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キリスト教について
キリスト教について 先日、ある教会で著名な牧師様からお話を聞きました。 クリスチャンは天国に行けるそうです。 しかし国や地域によってはキリスト教以外の信仰を持つ人々も多数います。 その人たちの宗教では善人でも天国に行けないということでしょうか? どのように解釈されているのでしょうか?
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天国(ヘブン)という言葉が元々キリスト教のものですから、確かに天国に行けるのはクリスチャンだけですね。 ちなみに仏教徒が行けるのは極楽でしょうか。 そういった世界を総称して日本語では天国と呼ぶことも多いですが、それぞれは似て非なるもの。 それぞれの信仰する神や仏がいる世界に還ることができる世界を天国と呼ぶという考え方もできるのではないでしょうか? キリスト教の天国にはクリスチャンだけが行けますが、他の人はその人たちが行くべき天国があるということで。
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- Wendy02
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>その人たちの宗教では善人でも天国に行けないということでしょうか? プロテスタントの一部の考え方ですが、キリスト教といえども、本来、イエスは、天の国を、After Life (死後の世界)にあるものだとは言っていないはずです。天国というのは、神の国のことですが、イエスの教えは、私たち人間が、他と自の相対的な世界からの脱却することで、それは、また、律法主義からの開放です。そして、神の支配をこの国に実現することだと思うのです。神というのは何かというと、人間の完成された統合体です。 「善」というものは、神に対する「善」であって、私たちの法律によるものでも、道徳観念に対するものでもありません。私たちの社会にある「善」というものも「悪」というものも、しょせんは、その社会に合わせた基準であって、その価値基準を天に対して、推し量ることはできません。私たち多くは、その時々の社会の基準に合わせて、努めて従順に生きているだけで、神に委ねているものではありません。キリスト教というのは、そうした道徳主義からの開放に他ならないから、汝の敵を愛することも可能になるのだと思います。 イエスの時代も釈迦のいた時代も、あたら死んだら天国や極楽に行けるような神秘論には走っていないように思うのです。 なお、仏教の極楽というのは、浄土教にある教えで、阿弥陀如来を信じて、仏教徒が死んだら極楽浄土に行けると思うのは、そういう信仰を持った人たちがいるということです。一休さんの頓知話は、臨済宗の教えを分かりやすく説いたものですが、蜷川新右衛門の臨終の話で、極楽からお迎えが来るのが分かると、新右衛門は弓矢で追い払い、安心して息を引き取ったということです。親鸞も、別に死んだら極楽に行くのか地獄に堕ちるのか、そんなことは分からない、と言っています。本来、仏教は、同じく、After Life については何も言っていないのが真実だと思います。
- ucok
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それはキリスト教でも少し古い考え方です。キリスト教に限らず、もともと人は「自分たちの信仰が一番」と思う傾向があるのです。また、もちろんそれだけ信仰が厚いということもありますが、そうやって価値観をひとつに統一することで、人民を統治しやすくしていたというのもあります。江戸幕府がおこなったキリスト教禁止令も一例ですね。 しかしグローバル化の時代、今は幅広い価値観を認め合おうという流れになっていて、ローマ法王も他の宗教の重鎮と親しく話し合ったりしていますし、キリスト教の洗礼を受けていなくても死後に幸せになれるという考え方が主流です。マザーテレサがインドの貧しい人たちを勝手に介護し始めた時には、インドの人たちが、マザーが独断で病人をキリスト教に改宗させてしまうのではないかと恐れたものですが、マザーはきっぱりとそれを否定し、ヒンズー教だの仏教だのの信徒のままに彼らの最期をみとりました。 いろいろな考え方がありますが、キリスト教に親しみを感じている私でも、経験から言って今どき「クリスチャンしか天国に行けない」と言う人は信用しないことにしています。ただし、その牧師さんは「他は行けない」と言っているわけではなく「自分たちは行ける」と言っているだけなので、説教全体を聴いてみないと一概には判断できませんが。