- ベストアンサー
巌流島の決闘について
このとき佐々木小次郎は実は70歳を越える老人だったと友人からききました。これは事実なのでしょうか?また、武蔵は弟子にも参加させたということらしいのですが、これも事実なのでしょうか?
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
吉川英治の小説「宮本武蔵」が、史実と殆ど関係ないことは事実です。 司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」が史実と殆ど関係ないことと同じですす。 つまり吉川英治の空想の「宮本武蔵」なので、佐々木小次郎を70歳に設定することも、19歳に設定することも可能です。 【佐々木小次郎(ささきこじろう)】 ?~1612。越前国宇坂の出身。 佐々木岸流とも言う。 細川忠興に仕えたと言われる。 巌流(岸流、岩流)の開祖。 物干竿と称する三尺余りの長剣を用い、必殺技は燕返し(または虎切り)。 宮本武蔵との舟島の決闘に敗れて死亡。 一応、富田勢源の弟子と言う事になっているが、そうすると巌流島での決闘時には70歳前後の老人と言う事になる。 実際、かつての講談では小次郎は白髪の剣の達人だった。 吉川英治『宮本武蔵』によって、小次郎は長身・長髪の美青年というイメージが定着し、性格的にも武蔵の”求道者”の対極として”驕慢な天才””奔放不遜”という扱いになった。 なお、吉川英治は小次郎を鐘巻自斎の弟子、つまり富田勢源の孫弟子という形にしている。 武蔵の弟子達が編纂した『二天記』には巌流島での決闘時の年齢は18歳であったと記されているが、生前の勢源と出会うには、決闘時に最低でも50歳以上、直弟子であれば相当の老人と考えられ、『二天記』の誤記とする専門家が多い。 五味康祐は「真説佐々木小次郎」の中で、佐々木小次郎が厳流島で宮本武蔵と試合をした時、69歳の老人であったと書いています。 さらに戦いに敗れた佐々木小次郎のことを「70才の老齢の所為という弁明は成リ立たないし、口碑上では小次郎は慢心の男と見なされ、非常の妖剣使いにされ、武蔵を引立てるに相応しい年齢に引戻され、遂には倨倣の人物に仕立てられる。敗者の運命である」と書いています。 巌流島の決闘も、実は、舟で渡ったのは、武蔵ではなくて、小次郎の方だったことが、当地の船頭さんの家に代々語り伝えられているそうです。
その他の回答 (5)
- busido2006
- ベストアンサー率23% (12/52)
小次郎老人説はいくつかある諸説のひとつにすぎません。 これは、「二天記」に書かれている、小次郎の剣の師が富田勢源であった場合、富田勢源の没年から小次郎が少年の頃に入門したとしても巌流島の時には老人になっていないと計算があわない。といった理由です。 武蔵は弟子に手伝わせたというのは、巌流島のことを記した書「沼田家記」によれば小次郎に最後の留めをさしたのは、武蔵の弟子どもであったと書かれているからのようです。 「二天記」は当時の小説のようなもので、歴史考証とは言えません。 また、佐々木小次郎は謎の多い人物で本名も出自もはっきりわかっていません。 なので、小次郎が武蔵と決闘をしたとき幾つであったのかは「わからない」というのが最も誠実な回答です。 ただ、数少ない資料から小次郎のことを考証してみると、おそらくですが武蔵よりも武蔵の父、宮本無二の介と関係があり、年齢も近かった(40代~50代)のではと想像できます。 余談ですが、武蔵と小次郎が会ったのは、巌流島で決闘したときが初めてであったようです。 1番の方の回答はマンガの読みすぎですね。。。 お通は実在の人物ではありません!
お礼
ご回答ありがとうございました。
- 安房 与太郎(@bilda)
- ベストアンサー率27% (228/822)
<PRE> 宮本 武蔵 “二刀流”剣豪 15850103 兵庫 16450613 61 /~《五輪書》 生年異説=天正10.‥‥/天正12.1203 ~ 正保 2.0519 62 / ~《出自のなぞ 19920303 山陽新聞》 ──────────────────────────────── 佐々木 小次郎“燕返し”剣士 15‥‥‥ 越前 下関 16120513 ? / 生年諸説 永禄?.‥‥ ~ 慶長17.0413 ? /厳流島で決闘死 http://homepage3.nifty.com/ganryu/kousatu1.htm </PRE>
お礼
ご回答ありがとうございました。
- m-tahara
- ベストアンサー率38% (383/983)
参考URLは巌流島の決闘に関する史料について幅広く検証しており、一定の信頼はおけるものと思います。 別に同じように史料をきっちりと引用しながら考察しているサイトを読んだことがありますけれど、今回発見出来ませんでした。 「巌流島」ベースに検索すると引っかかってくるかもしれません。 この中で高く評価されている「沼田家記」によれば、武蔵の弟子は島に来ていて、小次郎は結局この弟子たちに殺された、とされています。 確か以前NHKでも歴史番組内で紹介されていたように思います。 ここでも小次郎の年齢は判らないようですね。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- dulatour
- ベストアンサー率20% (327/1580)
宮本武蔵の実像については、ほとんど不明です。 晩年に細川藩に召し抱えられたことは記録にはありますが、その他はまったくわかりません。 ともかく、巌流島の件ですが、吉川英治さんの「宮本武蔵」が一般になる前の講談などでは、小次郎は70歳ではないですが、年輩の人物でした。浮世絵などに、白髪で髭を生やした老人の図案が見られます。 「九州岸柳島において宮本無三四 佐々木岸柳試合之図」この絵は有名です。 一番信用できる一次資料の「五輪書」には、 六十余度迄 勝負すといえども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より廿八、九迄の事也。 というように、28.9歳での戦いが最後のものだったということを解釈したのが「巌流島」です。 事実は分かりません。ただ、浮世絵などから分かるように、吉川英治以前には、小次郎は「年寄り」として想定されていたのは確かです。
お礼
回答ありがとうございます。友人によれば真説巌流島という本に載っていたそうです。
- Bakabomb55
- ベストアンサー率10% (30/282)
佐々木小次郎が70歳を超える老人だったなんて大嘘です。 その時、小次郎は25歳のイケメン剣士として有名でした。 武蔵と一緒に旅をしていたお通は、小次郎を見て一目ぼれしてしまい、何かと小次郎に色目を使うので、嫉妬した武蔵は小次郎に巌流島での試合を申し込んだのです。 しかし、試合などしたくない小次郎は、お通と駆け落ちをして巌流島には行きませんでした。 怒り狂った武蔵は全国を旅して2人を探し回ったのですが、ついに見つからず、諦めて晩年は細川家に居候をさせてもらったのです。 その時に書いたのが「五輪の書」です。 なお、武蔵は産湯以外は一生涯一度も風呂に入らなかったので100m先まで臭ったそうですから、臭くて、弟子になろうなんて物好きな人はいなかったでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。武蔵のイメージがいかに美化されているかがわかりました。
お礼
ご回答ありがとうございました。