- ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:一橋宗尹が生まれた時の徳川吉宗の地位や権力について)
徳川吉宗の地位や権力について
このQ&Aのポイント
- 徳川吉宗の権力や地位は、徳川吉宗の四男の徳川(一橋)宗尹が生まれた享保6年閏7月16日(1721年9月7日)頃までには、既に盤石で揺るぎないものになっていたのでしょうか?
- 8代将軍・徳川吉宗は、初代~6代までの将軍(7代は幼少のまま亡くなったので除外する)と違い、宗家ではなく、分家の紀州家から宗家を継いで将軍になった身です。だから、8代将軍・徳川吉宗は、将軍になってしばらくの間は、老中等の幕閣に憚っていたという話を聞いたことがあります。
- 8代将軍・徳川吉宗は、将軍になって、最初の頃は、老中等の幕閣に憚っていて、しばらくして、自らの地位や権力が盤石なものになってから、独裁的な権力者になったそうです。そこで質問があります。その、8代将軍・徳川吉宗の地位や権力は、徳川吉宗の四男・徳川(一橋)宗尹が生まれた享保6年閏7月16日(1721年9月7日)までには、既に盤石なものになって、老中等の幕閣に憚る必要はないものになっていたのでしょうか?
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
wrtsgさん、こんばんは。 まだ、享保6年では目安箱以外の主要な改革が行われていなかったので、それほど権力基盤はしっかりしたものとは考えられません。 詳細は下記のURLを参照してください。 享保の改革 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
お礼
御回答ありがとうございました。 https://bochan.exblog.jp/1824440/ (↑)この上記のURLのページには、 「御用取次」には享保元年(1716)5月、紀州藩出身の有馬氏倫・加納久通・小笠原胤次の3名が任命される。 そのうち有馬・加納の両名は、将軍吉宗の側近として多大の権勢をふるった。 儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は1719年正月4日付けの書簡「兼山秘策」で、彼ら「御用取次」の勢いが老中を上回る様子を記している。 幕府の正史である「徳川実紀」も彼らの権勢が老中や若年寄を上回っており、政策決定に際して、幕府の役人たちがまず彼ら「御用取次」に相談した事を記している。 政策決定の過程で、有馬・加納の両名が、評定所の奉行などから上申された政策の原案を、将軍・吉宗とともに入念に審議していること、他方、老中らは形式審議をするに過ぎなかったことも指摘されている。 という様に、 「 儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は1719年正月4日付けの書簡「兼山秘策」で、彼ら「御用取次」の勢いが老中を上回る様子を記している。 幕府の正史である「徳川実紀」も彼らの権勢が老中や若年寄を上回っており、政策決定に際して、幕府の役人たちがまず彼ら「御用取次」に相談した事を記している。 」 そうです。