#1です。
#1で末尾に書いた内容について分かりにくいので補足しますと、国主クラスの大藩(仙台藩・熊本藩・広島藩など)は一国一城の例外として支城を構えることを許された大名家もありました。そういう大名家の最上位の家臣(一門・家老)の中には代々「城主」として城を預かっている者がいました。熊本藩の八代城主・松井氏、広島藩の三原城主・浅野氏、仙台藩の白石城主・片倉氏などが陪臣の城主(支城の城主)です。彼らは、陪臣ながら二万石・三万石の知行を得ていて、並みの大名クラスの所領を与えられていました。
陪臣の「城主」は、大名の格式としての国主・「城主」・陣屋とは違う一城の主という意味での「城主」なので、前者と後者を”ダブルミーニング”で書いたことを補足します。
ちなみに、城主ではありませんが、大名家によっては「城代」が置かれた支城もありました。(鳥取藩の米子城代、津藩の伊賀上野城代、徳島藩の洲本城代など)
徳川御三家の附家老(尾張藩犬山城主・安藤氏など)は陪臣の「城主」ながら大名格の待遇を受けていて、江戸屋敷を拝領したりしています。
長州藩(毛利家)の岩国領主吉川氏も、表高6万石の領地を有する最大の陪臣でした。幕府は吉川を大名として扱おうとしましたが、毛利本家が関ヶ原以来の因縁もあって吉川家が大名として遇されることを認めなかった為、江戸に屋敷(赤坂)を持ったり、白無垢の着用が許されていたりと大名並みの扱いを受けているにも関わらず、その身分は陪臣でした。
吉川氏を除くと、加賀藩(前田家)の本多氏(加賀八家)が5万石と純然たる陪臣としては一番多く家禄を与えられていました。
徳川御三家や加賀前田家の家老(年寄)は、陪臣ながら大名や幕府要職にある旗本並みに「従五位下」に叙任されました。
幕府も大坂・駿府・甲府などに支城を持っていたので、それぞれ大坂城代、駿府城代、甲府勤番支配といった役人を派遣して、その配下に番士(大坂は大番・駿府は書院番・甲府は甲府勤番)を派遣して守らせていました。
大坂城代は譜代大名が就任するエリートコースで、後に老中に就任する人も多かったようです。駿府城代は旗本の役職としてはトップレベルの役職でした。甲府勤番支配は悪い役職ではありませんでしたが、そのしたの甲府勤番士は典型的な左遷ポストで俗に「山流し」と言われたようせす。
「陣屋」という言葉も、建物としての「陣屋」そのものは、大名に限ったものではなく、旗本の在所の屋敷や幕府代官の代官所も陣屋でした。