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哲学・認識・区別
例えば、 机の部分しか見ていないのに、「これは机である」と机の全体に関わる判断を下せるのはなぜでしょうか?? 私は、哲学的知識は全くありませんが、こういった話はおそらく我々人間の認識的な問題であると思います。 どんなことでも構いませんのでどなたか論じて下さい。 宜しくお願いします。
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実は哲学的にも生理学的にも未だ明快には解明されていません。 机でも何でもそうですが、ものというのは常にある視点からの部分しか観察できないわけですから実際に全体を知ろうとするとその対象の周りをぐるぐると回らざるを得なくなります。 しかしそんなことをするまでもなく一瞬にして我々は机なり林檎を認識するわけですが、これを知覚の換喩的構成と呼びます。カントの述語では構想力と言います。 話は少々難しくなりますが以下のURLをご参照ください。
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- magga
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経験的に机というものの性質をそこに見て判断を下したのでしょうね。 その判断は「妄想」ですけど。 猫にとっては机もただの高いところかもしれませんしね。 そもそも机じゃないかもしれませんしね。
- noname002
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「これは何でショウ」とかと題してテレビのバラエティ番組なんかで、よく見かけます。(笑) 類推ということが絡んできますね。 むしろ心理学的な御質問であるかもしれません。 すでにNo.1様が示唆なさっていらっしゃいますが、あるものの一部を垣間見ただけで○○である、という判定が下せるには、その対象物についての比較という過去経験が必要であり、そうしたプロセスを経て概念というものが形づくられていきますが、概念というものは捨象抽象化によって成っているものですから、目の前のもの或いは何らかの方法で知覚されたものが「これは○○である(らしい)」と判定できるからには捨象抽象化を経てもなお残る○○との共通点が見出されなければなりません。 平たく言えば、その人が、どれだけデータを持っているかということになりますね。ですから、ごく一部を垣間見ただけでズバリ当てられたら、それはカンが鋭いとか洞察力に富んでいるとか、あるいは経験が豊かといった賞賛を呼びましょうが逆に全然違うものを予想してしまったら、鈍いですとか世間知らずとか言われそうですが要するに手持ちのデータが足りない、つまり経験が不足しているから、とも言えるでしょう。 仮に机であれば、まず材質の違いデザインの違い、いろんな差異を捨象抽象して、それらを乗り越えて「机である」と判断を下すわけですが、これには、その人が、それまでにどれだけ多様な机というものをみてきたかということが大きく関わってきます。その蓄積が多様で大きくなるほど、細かな差異にとらわれることなく的確な捨象抽象化ができるものですが、データの乏しい人ですと、たとえば木でできた茶色い四角い、引き出しが付いていて…といった細かな差異に拘ってしまいます。そうすると木以外の材質でできている茶色以外の色で四角くなくて引き出しも付いていない…となると「机である」という判定が下せなくなります。 或いは茶色くて四角いというだけで「これは机」と断定してしまうということもあるでしょう。 考えあぐねたあげく自分の手持ちの他のデータから全く的外れなものを引っ張り出してきて当てはめるということにもなりがちです。 そうした不足を補うために、よく使われるのが連想や想像力というテですが、これも実際には結局、蓄積してきたデータの如何に左右される度合いが大きいようです。 物だけに限らずコトバや心理の問題についても言えることなのでしょう。判断力には、その個人の、ありとあらゆる持ち物が曝け出されますね。こわいものだと思います。
- LPLBIF
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机の一部を見て下すことのできる判断は、飽くまで 「これは目で知覚することのできる何かである」 ということだけでしょう。 そこから、それが机の一部である、 と認識するためには、その「何か」を見る以前に 「机を見てその「何か」が机に含まれていると認識する」 ことが必要となります。 その経験を踏まえて、 「机には私が今見ている「何か」が含まれている。 ということはこれを含むまたひとつの「何か」は 机「である可能性がある」」と考えるのが、 机の一部分を見て机の全体を認識する、という 過程ではないでしょうか。