誇りに感じて幕を閉じたい。そう願うだけでも十分だと思っております。闘病中などで、そういうことを考える余裕もない方々には不謹慎な回答で申し訳ありませんが。
私の場合に限定してお答えすれば、生きる事には意味なんぞありません。 「産まれちまったから」&「今 死ぬのはイヤだから」とりあえず死なずにいる、だけです。なんの苦も無く死ねるのなら、そろそろ人生アガリにしたいっすね。 仕事とか娯楽とか恋愛とか趣味とか家族とか友人とか、一般に生の充実を与えてくれると言われているどんなものも、底が見えちまってるような気がして仕方ないです。これらに一体、なんのイミが?という感じで。 人間の生になにかの物語性を期待する事自体、空々しいことなのではないでしょうか。しょせんすべてはどこかの誰かが考え出したフィクションに過ぎないのですから。 それを承知でポジティブにがんばれる人は確かに素晴らしいですが、自分にはチト無理っぽいです。
お礼
「人間の生になにかの物語性を期待する事自体、空々しいことなのではないでしょうか。しょせんすべてはどこかの誰かが考え出したフィクションに過ぎないのですから。」 それは、とても共感できますね。なにか既成の物語にわざわざ当てはめた人生を送るのはちっとも面白くないのが見え見えでし、繰り返すだけなんて分かり切ったことをなぜわざわざしようとしるのかナゾでありますから。 頑張る!前向きだなんて、強引な押しつけがましい、精神論にすぎない気がして、とても じゃないけどやってられないように思えて虚しさにヒッタたことがあります。 自分の行動に関心を寄せすぎた結果、こう、虚しくなったのだと思うのです。英語でゆうと、たかが「DO」、なにをしようが行動にはサシテ理由はあっても意味はない(回答者の使用言語、引用させてもらいました)のは当たり前です。 それよりも、もっと本質的で永遠なものに関心を寄せてみましょうよ!考えるだけでも、ワクワクしてきます。
- welovekobe
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答えは「死ぬために生きている」ということです。が、それはなぜかと 言うと、「霊界」へ行くためなのです。ここが多くの方々とおそらくは 違うお返事だと思います。 まず、一番大事なことは、いつも書いてますが、人間は偶然に生まれた のか?ということです。信じる信じないの前に先ず、偶然に生まれたの か、そうでないのか、2つに一つなのです。嫌でもどちらかが真実なので す。そして、もし宇宙に単なる偶発的に生じた塵に等しい存在が「人間」 なのなら、人間の存在価値は本源的に無い!と言わざるを得ません。な ぜなら、そのものに価値があるかどうかは、作られた目的がなければな らず、その目的は創造目的であり、創った方の中にあるからです。例え ば、そのカレーが何のために存在しているのかは、いくらそのカレーを 調べてみても永遠に分かりません。それを作った方に聞かなければなり ませんね。ですから、造られたであろう立場の人間、即ち、結果的存在 である人間をいくら調べてみたって、なぜ人間が存在するようになった のかは永遠にわからないのであります。ましてや、偶然ならなおさらで す。偶然なら、生来的に創造目的がないのですから、存在目的もなく、 存在価値も当然あり得ません。ですから、そのような存在は、性善も性 悪もあり得ず、尊厳性も善も悪という価値観もありません。人生何のた めに生きているのか?などという価値観を論ずることさえナンセンスな のです。もし偶然に人間が生まれたのならね・・・ しかし、自分の意思で生まれてきた人は有史以来誰一人としていません。 だから、自分の為に生まれてきたと自慢できる人は一人もいないはずで す。ならば偶然でないのなら、自分以外の為に存在するようになった、 という以外に考えられません。それは神様が人間を必要としたと言うこ とです。神様は、人間を喜びの対象として本来創造されました。愛する 対象としてです。子女として創造されたと言うのです。全知全能の神で もお一人では喜べないし愛せないのです。これが人間を中心とした神の 宇宙創造の動機です。そして、人間は、胎中期間を経て体を準備して生 まれ、そして更にこの地上生活期間を通して、男性と女性が出会い、家 庭を持ち、子女を繁殖して神様と同じ立場にたって、神様の愛を完全に 占領して一体化して、愛の心を完成させた後、霊人体となって肉身を脱 いで霊界へ行きます。3段階なのです。地上生活は霊界生活の為の準備期 間なのです。神様の願いに生きることが「善」なのです。 それは真の愛を家庭を通して完成させることなのです。 自分の中に善の基準・尺度があっては利己的にならざるを得ません。 神様が永遠の存在なので、その喜びの対象である子女たる人間も当然永 遠性を持っていなければならないのです。人間が誰しも永遠を願う本性 が備わっているのはまさしくその為です。 そのように造られているからこそ、永遠を願う本性があるのです。 考えてもみて下さい。タンポポは、自分の種を風に乗せて遠くへ運ぶこ とを知っています。しかし、タンポポ自体がそれを知って、そのように しているわけではけっしてないのです。しかし、タンポポは「風」がこ の地上に吹いていることを既に知って生まれてきたのです。それはその ように全てを設計した方が創造したからに相違ないのです。アリクイだ って、蟻が万一この地上にいなったら大変でしょ。セミもあの針のよう な細長い口をしていますが、樹液を吸いやすいようにです。この宇宙に、 この地上に「樹液」があることを知って皆生まれてくるのです。なんて すばらしい世界でしょうか。宇宙でしょう。全ては人間のためなのです。 だから、果実だって人間の口の大きさにあわせて味覚もピッタリなので す。人間は偶然に進化したのではなくて、目的に従って進化してきたの です。進化させられてきたのです。偶然ではないのです。 神様が人間を創造しました。どうかそのことを知ってください。 感じて下さい。それでは今日はこの辺で・・・。
お礼
とても論理的で考え方としてとても面白い!と思いました。わかりやすい例えもあるし、よくココまで考えるなあ唸るぐらい深いものをもっていらっしゃるようで、、私は凡人ですが貴女は哲学者???浅はかだった私は自己反省と共に尊敬させて頂きます。 「そのものに価値があるかどうかは、作られた目的がなければな らず、その目的は創造目的であり、創った方の中にあるからです造られたであろう立場の人間、即ち、結果的存在 である人間をいくら調べてみたって、なぜ人間が存在するようになった のかは永遠にわからないのであります。ましてや、偶然ならなおさらで す。偶然なら、生来的に創造目的がないのですから、存在目的もなく、 存在価値も当然あり得ません。」 人という動物は結果的存在としてただ、生かされてあるだけというふうにとらえると、なんか力が抜けたいうきがします。あらゆるそれらしい理屈は、人の傲慢によって作られた恥ずかしい産物のようにもおもわれますが。 考え方から、察するに、貴女はクリスチャンでしょか? 私は無宗教ですが、究極の目的は納得のいく形で本質を知ることなのでありますので、これからもいろんな考え方を見てみたいと思います。
- itkakumei
- ベストアンサー率10% (4/37)
前にも同じような質問があったので参考にどうぞ!!
お礼
ありがとう。見てみますね。
- Singollo
- ベストアンサー率28% (834/2935)
とりあえず生まれてしまったからには、生きるのに理由付けは要らないかもしれません 何も理由が無くても、死ななきゃ生きているんですから
お礼
そう、いつでもノー天気にかまえて生きていられるんだったら苦労しませんけどね、、、。
- nyozegamon
- ベストアンサー率45% (895/1969)
生くるも修行 死ぬるも修行 神という名の山の頂上に向かってただひたすら登るのみ
補足
だから、何のために登ってるのか考えることができるから人間たらしめるのだって。ただ、ただ、何も考えずに突き進むだけだったら、半ば強引なだけじゃあないか。その日常性を離れてみて、自己と向き合ってみてはじめて見えてきたことは多いし、そういう体験を味わえるからこそ、他でもない我が人生をいきてるんだって実感できるんだ。
「生きていれば快楽を味わえる」 「生きていれば幸せを感じる」 「生きていれば嬉しい」 だから今が苦しくても私は生きています。 もう少し私が強かったら… 「生きているから苦しいと思える」 「生きているから涙も出る」 「生きているから辛さを乗り越えられる」 …とマイナス部分も補えるんですけどね… 死んだら最後何の感覚も無くなる 私は無信教なのでこういう結論です。 極楽浄土も天国も絵空事…それが私のイメージです。 でも一番は 「私が今こうして生きてる事で、私を見て感じて誰かが何かを感じ取って変わってくれれば…」 それが「生きている」なんて思います。 私は「生きている」ので経験者でも「生きる事」は人それぞれ なので「経験者・自信なし」と言う事で…
お礼
生きているからいろんな感情が味わえるんでしょうけどね。どの感情体験を沢山できるかは置かれた環境によることが多いと思われます。人生一度しかない。できれば望ましい環境が私を包んでくれればいいのだが、、、
- tashiromachi
- ベストアンサー率40% (4/10)
人を生物学的に考えた場合、遺伝子を次代に引き継ぐために生きていると思う。 ということは子供を産み、育てなければならない。 もうそれは終えました、もしくはパートナーがいないのでできない、という人は 人を社会的に考え、いままで世話になってきた人間社会に対して何かしら還元、 貢献をしてから死ぬべきだ。 と考えるといままでの人生で世話になった分を返すには、一生かかっても なかなか返せるものではない。ということで死ぬまで社会のためになんか しましょう。仕事→生涯学習→ボランティアってなかんじで。
補足
あなたの言い方はとても押しつけがましく、ヒトの生き方をパターン化してしまってるように思います。 もっと多様な「生き方」はあっても好いと思うのですが、、。 ただ、ある種、そういう宿命めいたものを抱えた動物であることは否めない。だから逆行したくなるヒトの存在も同じくらい否めない。
- rui37
- ベストアンサー率40% (2/5)
#2の方とダブってるきもするのですが・・・ 「生きる目的を見つけるために生きている。」 …つもりです(爆) しっかり自分と向き合ってるかは分かりませんがいつかは目的が見つかると信じています。
お礼
目的意識があることは、ある種、前向きに生きようという姿勢を感じさせられますので、いいことだとおもいますよ。 ただ、たとえ人間社会で無目的になっても、もう自分は使い物にならないと狼狽えずに、抽象的な本質的なことを考えることによってもっと深い体験ができるんだということは忘れないでね。
- yu-ma22
- ベストアンサー率13% (4/29)
死ぬ為
補足
究極の目的はそうでしょうね。今なにげなく生きていても、いつ死が訪れてもおかしくない。つまり、生と死は隣り合わせでありながら、その事実を直接には突き付けられることなく、たいして考えることに意義を見いだすことに価値をもってはいけないかのような圧力をかけられ、時には強引ささえ感じれるほどの人間教育の力でとりあえず「前向き」に生きることを推し進めることを半ば強制される。 誤魔化しやカモフラージュばかりのオチョウシ文句にはもう!飽き飽き。もっと、もっと、この身体で心で深く納得できるより真実めいたこたえかほしい。そう、最近は思えてならない。
お礼
「何をするか」、という自分の行動にばかり注意が向いてる間は、深みがある人生は送れないとおもうのです。確かに、人間社会での位置付けも生き方にはものをいうかもしれません。だって、社会的動物であることは否めませんからね。 しかしながら、もっと抽象的なことを考えたりするから他の動物ではなく人に生まれた証だと思うし、だからこそこの生もなんだか面白いといえるんだと考えるからです。