• 締切済み

信仰と悩み

私は、うつとある病と闘っています。 今のところ、ある病については現代医療では完治はしません。 ある日、私は親戚の牧師の家に来ました。 キリスト教の牧師です。 もう、クリスチャンと接する生活をして3ヶ月になるところです。 平安を求めて来たのですが、信仰をすることによって何か悩みが解消されることはあるのでしょうか? 「神に委ねたい」という気持ちはありますが・・・・。 とにかく楽になりたいです。 何かアドバイスをいただけたらと思います。

みんなの回答

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.10

NO7です。 信じてそうなると思うならそうなります。 うつはすぐに完全に治りません。僕もあります。ほっとけば治るもの それより 治ったら何がしたい?そして今出来ることないかな? ノートでいいから出来ること やりたい事を書いて出来ることからはじめて下さい。 まず毎日のリズムをすこしだけでいいから作っていくこと sat5さんのために祈ってるね 混乱したり嫌になったら 思考をとめること音楽でも聴いて ああ聞けるんだこんな時間を与えてくれて感謝、そんな感じで休みましょう 後100マス計算もいいよ。毎日同じものを鉛筆書いごらん。 覚えていいから毎日同じものを使って 3ヵ月後にわかるよ

  • mr-birn
  • ベストアンサー率18% (15/80)
回答No.9

 親戚の牧師という事なので、特に問題も無いかと思います。キリスト教の牧師は、社会の狭間にある人達に目を向ける使命を委ねられていると思います。  貴方は、そうした関わりを求めていると感じました。その意味でも良いと思います。病が治らないのと同じく100%良い事ばかりでは無いでしょうが、教会としても受け入れてくれると思います。  信仰の世界です。信じられる事が第一の条件です。治療にも人生にも前向きになれると思います。  貴方と神様との関係です。  

回答No.8

悩みはいま解決しなくてもいいという気持ちがもてれば軽減できると思います。 もちろん解決をしないということではありません。 いま真剣になって解決策が見つからないのにこれ以上頑張ったからといって すぐに見つかるとは思わないからです。 一呼吸置いて何か他のことを楽しんでいてふと思いつくようなことが 解決につながるものであってもいいのではないでしょうか。 真剣に悩んで気分が落ち込むよりも、何かを楽しむことで気分が良いほうが 思いがけない解決策を思いつくものです。 それよりも解決しなくても何も問題はないくらいの気持ちになれるかもしれません。 何かが問題を解決してくれることはありません。 自分が自分の考え方を変える事によって問題を解決してもいいのです。

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.7

委ねたいという気持ちがあるなら委ねましょう それが信仰というものでしょう 信じてみないとわからない世界ですよ 私の所に来なさい。 私があなた方を休ませてあげます。 と聖書は書いてますね

noname#39125
質問者

補足

ほんと休むことができるのなら・・・そうしたいです。 もはや、人間の手ではどうにもならないんです。

回答No.6

計算違い 48年前⇒37年前(訂正 48は勤務の年数でした)

回答No.5

sat5 さん、  現代医療で完治できないことはたいへん心配申しあげます。  どうか挫けないでいきましょう。  人にはあまり言えないことで、匿名なので実は自分も身体的には所謂る畸形というものをきるもので隠しており、一緒の生活者しかしりません。  そういう人を何人か知っていますが、やはりいえる人とそうではない人がおります。  じっと自分で黙々と生きていくしかないから。  そういう話とは違うが、48年前さる大学の職員だった頃、3-4年しか生きられない、という中途入学の私と同年、みんなより15ほど上の男性がいました。  女子学生から聞いて、同情と尊敬をしていましたが、幸い養生がいいのか、今も練馬のあたりで自適のご生活で、いつもお付き合いしております。一病息災のとおり、まじめにやっているので、頑健をかさにきないで、謙虚からの神の思し召しかもしれない。  でも女子学生には冗談を言ったのかもしれない。彼は親しい私にもそのことは一言もいいません。どちらでもよろしいおはなしです。  sat5 さんの場合は、そういうことではないのでしょうが、人には中々見えないで、じっと生きていく人がたくさんいることを知っていただいて、どうか挫けないでがんばってください。

回答No.4

 sat5 さん、その後書き込みもないし、締め切ってもおられないのですね。やはりなかなかめぐり合えないのですね。  現代医療で完治できない、ご病気やその他のことがわからなくて、一般的な回答しかかけませんでした。  ≪とにかく楽になりたいです≫ということですが、ごめんなさいね。  どの人も、それはみな何かを持って、背負いながら・・・が、人生というもののようですね。私みたいな年金生活者でも、やはり様々な、そして心を解けない、そして重大な、少し小さな、というたくさんの問題を背負いながら、人生の時間の終了まで生きています。  多分、どの方もそうだと存じますよ。  人の問題は時には軽く何でもなくみえたり、いろいろではありますが。何かを突破すると、また何かがあり、それが何とかなくなってくれるとまた何かがあるのです。  人それぞれに、必ず解決を迫まられていることって、なくならないようになっているのだなぁと、このごろ思うのです。  抱えきれなくもないが、決してらくちんな、軽いものでもない。  人それぞれに。  それが人のこの一生の時間みたいですよ。  神と自分がここにきているのはそれがあるから、それをつくったからみたいです。そんな感じがしてなりません。  重すぎれば、出来る範囲しかしないで、去っていくし。  軽すぎれば、重いものを造ったりしたりして、決して楽はしないように人生って生きていかなければならないみたいですよ。  人生が実在性と、真剣性をなくさないように、ずうぅっと奥の自分と、神が相談してそうやっているみたいですね。  でもみんな、例外なく、精一杯に悩み苦しんで、真剣に生きていくようになっている。  例外があるように見えても、決してどうしようもない問題も、軽い問題もない。その人に必要な問題で生きているみたいですよ。  ≪とにかく楽になりたいです≫と仰るからには、相当におつらいのでしょう。そしてずいぶんまじめにやっておられるのでしょう。  どうかいろんな方の大変さも、時に見られるように、立場になれるようにされたり、普段の自分をおいてしまったり、忘れたりする時間がとれるといいですね。  眠って、さっと起きて、ちょいと静かな体操をして、世界や宇宙のことを心配したりしてはいかがでしょうか?  そして、自分を馬鹿みたいに忘れてしまって、たいへんなことをされている、そういう立場にいる人の中で、体や心、いろんな機能に働いている神様のことを心配してみてはいかがでしょうか?  杞憂の悩みなど故事がありますが、そんな馬鹿みたいに、宇宙や世の中のことを心配するのも、おもしろいものですよ。  ただし、真剣にね。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

[火の試練も水の試練も与えよう、しかして限りなく強くなれ、我のようになれ、それでもし疲れたら我に身を預けよ。子が親に甘えるように」と神はおっしゃっています。疲れたのであれば委ねればいいんですよ。疲れが取れたらまた自身の宿題を解いていけばいいんじゃないかな。

noname#39125
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.2

 わたしも長く生きてきましたので、たくさんのいろんな宗教や主義主張の方々と、親しくお付き合いしてきております。  多種類の方が集まる小規模の大学に半世紀まではいきませんがいましたので。  どの方々とも親しい友人ではあっても、そのセクトに属する必要がありませんでした。  何かの契機や、自分側の理由で一定の信仰に入ったり、セクトに属することも、一概には否定する必要はないとも存じます。  貴兄様も、多くの方々もご深刻なことを抱えての日々のいとなみ、歩みを去れておられると存じます。誰しもご自分の問題だけに集中するのが人の常ですね。  うつというのも一つの言葉でずいぶん多種類、いろんな出方があるようで、愚息や、48年も私友人でいる人も、近親者もそんな診断の症状につきあっています。どうぞ自分の個性とも思われて、お大事にされてください。  現代医療では完治しない病気についてもどうか、そのように自分としてお付き合い下さい。  クリスチャンではなく、インド系の思想の勉強をしておりますが、非常に宗教というものは共通のものがあることに気づいております。  他力自力という言い方があるのですが、どちらを主体とする宗教でも、やはり信仰という、ゆだねの心境とそういう中での自己精進、研鑽は必要だと存じます。  平安を求める次元とそこでの自分の精進と研鑽、信仰の純化と深化こそが必要なのではないでしょうか。  そういう場面では、平安や悩みは直接日々のご修行での目的にはしていられないと存じます。  そんな問題である自分を大事にするのではなく、神なり、そういう教えなりを大事に、主体にするのでなければ、信仰はありえない、継続でいない。というものではないでしょうか。  そういう中で平安がもたらされ、悩みも超越できてくるのではないかという経験を披瀝して、ご参考に供します。  「神に委ねたい」という気持ちがおありなら、いつ思慮分別を超越できるかの問題ではないでしょうか。「神に委ねる」ことはパッシヴでも受身でもないと存じます。  自己を超越するのは、つまり問題だらけの自分ではなくなるのは、とても積極的なこと、むしろそれ以上ではないでしょうか?  個人がどうの、主体がどうのといっている間は個人でも主体でも全くなく、よれよれのエゴと狭隘の放浪者がいるだけではないかと、感じたことがありました。  所詮は自分を大事にすると、自分を大事に出来ないことはどうも実態のようですね。  自分でなくなる。それが修行ではありませんでしょうか、一面。  もっといろんな面がやまほどありますが。  古希過ぎて、私も人生の突端(とっぱな)でしかないが、不遜な言辞を押し付けてすまないが、貴兄も人生にはお入りにはなっておられるのですか?  人生の開始はどうも多くの人は、できていないようですよね。  貴兄様の世界がネガからポジの、白黒からカラーの世界になる日を信じております。

noname#39125
質問者

お礼

ご意見まことにありがとうございます。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.1

私たちが問題にしているのは死なのでしょうか、それとも生なのでしょうか。