• 締切済み

自分の存在

皆さん始めまして。風梨と申します。 少し長くなってしまうかもしれませんが、どうか聞いてください。 私は高1なのですが、中2の時から今の今までずっと同じことで悩み続けています。(いつまでも解決しないというのも悩みの種です) 中2の時に林間学校に行ったのですが、そのとき突然『自分が自分である』ということに気がついて、なんというかまるで夢を見ているような気持ちになったんです。まるで今までとは別世界のような。そのとき以来色々なことを考えるようになって、うまくいえないのですが、自分だけ孤立しているような気分で、本当に自分は存在しているのか?と思ってしまうんです。頭では分かっているのですが、景色がちがく見えてしまって、それ以来遠くへ行くのが怖くなってしまいました。そのせいで、あまり積極的になれなくなってしまったんです。 そのことを考えるようになって以来、常に自分を意識するようになってしまったんです。笑ってるときも、友達といるときも、何をしているときも自分で自分を監視しているみたいに、、それがすごく怖いんです。他の掲示板にも書き込みをして、相談をしてみたら、精神科にいったほうがいいんじゃないかと進められて、余計に不安になってしまいました。私は病気なんでしょうか?私も、最近はどこかからだが悪いんじゃないかと疑ってしまいます。 たまにすごく何かに集中していて、忘れることもあるのですが、すぐに思い出してしまいます。 実は私は今高3で、上の文は高1の時にある掲示板で投稿したものです。 そのときこのことが哲学的なことに関係すると教えていただきました。 当時よりは冷静に考えられるようになった気もしますが、最近また孤独の中でさまよっています。この感覚を一度覚えるとドキドキがとまらなくなって、どうにかなってしまいそうになります。もう何年も自分の状況の説明の仕方を考えてきました。今私は受験生でそれどころではないのに、このことを考えると何も手につかなくなります。考えるというよりかは感覚的なことだと思うのですが・・・今は将来のことがすごく不安です。 いつかは自立しなければいけない、働かなきゃいけない、それなのにこんな状態じゃ普通の生活もできない気がするんです。 同じような感覚になったことがある方、現在そうである方、アドバイスや共感意見をお願いします。 最後まで読んでくださった方ありがとうございました。

みんなの回答

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.15

自我への目覚めなのかも知れませんね。 けっして病気ではないですよ。 ※※※※※※※※※ 普通に生活していると、そんな事を考える人は少ない でしょう。また考えたとしても事自分自身への問いかけに対して、 明確な答えが出来る人も少ないでしょう。 『自分はいったい何なのだろう』とか、『何が目的で今此処に いるのだろうか』とか、あるいは『人間とは何なのだろうか』とか。 そして、それを感じ、疑問を抱いた瞬間に立場が変わるので 同じものでも今までと感じ方が違ってしまうものなのです。 それは“凡夫”といった人間の立場から、“本地”といった 本来人間がこの世に生を受け誕生した究極の目的といった ところでしょうか。 2500年も昔に、釈尊が説いた仏法というものは、私たち凡夫 の生命の中に“仏の生命”がある事を示したものです。 自身の胸中にある“仏の生命”を輝かせて、悩める衆生を救っ て行くことに、本来の人間の生きる目的があると思います。

noname#142902
noname#142902
回答No.14

さて、あなたのその感覚に答えは出ると思いますか? 答えはNOです。いつの時代の偉人でも最後には同じ結論に辿りつきます。『無知の知』です。結局、この世で完全に証明できることはありません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BA%94%E5%88%86%E5%89%8D%E4%BB%AE%E8%AA%AC 上を参照してください。この世の事柄は何も分からないのだから、気になさらないことが一番かと思います。 冷たい文面で失礼しました。

回答No.13

思春期ころにそのような疑問を持つ事は当然のことです。これから「禅」などに興味を持って取り組む事をお薦めします。人間がどうして悩み、苦しむのかとその解決が「禅」の中に在る事をを説明します。 貴方には二つの意識が在るのです、一人はいまの貴方が意識している今の貴方の意識です。もう一つは貴方の無意識の中にある意識です。お釈迦様が「仏性」といったものです。それは磨かなければ出てこないものです。貴方が感じた事はもう一つの意識がそうさせています。 禅問答の話をします。これは分からないものの代表選手みたいなものですが、欧米では精神衛生にはとても良いものとお墨付きを与えられています。ですけれども、「禅」を説明できる言葉が無かったのです。 ですが、アメリカのスペリー博士という脳科学者の研究によって説明できるようになりました。その研究というのは、テンカンの治療のために左右の脳を繫いでいる脳梁が切断された人達を対象に各種の実験をしました。その結果、左右の脳には其々独立した「意識、意思」が在るということです。 一人の人間には二つの意識が在る、ということです。そして左右の脳の機能は別々のことを受け持っていると言う事です。逆転している人もまれには、いるそうですが、大体は決まっているそうです。この研究によってスペリー博士はノーベル賞を貰いました。 左脳の機能は言葉を扱っているようです、他に理論と分別、つまり知的な活動です。この中の意識が貴方が感じている今の意識です。 右脳は分別出来ない事を扱っています。喜怒哀楽とか言葉に出来ないもの一般です。芸術とか、直感でものを見分けるとかです。 思春期に悩みが始まるのは、その脳の機能分化がほぼ終了する時と一致します。その悩みとは左脳の分別する脳に分別出来ない問題が割り込んでくる事によります。すなわち分別する脳がどうしょうもなくて、立ち往生してしまうのです。 この事と「禅問答」が関係しているのです。この問答は左脳の分別する能力では不可能なのです。分別を捨てろ、と言うわけはここに在ります、知的理解ではどうしょうもないのです。左脳の知的な考え方では手も足も出ないと言うことを、教えています。 その事によって左脳の分別が尽きた時に右脳の「仏性」の出番が来ます。その事を「見性」あるいは「悟りが開いた」という言い方をします。その時に初めて「仏性」なるものを体験できるのです。右脳はその問題を解いてくれます。そのときにはお互いに矛盾していたものが解消されます。悩みの解消となります。 お釈迦さまの教えは不安と悩みの究極的な解消方法なのです。 言い方を替えれば、究極的な精神療法なのです。 「禅」が精神衛生に良いといわれる、ゆえんなのです。 スペリー博士の研究によって、「禅」とは右脳の意識が主導権をもった生活、と云っても良いと思います。 不安、と悩みを抱えている生活は左脳が主導権を握っていて立ち往生に近い生活といってよいかと思います。

回答No.12

青年期の発達課題だと思います。 「発達課題 エリクソン」 「発達課題 青年期」 とかで検索してみてください。 健全なことだと思います。 現代は発達が遅れているのか、内面を語りたがらないのか、あまり聞きませんけどね。

noname#37101
noname#37101
回答No.11

軽重の差はあるのかもしれませんが 気になるのでしたら 風邪をひいたぐらいに軽く考えて 一度精神科に行って相談してみたらいかがでしょうか。 そういうところに行くことが恥ずかしいと思う気持ちがあるかどうか そういうことを気軽に相談できるかどうか 周りに親身に相談に乗ってくれる人がいるかどうかで (実際にはそういうことが気軽にできたり、相談する人がいればあまりそういうことを意識しないで通過するのでしょうが) 短期間で寛解する人もいれば 長期に渡ってそういう境界を逍遙する方もいらっしゃいます。 一度専門医に相談してみるのが一番いい方法なのではないかと思います。

  • teppyon
  • ベストアンサー率50% (6/12)
回答No.10

私は、もう10年程前になりますが、哲学的な問いを意識し始めてから、ごく自然に「私を見ている私」が、本当の私だと思うようになりました。この私というのは、無限のようで、暗闇のようで、絶対的な孤独のように感じられます。 世の大抵の人は、「自分が自分である」ということに気がつきません。なぜかというと、子供からの成長や社会生活を経ることによって、「自分が自分であることを意識せず、しかしこのことがさも当然であるかのごとく振舞う」ことに慣れきっているからです。 人間の成長というものは、「自分が自分である」ということに気がつく前に、そのような振舞いに慣れていくことです。 哲学的な問いというのは、まさにこのことに疑問を感じるところから始まります。そして、言葉にしてみれば本当に単純なことに対して、「深く気づく」という作用が生まれます。これが哲学的な知です。 なぜこのことが神秘的とか精神病とか言われるかというと、このようなことが、社会のなかでは圧倒的に認知されていないということと、精神病患者に似たような症例が多々ある、ということと、そもそも自分という存在は、人間にとって一般に、不思議で、神秘的とさえ感じられるもの、ということが挙げられます。基本的には日常生活が極めて困難なものにならない限り(文字が読めないとか、車に轢かれそうになるとか)、病気ではありませんし、何者かにすがりつきたいような気持ちでない限り、宗教的信仰心でもありません。 このことに気づいた以上、死ぬまで気づきながら生きるしかありません。人は、絶対的孤独としての自分と、社会のなかの自分、必ず両方をいったりきたりしながら生きています。この感覚に少しずつ慣れながら、当たり前のこととして生きていければ一番いいと思います。 もし身近に同じような感覚を持った人がいなければ、これからの社会生活では、「自分が自分である」ところの絶対的な孤独と、「他人とは違う」という孤独感に、苛まれ続けると思います。 幸い、と申しますのも何ですが、池田晶子という文筆家が、「自分を見ている自分」について書いています。いくつか読まれると、いいと思います。

  • chokmah
  • ベストアンサー率30% (11/36)
回答No.9

あたなが今高3で中2のときに体験したということは、、 実は私も神秘体験を同じ5年前頃に体験しています。 とすれば、その頃の惑星配置が精神性になんらかの影響を与える特別な配置をとっていたのか、と考えたりしています(占星術の知識も多少あるので)。 私は、神や精霊、その他神秘的なものに小さな頃から大変興味がありました。仏教等の言う悟りとは何なのか、神とはいったい何なのか。ずっと考え続けていました。 その答えを約5年前に知ったのだと思います。 そして、悟りとは何なのか、神とは何たるか、を知ったからこそ私は今という現実を全力で生きています。 私が体験したものは、、、言葉で言うにはとても難しいです。 当時体験した感覚は今は忘れましたが、かすかなりとも忘れないように、言語に託して今もつないでいます。 あの時の感覚は忘れてしまった、というよりも、あえて忘れさせたのだと思います。 言語に託したあの時の体験とは、私はすべてであった、というものです。目の前にいる他人も、空も大地も、すべてが私自身であるような感覚、そしてそのときすべての始まり、神の計画を知ったように思います。 だから、私は一般の宗教の言う神を、神ととらえていません。 私の体験した神は決して人格を有するような宗教上の神ではなかったからです。 私が体験した神とは、、、ここで言ってしまうといろいろ批判なりが来そうなので言いません。 前述したとおり、神秘体験により私は現実世界をとても大切にしています。あえて忘れさせたのは、シフトした意識では通常生活で問題があるということと、この次元の人間として全力で生きるためだったと思います。 私は、神を探し続けてそれを垣間見ました。 あなたは、探さずに垣間見てしまったから、それを受け入れる態勢が整っていなかったのでしょう。

noname#51508
noname#51508
回答No.8

こんにちは。 質問文を読んだ感想を書かせて頂きます。 自分を意識することが怖いのは、自分を知ることが怖いということだと思います。つまり、もともとは感情(本心)による何らかの否定的な反応を土台としている表層的な自分を見る時、その本当の姿を見る(認める)ことが怖いのではないでしょうか。 自分の考えでは、何らかの感情的な理由から、自分自身を置き去りにしてきた所があって、その時点から積み重ねてきた「(通常の)自分」が見られていて、孤独であり、恐怖を覚えるのではないでしょうか。つまりその「(通常の)自分」は、本当はある否定的感情によってできただけのものであることが知れると無くなってしまうもので、その消滅の恐怖ではないかと思います。 その「(通常の)自分」にどっぷりと浸かっていると恐怖を感じると思いますが、それが「自分ではない」ということが分かると怖くはなくなると思います。 自分の経験から、これの出口は(大まかにいって)どの方向にあるかということを書いてみます。 落ち着いた状態で、その状態にいれるようになったら解決すると思います。これを邪魔するものは常に「判断を下したがる傾向」にあると思います。違う言い方で言うと、「それに引っ掛かかって、自分が身動きできなくなる傾向」とも言えると思います。 そして自分の感想では、「自分が自分である」ことを嫌がっているようにも見えますし、それについて考えてきた内容にも誤りがあるような気がします。 「(通常の)自分」は確かに安定しているように見え、特に考えもしなくても周囲と溶け込むことを可能にしてくれると思います。ですが、上手くいえないですが、実際には「どこかおかしな所がある」と思います。自分はどちらかというと、「自分が自分である」ことに気が付いたから問題が生じたというよりも、その問題は「(通常の)自分」が存在することで起っていると思います。 また、それについて考えている時、考えている状態には大まかに2種類あると思います。「(1)感情的に自動的に生じるもの」と、「(2)他人を見るくらい、対象(自分)と少し離れた気持ちで考えているもの」です(哲学的な定義ではありません)。(1)ではかえって「恐怖を助長している」なんて場合もあると思います。 もしも今まで(1)のように考えてきたのなら、哲学的なことをやってみるのもいいかもしれないと思います(簡単にいえば、自分の感情に左右されないで冷静に考える機会であれば何でもいいかもしれません)。哲学的なことのいいことは、理性が発達できることだと思います。もし、能動的に理性を使う習慣ができると、自分の状況についてもふとした所で真相に気が付くなんてことも可能にさせてくれると思います。自分の感想では、その問題について質問者さんが考えてきたことについて、理性的に検討してみるべきかなと思います。 自分なら以上の前提をもって、事あるごとに考えてみると思います。 その場合、一応何となくでも出口と思われる方向性を想定しておくとよいと思います。 一応、自分の経験から言わせてもらえば、 (1)「頭で判断したがる傾向」(負の感情から自動的に反応してしまうもの。あるいは心の中に見えたものをそのまま現実と認識してしまう傾向)に対して意識を向けることをやめていく(もしくはそれに対しての真相に気が付く)と、それが無くなっていきます。それが無くなっていくと、それを生み出した負の感情も存続できなくなり、消えていくと思います。 つまり、自分が意識を向けなかったものは衰退し、向け続けたものは育っていくということが言えると思います。 (2)問題に対して「あきらめないこと」や「自分にとって死活問題であるという認識があること」も、結果に左右してくると思います。 (3)何年も後のことかもしれませんが、出口はおそらく、質問者さんの個人的傾向や願いと結び付く形で訪れると思います。最初は自分の心理的傾向を知っておけば、出口もまた見えやすくなるような気がします。 以上が現時点での自分の意見です。

回答No.7

孤独の中でさまよっているということは、答えを求めているんでしょうね。 自分が信じれる「答え」を見つければ良いと思います。 以前は私も、同じような感覚に陥り、人とどんなに分かり合っても、愛し合っても、一緒に暮らしても、結局は「一緒」になれない。一人のままだ。と思えて寂しくなりました。 でも、今は、自分が信じれる答えを見つけることが出来て、孤独感はゼロになりました。 同じ事を信じれるかどうかはわかりませんが、参考までに。コナン・ドイルの心霊学という本です。 http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%BF%83%E9%9C%8A%E5%AD%A6-%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%B3-%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%AB/dp/4806313645 自分なりの答えを考えるが「哲学」なので、「哲学」だと、自分なりの答えを考え出さないといけません。 それを考えるには、色々な本を読んだりして、色々な考え方を知るのが良いと思います。 いくら考えても駄目なら、とりあえず「良さそうな宗教」にでも頼ってみるのも1つの方法ですよ。 何にしろ、「答え」が見つかれば、解決すると思います。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.6

その感覚を持てたことは、きっとよいことです。 「自分とは何か」、そんなものはあるのか、仮説にすぎないのではないか、など、疑えばキリがない。 しかし、悩み抜いて答えが出るものではありません。 普通に生活していく中で、ふとしたことにヒントが隠れていることがあるのです。 疑問を傍らに持ちながら、普通の生活をしていくことも不可能ではありません。今それを荷物に感じすぎているだけなんです。まあ、思い込みにほかならないわけですが。 あなたの将来の細かいことはわかりませんが、ひとつだけ言えることは、あなたはいずれ死ぬということです。それも200年以内には。もちろん延命措置などをしないと考えてですが。 どうせ死ぬなら、あなたがあなたであろうと、やがてあなたはあなたでなくなるわけですから、その悩みは虚しく無駄なものではないか、と思いますが、いかがでしょう。 球体の表裏は観測者の都合で決まる。 あなたがどの位置から自分を観察するかであなたの表や裏も変わってきます。 いろんな位置に立って自分を見てみることも、これから役に立つことでしょう。 悩むことは虚しいですが、自分を知ろうとすることまで虚しいとは私は想いません。 じっくり時間をかけて取り組めばいいことです。

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