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女城主の活躍
あまり例を見ないので質問させていただきます。 たいていは城主の留守を守っている間、奥方が家老などと留守居している場合が多いと思いますが、敵に襲撃され、なおかつ果敢に戦い、敵を撃退した奥方(もちろん指揮を執ることが前提です)で日本戦国時代での例を教えてください。 立花道雪の娘の話と、島津氏の奥方(誰の奥方か名前失念)が伊東氏の攻撃に耐えて城を守りぬいたと言う話があったようですが? もちろんその他の例も教えてください。
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参考URLを丸写しにしました。 織田信長のおばにあたる人物で織田信定の娘で信長の叔母にあたる。 一般におつやとも呼ばれているが正確な事は不明。 おふくとも伝えられてる。 絶世の美女であったという。 初め美濃岩村城(現・岐阜県岩村町)の城主遠山内匠助景任に嫁いだ。 元亀二年(1571)、遠山景任が病没してしまったため織田信長の五男坊丸を養子に迎え入れる。 だが坊丸は未だ幼少のためおつやの方が後見となり、事実上女城主として采配を振るった。 翌年11月、武田信玄の将・秋山信友が東濃に侵入、岩村城に迫った。 堅固に守りを固める岩村城に対し秋山信友が和議を申し入れるが、同時におつやの方に対し婚姻を求めたのである。 おつやの方はこれに応じ開城。 今度は武田の将・秋山信友の妻として岩村城主の妻の座に着いた。 この時、坊丸は人質として甲斐に送られた。 (坊丸は甲斐で信玄の養子となり、のち武田滅亡の直前、織田方へ送り返された。 信長の末裔・織田勝長 参照 ) 長篠の戦いで武田勢に圧勝した信長は岩村城奪回を謀る。 信長の嫡男・信忠を大将として岩村城を攻めたてるがなかなか落ちない。 力攻めでは落ちないと判断した信忠は持久戦に持ち込む。 城を巻き、間道を塞ぎ、抜け道をも見付け兵糧攻めを開始した。 武田勢は大敗を帰したばかりで援軍を出すのは不可能と読んだのであろう。 だが、城はなかなか落ちない。 逆に「援軍来る。」と虚報を流し信忠を困惑させる。 なかなか落ちない城に業をにやした信長は直接出陣し陣頭指揮をとることとなった。 信長は謀り事で城を落とすこととした。 和議を申し入れたのである。 籠城側は知らなかったが実際、武田の援軍は迫っていたのだ。 ただ雪に阻まれ手間取っていたのであった。 援軍は無く、兵糧も乏しく飢えと寒さに城兵は苦しんでいる。 「叔母の城の城兵にて兵火にさらすのは忍びない。」 そう開城を持ちかけた信長に秋山信友・おつやの方は応じた。 しかし信長は甥である自分を裏切り、さらに我が子までも人質に差し出したおつやの方を、赦そうとは思っていなかったようだ。 和議を結び城を開けた秋山信友以下の城将を皆殺しにし、おつやの方も捕らえ逆磔刑に処した。 信長はしばしば逆上する。 一度の裏切りや敵対行為は大目にみることもあったが、その分、反動は凄まじい。 「甲陽軍鑑」では武田勝頼が先に奥平信昌の妻を磔刑に処したための報復であると記されている。 報復か只の逆上か、定かではないがやはり後者のほうであろう。 過酷な仕打ちに おつやの方は 「敵方であった秋山信友は開城に際し約束を守ったのに、 身内である信長は和議の約束を反故にするのか。」 と嘆き、恨んだという。 逆磔刑に際し「かかる非道のふるまい、わらわがその罪を赦すとも天が赦すまじ。 追っつけ因果はめぐりて、苦しき死に遭うべきよ。」と、 怨嗟の声をあげながら泣き果てた。 お市の方、淀君姉妹など信長の縁者の女性は美女として後世に伝わるが人が多い。 おつやの方も美女として名高かったらしいが、やはり気性の激しさも信長の血なのだろうか・・・ ここからは私の別説をのせます。信長は岩村城を落とした後、おつやの方を白洲に連れ出し、おつやの方になにか(ごめんなさい思い出せない)を投げつけ、彼女がそれを拾おうとして体を丸めたところ抜き打ちに脇差でその首を刎ね飛ばしたという説があります。 いづれにしても信長のおばという立場にもかかわらず信長の息子を武田に差出したばかりか、永年にわたって敵対し続けたためにみせしめのために残酷に殺されてしまいました。壮絶な最期を遂げていますが戦に負けたわけではないので、非常に有能でなおかつ人望もあった女性ではないかと思います。
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- Pinhole-09
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No.9です。 三村高徳夫人、桂忠防夫人 見つからなかったそうですね。 この本の引用文献は 歴史公論 六ー四(昭和12年) 鳥羽節子 〃 三ー十( 9年) 〃 です。 探しにくいかも知れません。
お礼
三村高徳夫人について調べて関連のあると思われる項目からの推測です。 No10様の回答にありました鶴姫との関連が考えられましたが・・・ 戦国期の備中の大名、三村家親の娘が上野隆徳に嫁いでいます。上野隆徳は高徳ではありませんが、家親との縁もあってか三村姓を名乗っていたので三村高徳(隆徳)の可能性も捨て切れません。その妻というのが鶴姫であるとのことです。 しかし高徳の高と隆の違いもあり、また伊予河野氏との関わりも無いようなので鶴姫は単なる名前の偶然の一致の可能性も大いにあります。 鳥羽節子氏についてもウェブでは本の内容まで分からなかったので、機会があれば図書館等で調べてみたいと思います。 重ねて回答くださって感謝しております。ありがとうございました。
補足
折角の回答申し訳ありませんでした。手をつくして探して見ました。 三村高徳夫人については下記回答に至りましたが、残念ながら桂忠防夫人についてはついに見つかりませんでした。 申し訳ありません。
- tub-clear
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no7です。私も興味があったのでしばらく拝見させていただいておりました。 ところで、余計なおせっかいになってしまうかもしれませんが、 私のあげた井伊直虎が見つからないというのは、ひょっとしたら“井伊”が “伊井”になっているからではないでしょうか? no10のお礼の中での記述がそうなってたのでもしかしたらそうかなと。 違ってたらごめんなさい。 井伊直虎の説明があるよいサイトがあるかちょっと分かりませんが、 簡単なものであればWikipediaなどにものっているようですよ。
お礼
私の愚問を見守って(?)いただき感謝しています。 さて井伊直親との婚期を逃したようですが、結果、名に恥じない活躍をしていましたね。 直虎本人の武名功名より直政を徳川家に推挙するきっかけを作ったのが一番の功名ではないかと私なりに思っています。 幼名(?)から次郎法師っていうのも凄いですね。 再度の指摘および回答ありがとうございました。 結構姫武将が多いことに驚いています。皆様の博識に感謝しています。
補足
ご指摘の通りです。お恥ずかしい限りです。(井伊で見つかりました) tub-clear様には折角の回答を頂いたのにもう少しで無駄にするところでした。大変失礼しました。
- ben1151
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1です。ごめんなさい。ひとつ前の回答のURLを張ったみたいです。 板額(はんがく)御前です。 忍城を攻める豊臣の石田軍3万をわずか、300の手勢で、持ちこたえたのは、父、成田氏長の留守を託された甲斐姫です。 板額御前は、和製オスカルで、甲斐姫は、忍のナウシカで、大三島の鶴姫は、瀬戸内海のジャンヌダルクだそうです。 勝ったという話も余り聞きませんが、4さまの挙げた事例以外の姫たちは、あまり、酷い目にあっていないのがいいですね。
お礼
板額御前も甲斐姫も鶴姫もその後調べました。 板額については参考URL(キラキラしていましたね・笑)にあった通りでした。その精神はまさしく武(もののふ)ですね。 甲斐姫(成田氏娘)は三成との合戦に頑強に抵抗し、勝利しています。その後寡兵であったためと、主君の本拠地であった北条氏小田原城を落とされ開城。蒲生氏郷預かりになったそうですが、それからも凄いです。父の留守中に浜田将監、十左衛門兄弟が謀反したのを帰宅した父と協力して討ち取っています。 この甲斐姫を気に入った秀吉が自分の側室とし、姫は天寿をまっとうしています。 鶴姫は伊予河野氏一門の大祝氏の娘で敵対する大内氏が差し向けた陶隆房と堂々の戦いぶりを見せています。 しかし残念なことに一緒に戦った恋人の越智安成が戦死してしまいました。先に父を失ったばかりか恋人まで失った鶴姫は悲観して18?の若さで自害したとのことです。 時世の句 わが恋は三島の浦のうつせ貝 むなしくなりて名をぞわづらふ (わたしの功名や名声など何のたしになりますでしょうや。ただただむなしくなるばかりです。いっそのこと三島の浦の貝になってしまいたい) 悲恋の伝説のある姫でした。鶴姫伝説は祭にもなっているそうです。 他の方の回答である伊井直虎、三村高徳夫人、桂忠防夫人は探しましたが私の探し方が悪かったのか分からないままになってしまいました。 姫たちの戦も男以上に数奇な運命でありました。再度の回答ありがとうございました。
- Pinhole-09
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No.8です。 誤字がありました。 「闇」の門構えの中は言で「ぎん」と読みます。 「ぎんちよ」です。 別の話で、備前 常山城主 三村高徳夫人、 薩摩 平佐城主 桂忠防夫人 は夫の留守中城を襲われ、武装して勇敢に敵と戦ったそうです。
お礼
そうですね。ぎん千代は気位高く、夫の立花宗茂もタジタジだったようです(鎮西一の女丈夫と呼ばれていたらしい)。 偉大なる道雪お父さんがぎん千代七歳の時に家督を譲ったという話がありますが。 三村高徳夫人、桂忠防夫人は調べてみます。やはり留守中は狙われやすいので、武家の娘として果敢に戦ったのでしょうね。 再度の回答ありがとうございました。
- Pinhole-09
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立花道雪の一人娘は嫡子扱いで城主教育を受け、その婿が宗茂です。 娘の名は「闇千代」です。 楠戸義昭著 「城と女」上巻 にくわしい記載があります。
お礼
回答ありがとうございました。 楠戸義昭著 「城と女」上巻 は歴史書なのですか?小説ですか?いずれにせよ面白そうですね。
- tub-clear
- ベストアンサー率0% (0/5)
井伊直政の伯母で井伊谷城主だった井伊直虎という人物がいます。 彼女(名前は男っぽいがれっきとした女性)は、井伊家当主として活躍した人物で、 女地頭と呼ばれていました。
お礼
「なおとら」と素直に読んでいいのでしょうか。なんだか勇猛な武将の名前ですね。元は女らしい名前だったのが当主となったから改名したのでしょうか(推測ですが・・・)。おんな地頭と呼ばれるぐらいだから、厳しかったのでしょうね。調べてみます。 回答ありがとうございました。
- Domenica
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正確には『城主』ではないと思いますが…。 大友宗麟の側近であった吉岡鑑興の妻(吉岡妙林尼・妙麟尼などと呼ばれている女性)も候補にあがるかと思います。 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ot_yosioka.html http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/8060/yoshiokaroot.htm
お礼
URLを拝見し、女城主と(勝手に)認定しました。 退却する敵の大将を奇策を以って討ち取るなど、城主としての働きを充分すぎるほどこなしています。家系図、郷土史、記録により夫である城主鑑興の名前が微妙に違いますね。甚吉が孫扱いになっていたり。 皆様の博識には恐れ入るばかりです。 Domenica様回答ありがとうございます。
- 馬鹿鳥 仁左右衛門馬鹿犬(@osuwariha)
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あともうひとりあげておきます。 関が原の戦いのときに伊勢安濃津城に篭城し奮戦した 富田信高室(名前不詳)がいます。 宇喜多直家の家臣宇喜多安信の娘です。 彼女のこの奮戦が功を奏して、だんなの富田信高は伊予宇和島に加増転封されました。しかしこれだけの軍功高き女性ながらその後は全く文献から姿を消し、消息不明になっています。 理由は簡単。だんなの富田信高が嫁の甥にあたる坂崎左門を隠匿したことを坂崎直盛に幕府へ提訴され慶長18年に改易。除封。陸奥国磐城に蟄居してしまったからです。
お礼
安濃津城が九鬼水軍に海上封鎖されれば苦戦と言わざるを得ないでしょうね。宇喜多忠家とURLにありましたが安信と同一人物なのでしょうか。忠家は直家の弟ですね。 鎧冑鮮麗の美にして武の若武者の正体が奥方であったとは、話題になったのでしょうが、よび名は不明なのですか。 しかし僅か1700人の城兵の士気はさぞかし上がったことでしょうね。 再度の回答ありがとうございました。
- a-koshino
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今川義元の還俗まで、事実上今川家を支配していた寿桂尼をあげてもよいでしょう。城主よりは数段レベルが上の話になりますけど。
お礼
確かに女大名の域ですね。 今川家といえば北条早雲の時代にもそんな女大名的な人物いませんでしたか?系譜なのでしょうかね。 回答ありがとうございました。
- k-josui
- ベストアンサー率24% (3220/13026)
岐阜県岩村町(現恵那市)の岩村城は女城主の城として地元でも売り出しています。 http://siro.parfait.ne.jp/oumi_castle/takoku/gifu/iwamura.htm
お礼
秋山晴近とは秋山信友と同一人物なのでしょうか? 岩村城と言うのは血洗いの池のあった城でしょうか(自信無し)。確か井戸か池かに自分の姿を映した時その姿が美女の姿に映ったら早死にする、とか何とかの伝説もありましたが、売出し中ならそんな恐い話は伏せますよね。 お艶の方は後家で城主になったのですね。しかも自らを降伏の交渉材料としていますね。男なら家臣を守って自身切腹なのでしょうが。 三大高所の城であるとは知りませんでした。 回答ありがとうございました。
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お礼
丁寧な解説ありがとうございました。 逆さ磔とは別説があるのですね。確かに女城主に対する処分としては妥当であるのかもしれませんが、叔母ですから苛烈と言えます。 戦上手なところは信長の一族らしいです。 もうひとつ興味深かったのは織田勝長(坊丸)のことです。その後、織田家に送り返されて、武田攻めをしていることです。彼はお艶の養子となったわけですが、後に武田の人質にもなってしまっています。織田家に帰ったとは言え幼少期に育った叔母の城を攻める心境はどうだったのでしょうか。 このお艶の件の逆上と、浅井長政の件の逆上は同じ類と考えていいかと。処罰も苛烈ですし。 また一度許しておいてその後処罰を下すやり方は波多野秀治との戦いがあった八上城を思い出します。(脱線失礼します)。 ともあれ岩村城は駆け引きの城という感が深くしました。 回答ありがとうございました。