- ベストアンサー
ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?
ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。 << この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>> もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。 ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?
- みんなの回答 (77)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
kobareroさん 了解しました。 なかなか充実した楽しい数週間でした。こちらからも 感謝申し上げます。 わたしの相変わらずのでしゃばり精神については ご海容のほどを 重ねてお願いしておきます。 またお会いしましょう。(そう言えば この言葉をすでに一度申し上げてしまっていましたね)。
その他の回答 (76)
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
お邪魔します。 諸般の事情により、唐突ですが、 「もの」と言語の関係を、先回の思いつき、加算を整理してみます。 すでに、示唆に富んだ回答も有りますので、重複して申し訳ないのですが、 では、「リンゴ」について。 「リンゴ」という言葉が指示しているものは、個々のものとしての「このリンゴ・あのリンゴ」と言った具体的な個物ではなく、「リンゴ」と言う範疇・カテゴリーあるいは集合として、赤いリンゴや青いリンゴ、商品として果物屋に並ぶ林檎の果実、皮を剥かれて切りそろえられお皿に盛られたデザート、等々を加算した集合を、数字の1と数えるように、他の事物から区別する、共通の意味や概念が、同じ言語を使用する個々の人々の意識の中に、成立することによって、言葉としての「リンゴ」の意味が確定されるとともに「リンゴ」と言う言葉によって指示される。と 文章が長ったらしくて、判り難いですが、 つまり >「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、 厳密には、その通りで、存在するのは具体的な「個々の個物としての林檎」で、この個物を「リンゴ」と言う言葉で指示できるのですが、例えば具体的に目の前に、二個の林檎が並んでいる場合、「リンゴ」と言う言葉では、どちらの林檎を指示するのかは確定できないと思います。 こんな感じで、「言語」と「もの」の関係を理解できないでしょうか。 上手く整理できなかったようですが、皆様の対話は勉強になりますね、前回の回答の減算の件は、もう少し考えてみます。勘違いかも。 唐突な回答で、失礼しました。
補足
ご回答ありがとうございました。 「言語」と「もの」の関係をカテゴリーの視点から説明していただいた内容は大変わかりやすく、よく理解できます。ところが、まさに、そのことが、「もの」が先か「言葉」が先かの議論の障害になっているようにも思えます。 ご説明のあったカテゴリーの考え方で行くと、例えば、「リンゴというもの」が先か「リンゴという言葉」が先かという問いに対しては、「リンゴというもの」はカテゴリーだから、「リンゴ」というカテゴリー名(言葉)ができる前には存在しなかったということになるのだと思います。しかし、「リンゴと呼ばれることになる、今は、無名」のカテゴリーは、「リンゴ」というカテゴリー名(言葉)ができる前には、”本当に”存在しなかったのでしょうか? というのは、人間は(動物も同様ですが)、言葉を知っていようがいまいが、そもそも、「個物」に反応するわけではなく、「カテゴリー」に反応するのではないかと思うからです。例えば、道を歩いていて、あるとき、石に躓いてひっくり返って頭を打ったとします。その経験があってからは、道を歩くとき、石に気をつけるようになると思いますが、その石は、前回、躓いたあの石だけでしょうか? おそらく、そうではなく、道にある「石一般」ではないでしょうか? すなわち、人間や動物は、もともと、個物に対応するのではなく、カテゴリーに対応するようにできているのではないかと思います。そうだとすると、カテゴリー「リンゴと呼ばれるはずのもの」は、「リンゴ」というカテゴリー名が出来る前から存在していたことになるのではないでしょうか。 「もの」が先か「言葉」が先かに対し、「言葉」が先と言うことを示す例として、入門書などには、以下のようなものがよく登場します。しかし、これは、私から見ると、まさに、「もの」が先であることを証明しているように思えるので、大変、不思議な論法だと思うのです。 <例1> 日本語には、「お湯」と「水」という言葉があるが、英語には「water」という言葉しかない。だから、「お湯」というものは、「お湯」という言葉ができるまでは、存在しなかったという論法です。 これは、全く理解できません。「お湯(と呼ばれるようになるもの)」は「お湯」という言葉があろうがなかろうが存在すると思います。「お湯(と呼ばれるようになるもの)」の実体は、「温度の高い水」です。もし、アメリカ人にとって、「お湯(と呼ばれるようになるもの)」が実体として存在しないのなら、アメリカ人は、100度Cの熱湯をシャワーで浴びても平気ということになります。この変な論法が、何故まかり通るかというと、それは、言語以外に、「もの」をカテゴライズする能力はないと決め付けているからだと思います。「温度の高い水」を「温度の低い水」から区別してカテゴライズする能力は、言語がなくても、人間に備わっている能力だと思います。 <例2> 英語のmuttonは、肉として加工された羊の肉を指し、英語のsheepは、外で飛び跳ねている羊を指します。一方、フランス語のmoutonは、その両方の意味をカバーします。だから、フランスには、muttonに対応する「もの」はないと言う論法です。これも非常に奇異な論法です。もし、フランスに、mutton(とアメリカでは呼ばれているもの)がないのなら、フランス人は、肉として焼いた羊肉だけではなく、外で飛び跳ねている羊にも、いきなり、ソースをかけて食べるはずです。でも、実際には、そんなことはあり得ません。何故なら、フランス人だって、muttonという言葉こそないけど、muttonという「もの」とsheepという「もの」をしっかりカテゴリーとして分離しているからです。 それでも、やはり、言葉が先なのでしょうか?
- otasuke009
- ベストアンサー率38% (234/601)
#1->#26->#32->#37->#43->#44->#51です。 今回は回答というよりも個人的通信のような感じです。 >補足を書いた後、ご回答の中の以下の3つの文を中心に、2日間くらいずっと考えていました。 >貴重な示唆を与えていただき、ありがとうございました。 ほんとうによく読んでいただいたようで、ありがたく思っているのはこちらです。 *** >色々考えた結果、実際、今は、全く新しい視点で問題を捕らえ直しつつあります。それは、言語は個々人の心の内面を一切問わない、むしろ、”問い得ない”ということです。唯一可能ことは、心の内面ではなく、心の外に現れた言動のみだと言う事です。すなわち、「黄色」というと、心の内面では、その黄色を「質」として感じ取ることができますが、言語「黄色」には、「質」を含めることができないということです。出来るのは、「黄色とは、例えば、ひまわりの花の色であり、レモンの花の色だ」のように、「黄色」以外の何らかのシーニュとの関連でしか示すことができないということなのだと思い至りました。現在、さらに、その条件について、検討中です。 おっしゃっていること、よくわかる気がします。 細かい部分は検証できませんが、基本的にこの考え方は「正しい」感じがしています。 「質」という言葉の使い方もとてもいいです。 たしか、「言葉の意味はその用法にある」という考え方があったように記憶しています。それに近いようですね。 *** あまり意味はないかもしれませんが。 「メシ!」の話の《犬》は、実は人間の子供の名前だったと考えてみてください。一部手直ししています。 (はじめから犬でも人間でも変わりはないと思ってはいたのですが。) ――《犬》は場合によっていろいろな鳴き方をするものですが、 偶然「メシ!」(っぽい)鳴き方をしたときだけ鶏肉なり牛肉なりを与えることにします(オペラント条件付け)。 《犬》は腹が減って「メシ!」と鳴くと肉がもらえることを学習します。 《犬》にとって「メシ!」とは「腹減った!」とか「肉!」を意味する言葉になったかのようですね。 「メシ!」の「概念」は《犬》の中で「即自的に存在するもの」と言えるでしょうか? また、肉を与える人間はしてやったりで、《犬》に「メシ!」という言葉を教えたと思いこむかもしれません。ただ、この人間にとって「メシ!」という言葉の概念はどのようなものなのでしょうか? 《犬》の「メシ!」の概念と同じといえるでしょうか? いずれもわたしにははっきりとわかりませんが、「メシ!」を媒介として、肉を与え・食う関係が成立する限り、「メシ!」という記号が成立しており、その概念はその限りで「同じ」と言ってよい、というのがわたしの考えです。 別に《犬》の脳細胞の興奮状態と、人間の脳細胞の興奮状態が同じでなくてもかまいません。 ソシュールの立場は、これに似ています。 「メシ!」という「記号」が成立した後では、「メシ!」の概念が存在するように見える。―― 人間は「親」などと読み替えてみてもいいかもしれません。 もっとも人間の「親」はもう少し「親切」で、偶然「メシ!」と鳴いたのを、「おおうちの《犬》が言葉をしゃべった!」と勝手に勘違いして「肉(かなにか)」を与えるのかもしれません。 それに「鳴く」というより「泣く」か「言う」ですか。 *** #43 や #51 を書いたときには、柄谷行人が『探求』(だったとおもいます)で「教える/学ぶ」関係の非対称性について書いていた内容を思い出していました。 今回の「お礼」を読んで、橋爪大三郎『「心」はあるのか』を思い浮かべました。 どっちもウィトゲンシュタイン系ですね。 この二冊がソシュール説の解釈に有益かどうかはわかりません。 *** 「上り終えた梯子ははずさなければいけない」といった比喩をひところよく耳にしました。 丸山圭三郎もそういう言い方をしていたような気がします。 (もう亡くなってからずいぶんたちましたね。) 「うそも方便」というわけではないでしょうが、ソシュールは言語という徹底的に非実体的な対象に迫っていく手段として、最初は実体的な表現を使わざるを得なかったのではないかと思います。 なにせいきなり「言語においていっさいは空である」では、ほとんど仏教ですから。 そういう説明は日本ではなんとなく受け入れられても、 ヨーロッパではまったく通じなかったことでしょう。 だから、「シニフィアン」や「シニフィエ」などと名づけてそれぞれが実体的に「存在」するかのような表現を用いたのではないかと思います。 しかし、「シニフィエ」は「シニフィアン」と切り離して取り出すことはできないということがわかれば、もしかしたら「シニフィエ」などという言葉を用いないでも言語の本質について考察することが可能かもしれません。よく知りませんが、ソシュール自身がそう考えても別におかしくないと思います。 質問者も「心」というものがあるかのように仮定して(あってもかまいませんが)考えてきて、「心」はないかのように仮定して考えることもできると気づきかけておられるようです。それはかなりセンスのいいやり方じゃないかと期待したくなります。 「他人の心」を直接観察するわけにはいきませんから、 「他人の心」が自分に直接わかるかのような記述を控えるのは少なくとも現実的です。 現象学の分野では、「間主観性」などの問題群として考えるのかもしれません。 どのような解決を目指すのでしょうか。 昔何かで読んだ「間主観性」という表現は、なにか「主観」というものが「存在」して、 それが個人間で「伝わる」ことを前提としていたような気がします。 しかし、実際的な経験では言葉は「伝わらない」し、他人の心は「わからない」のが普通なので、では、どうして「伝わっ」たり、「わかっ」たりすることがある(ような気がする)のか、実際に「個」として存在する自分が知りうる範囲に限定してアプローチするやりかたはなかなか魅力的だと思います。 *** 「学問」をやっている人の間では、他人が考えたなんとかという「概念」(この場合は術語)をつかまえて、あれこれ評判したりすることがよくあるようです。 デカルト=「二元論者」=悪しき近代の元凶……「もう古い。」 よくある整理ですが、そんなに簡単にデカルトを乗り越えることなどできるのでしょうか? まあこういう言い方をする人は主に素人さんですかね。 いずれにせよ、昔の偉い人を簡単に批判して自分のほうが偉いかのような顔をするのはかっこ悪いと思います。 「構造主義はもう古い。これからはポスト構造主義だ。」 などという図式に猫も杓子もとびついた時代もありました。 わたしはそのころ実際に 「ポスト構造主義はもう古い。これからはポストポスト構造主義だ。」 という発言も聞いたことがあります。わたしは、ぽかーんとして「へぇー、知らなかったー」などと感心していたのですが。 ただ、「構造主義」の「概念」も実際に役に立つならいいじゃないか、と開き直ったりもしていました。話題の前提に応じてちょうどよい道具を使うのがいいような気がします。 「古い」たとえで申し訳ないのですが、「鶏を割くにいずくんぞ牛刀をもちいんや」とか、 「名人はすこし鈍き刀を使う」などと言うようです。 悪乗りですが、次のような言い方を考え付きました。 「まだ足し算なんかやってるの? これからは積分だよ。」 足し算しちゃいけませんか? *** 上の話は質問者やそのほかの具体的な誰かを批判するつもりではありません。(ちょっとかっこ悪かったかもしれません。ごめんなさい。) 自分への戒めのようなものなのですが、もし質問者が共感してくれるならうれしいと思って書いたのです。 *** 無駄話を延々と続けてすみません。 ちょっと裏話のようなことを書いてみたくなったのです。 質問の直接の答えでもありませんし、アドバイスにすらならないかもしれません。 ただ、新しい方向に脱皮しようとしておられる質問者へのエールとして受け取ってもらえるなら幸いです。
お礼
このように考えると、ソシュールが言う、「シーニュはそれ単独で価値が決まるものではなく、他のシーニュとの間の差異によってのみ、その価値が決まる」というのがわかる気がします。「言葉が言葉だけで定義できる」ということは、そのことを示していると思います。ただ、その条件としては、「最初の基本能力を共有していること」があると思います。 ここで、私が、非常に不思議に思うのは、では、「シニフィエである概念」とは一体何かということです。ロボットの例で考えるとわかりやすいように思います。と言うのは、ロボットには、もともと「心」などというものはないですから、「概念」と言っても、「何か心の中に浮かび上がってくるイメージ」などでないことは確かです。それはむしろ「プログラムされた定義やルールの束」ではないかと思います。あるいは、「辞書」のようなものではないかと思います。 これを人間の場合で考えるとどうなるのでしょうか。まず、「何か心の中に浮かび上がってくるイメージ」などではないわけですから、それは、「無意識」あるいは、肉体の中に組み込まれた「プログラムされた定義やルールの束」ということではないでしょうか。我々が人の話を聞いてわかるというとき、通常は、その話全体がわかるわけであって、その話の中の個々の単語の概念をいちいち意識していません。それを意識していると、逆に、話の全体がわからなくなってしまうことにもなります。このことから考えても、「シニフィエである概念」は我々の無意識に埋め込まれているものであり、何か論理的な構造物であって、通常、心が持つ質感を完全に排除したものではないかと思えます。 以上、「メシ!」をきっかけに考えてみました。この内容が妥当かどうかは、別として、私としては、新しい視点で発想することができ、大変有意義でした。どうも、ありがとうございました。
補足
ご回答ありがとうございました。 「メシ!」の話から色々考えてみました。 「メシ!」の話から言える事は、「言語によって会話が成り立つために、心の内面は必要ない。必要なのは、外に現れた言動のみである」ということだと思います。さらに、一歩進めると、「人間の言語はロボットと共有できるはずだ」ということです。ロボットは心を持ちませんが、外に現れた言動を持つことはできるからです。例えば、人(H)とロボット(R)の間で以下のようなやりとりがあれば、人とロボットの間で、言語を使った会話が成り立ったと考えて良いのではないでしょうか。 H: 「冷蔵庫にスイカがしまってあるから、ここへ、持って来て」と言う。 R: 「はい」と言って、スイカを冷蔵庫から持って来る。 H: 「そのスイカを切って、皿に載せて、持って来て」と言う。 R: 床の上にスイカを置いて、切り始める。 H: 「汚いなぁ。台所で、まな板を使って切りなさい」と言う。 R: 「まな板では、スイカは切れません」と言う。 H: 「そうじゃなくて、まな板の上にスイカを乗せて、包丁で切りなさい」と言う。 R: 「わかりました」と言って、まな板の上で、包丁を使ってスイカを切る。 そこで、ソシュールの言う言語を、「心の内面を問題にしない言語」として考えてみました。そうすると、シニフィアン/シニフィエは、ロボットに対しても「注入」可能でなければならないことになります。ただし、ロボットに「赤」という色を教えるのに、ロボットの眼が波長650nmの光を検知したとき、自動的にそれを「赤」という言葉に関連付けるように機械的に設定してしまうと、人間が言葉を習得する条件と全く異なりますから、そういうことはしないという条件で考えます。すなわち、あくまで、言葉を使ってロボットに言葉を教えることを考えます。 ところが、この条件で考えると、どうしても、避けられない問題が出てきます。それは、最初の言葉はどうやって教えるのかということです。これは、人間の子どもの場合も全く同じだと思います。お母さんが「これは、リンゴよ」と言っても、「これ」とは何んだ。「リンゴ」とな何だ。という話になってしまいます。ましてや、「これ」が、今、お母さんが持っている赤い塊のことを指しているのだなどというルールは知る由もないということになります。これでは、永久に言葉は覚えられません。 では、実際は、どうなっているのか。「基本的ことは最初からわかるように出来ている」と考える以外に、合理的な説明はできないと思います。例えば、この世界は3次元空間(上下・左右・前後の感覚)で出来ていて、その中には、複数の物体(塊まりとして他の背景から切り離して移動可能な対象)が存在していること、それらの物体には、色、感触、臭い、味などがあること、また、音というものがあって、音にも、聞き分けられる複数の対象があること(すなわち、五感の存在)等等。そして、基本的コミュニケーション能力です、人(親)が「何かを言いながら、何かを動作で示す」とき、その言葉とその対称を背景から切り分け、互いに関連付ける能力などです。 ロボットの場合は、このような基本能力は、ビデオカメラ風の両眼から入力した外界の画像を解析して、物体を切り分け、位置を算出する能力、そして、物体から反射してくる光を検知・分析する能力、人が語る「これ」などのごく限られた基本語を予め理解する能力などに相当すると思います。 このような「基本能力」を予め前提にしさえすれば、その後の言葉の習得は、全て「言葉のやりとりだけ」で可能だと考えられます。例えば、「赤」という言葉を教えるのに、お母さんの「心の中の赤感覚」を直接、子どもに注入することは元々不可能なわけですから、「このリンゴの色が赤なのよ」と”言葉で”言って教えます。子どもは、そのリンゴの色を「心の中の赤感覚」として”勝手に”感じ取り、それが、「赤」という言葉で表現されるものだと”勝手に”納得します。しかし、実際には、このとき、お母さんの「心の中の赤感覚」と子どもの「心の中の赤感覚」が同じものである保証は全くないわけです。だけれども、それは、どっちでも良いことだということです。別な機会に、お母さんが「今、走って行く、消防自動車の色は何?」と聞いたとき、子どもが「黄色」と答えると問題ですが、「赤」と答えさえすれば、子どもの「心の中の赤感覚」が、実は、お母さんの「心の中の黄色感覚」であったとしても、社会生活上は、まったく、問題はない。すなわち、言語としては立派に流通しているということになります。 <以下、お礼に続く>
No.54では 問いかけていただいた事項にお答えできていませんでした。(このご質問でのわたしの役目は 終わったと勝手に思いこんでしまったのと この週末から週明けにかけて 少し忙しくなりつつあって そのことが影響してしまったものと思います)。 (1)言語のあいだで翻訳ができるということは 横の恣意性が成り立たない証拠ではないのか。 (2)《シニフィアン/シニフィエの恣意性の問題は、この例では、/ nXgX /(あるいは、むしろ、/ ng / )と「目の前に困ったことがある。それを、遠方に追い払う。」の間の恣意性の問題に、置き換えて考えた方がいいのではないか》 (2)のほうについては わたくしも 日本語において 音素〔としてのシニフィアン〕=意義素〔としてのシニフィエ〕として / h ・k /=順出相・反出相 / n ・m /=同定相〔かつ否定相〕・認定相〔時に推定相〕 / r ・s /=自然生成相・人為相 などのごとく想定して考えております。(順序が錯綜してしまいましたが 質問への補足欄などに書き込みました)。ということは 実際の言葉の発生の過程について・つまり心分けの現場から始めるかたちで考えることを その後放っておいたというのが 実情です。 (単純には 労の多い仕事だという気がして 一人でやることは打っ遣っておいたのでした)。 あなたの提示された方針は 非常に具体的で説得力が出てくると思いました。そのとき 仮説として 音素=意義素の想定も 使えるものは使ってくださるとありがたいです。 (1)のほうですが このようにわたしは 言葉内部の恣意性について考えてきた事情があって そのとき 言葉と言葉との恣意性については 差異があればよいという程度に捉えてきただけのようだと認識しました。こちらのほうが 根源的な恣意性だということなのですが 犬がそのシッポによって振り回されることもあるかというような考えで シッポのほうの恣意性の問題を追究していたようです。 翻訳の可能という事実ゆえに恣意性説がどうなるか もう少し考えてみます。(というより なかなかピンと来ていないのです)。(あるいは 自然の事物にかかわりの強い言葉は 翻訳と言わずともいいほどに 互いに言語が違っても ある程度 対応するでしょうし 逆に 思惟にかんするような言葉は 差異が大きくとも 自然関係の言葉を基礎として その差異を 翻訳して埋めるというよりは 互いに 別のものを説明しあうというようなかたちになると思いますし。・・・) (あぁ そのように説明し合えるということは 恣意性が弱いと言いますか そもそも恣意性とは別のあり方になっているかとも考えられますねぇ。初めの心分けの過程で どのゲシュタルトを選ぶかで いわば道を別けて その後は各言語に応じた 一定程度での独自の発展ということですよね。・・・そうなると そもそも 人間存在が 自然本性として 類を為し互いに共通の基礎の上に成り立っているとすれば 恣意性は きわめて相対的な内容しか持たないかも知れないですし・・・)。 ここ四・五日 時間のゆるすかぎりこの質問欄を覗いてみます。走り書きにて失礼します。請原諒。
補足
ご回答ありがとうございました。 音素=意義素の話は大変面白く、その実証例を、私も、あれこれ探してみたのですが、何故か、/ n ・g /、/ n ・k /に集中しており、その他の子音組を見出すことができませんでした。「目の前に困ったことがある。それを、遠方に追い払う。」があるからには、その反対の「目の前に不足がある。それを、遠方から取って来よう。」があるはずだと思い、探してみたのですが、以下のような例がかろうじて見つかる程度で、あまり発展性がありません。それと、brageloneさんが仮説として挙げておられる同定・否定相、順出・順定相、反出・反定相、認定相、自然生成相などとの相関もはっきりとした形では、見つけることができませんでした。/ n ・g /、/ n ・k /以外に、何故、もっと、生活領域全般に渡った動詞に音素=意義素の兆候が見出せないのか不思議な感じもします。 hamu 食む kumu 組む/汲む kamu 噛む/咬む komu 込む/混む himu 秘む homu 褒む turu 釣る teru 照る toru 取る taru 足る シーニュ間の恣意性は、あまり、深刻に考えずに、おおざっぱには、”非”恣意的だけれども、細かいところを見れば、恣意的なところも当然あるのだから、全面的に”非”恣意的ではないという意味で、「恣意的」と言っていると解釈する手もあります。しかし、どうも、この問題はそう簡単ではないように思います。というのは、シーニュ間の恣意性については、「恣意性」という視点よりも、むしろ、以下のソシュールの言葉(「一般言語学講義」P168)のように、「シーニュの示差性」として捕らえた方がソシュールの提起している問題の本質を良く表しているように思うからです。 「言語には差異しかない。...差異といえば、いっぱんに積極的辞項を予想し、それらのあいだに成立するものであるが、言語には積極的辞項のない差異しかない。所記をとってみても能記をとってみても、言語がふくむのは、言語体系に先立って存在するような観念でも音でもなくて、ただこの体系から生じる概念的差異と音的差異とだけである。」 しかし、シーニュ間には、差異しかないと考えると、どうしても、以下の疑問が出てきます。 差異を具体的考えると、必ず、「○○に関する差異」であるはず。ところが、その「○○」はどうやって決まるのか。もし、「○○」も示差的なら、全てが、示差的で、何も決まらないのではないか。また、もし、「○○」は積極的事項として決まるのなら、その「○○」も概念であり、言語の一部ではないのか。 このことをあーでもないこーでもない考えていたのですが、otasuke009さんの#51の回答を読んでいて、ふと、全く、別のことに気付きました。それは、私は、今まで、ずーっと、「概念」というのは、我々個々人の意識に現れるものだとばかり思っていたのですが、ソシュールが言う、シニフィエは、それとは、全く別のものではないかと疑い始めました。例えば、「リンゴ」のシニフィエが、もし、我々の意識として現れるものだとすると、それは、個人個人で全く同じものでなければならないはずですが、現実には、「リンゴ」に関する概念は、個々人の心の中では、千差万別です。これでは、会話が成り立ちません。そこで、考えついたのは、ソシュールの言うシニフィエは、我々の意識に組み込まれるのではなく、「無意識」に組み込まれるのではないかということです。 そう考えてみると、普段、我々が会話をするとき、話の中の一個一個の言葉の概念を意識にのぼらせるなどということは、よほど特別な場合でないかぎりあり得ないこともよく理解できます。要するには、シニフィエは、我々の意識にのぼるような概念ではなく、無意識下の概念ではないかということです。それは、また、何を意味しているかというと、シニフィエ「リンゴ」は、我々が目の前に具体的な姿としてみているリンゴの視覚映像とは、「全く別の形式で表現されたもの」ではないかということです。例えば、コンピュータのメモリの中に保存されている「リンゴ画像生成プログラムとデータ」のようなものです。それは、むしろ、辞書に近いのかも知れません。辞書は、言葉を他の言葉で説明するだけで、現実界との接触が一切ないわけですから、まさに、言葉と言葉の関係だけで成り立っている世界です。このイメージだと、シーニュは積極的事項ではなく、あるのは、他のシーニュとの関連(差異)だけだということとかなり近くなります。 このように考え始めたのですが、まだ、支離滅裂段階なので、もう少し、目途が立つまで、検討を進めてみたいと思います。
No.52です。 コメントをありがとうございます。ところを替えたかたちになりました。 風船モデルも 子音の活発性および音韻・意味の分節化の進展モデルも 了解いたしました。 またお会いしましょう。もっともこのご質問にしても さらにほかの方がたのご回答の行方を見守ってまいりますが。 なるほど 漢語の/ e /の緊張感を解いた発音は フランス語の e も同じようですし マレー系統の言語でも negara[ヌガラ(国)]など 同じような発音だと思います。そういえば 現代日本語の[ ウ ]にしても 似たようですよね。 ということは シーニュとしての分節の完成する前に 心分け過程で いくつかのゲシュタルトが思い浮かんでくる。 子音も母音も動き始め 形つくられつつ それらの音韻は形態素を成すようになる。 やがてシーニュの候補として立つと その言分けを明確にしていく。 そのとき どの候補を選ぶかは 一般に民族によって違った。 かくて いくつかのラングに分かれた。 日本語というラングでは 恣意性説を打ち消すかのような名残りを残しているかも知れない。・・・ こちらも このあたりで。 つつしみまして。
お礼
長らくお付き合いいただき、本当にありがとうございました。 brageloneさんから頂いた回答からは、大変多くの貴重な示唆をいただき、この数週間、普段使わない頭を存分に使って楽しい時間を持つことができました。 ありがとうございました。
- fladnug
- ベストアンサー率44% (4/9)
ANo49です。部分的でも私の回答が参考になったようで非常に恐縮です。 kobareroさんの補足はもっともだと思いますので、私のできるかぎりの助言を提示したいと思います。 まず、kobareroさんが私のソシュール解釈に疑問を持つのも理由のないことではないと思います。というのも、kobareroさんがその典拠として示している丸山先生(私は丸山先生に直接教えを受けたことはありませんが、丸山先生の同僚や弟子の方にお世話になっていたので、丸山先生と呼んでしまいます)の解説には、いささかやりすぎたところがあると思うからです。 私の記憶するかぎり、ソシュール自身が失語症を論じたことはないはずです。少なくとも、大きなテーマとして論じていたことはなかったのではないでしょうか。失語症は、失認症、失行症と共に、心理学や生理学、医学のテーマで、言語学のテーマになることは稀です。これらの症状は、発話、知覚、行為の障害としてバラバラに研究されていましたが、研究が進むに連れ、失語症・失認症・失行症が同時並行的に起こるということが分かってきたといいます。このことは、現代哲学においても、カッシーラー、メルロ=ポンティが強い関心を持って言及しています。この両哲学者、特にメルロ=ポンティは、言語について言及するに当たり、かなりソシュールの学説を参考にしているのですが、彼らの主著『シンボル形式の哲学』『知覚の現象学』などを、丸山先生の同僚でハイデガー学者の木田先生が翻訳しております。このお二方はかなり親交があったと聞いておりますし、木田先生はメルロ=ポンティの研究においてソシュールが話題になったとき必要に応じて丸山先生の助言をもらっていたともおっしゃっていました。 私が思うに、丸山先生がソシュールの研究において失語症の症例を出すのは、木田先生のメルロ=ポンティ研究からの逆輸入ではないでしょうか。例えば、丸山先生はランガージュをシンボルを操る能力と形容したりしますが、ソシュール自身はシンボル(サンボール)という言葉をそのような意味では用いてないはずです。高度に知的な生命活動をシンボル的と形容するのは、カッシーラーやメルロ=ポンティの哲学用語なのです。 丸山先生が失語症の例を引いたのは、観念に言語が先立つ例として非常に都合が良いように思えたからだと思います。しかし、失語症は、程度の差はあれ、失認症、失行症と同時並行的に起こるものであり、カテゴリー的態度の欠如と総称されるものです。すなわち、言語、知覚、行為において、同時並行的に障害が生ずるので、言葉が失われたために知覚が失われた、とする証拠としては不充分なものと言えます。かような、失語症を引き合いに出した文脈で、 「言語事実を持つ以前は一般観念について語ることは、牛の前に鍬をつける如き転倒である」 という断章1802を引用するのは、この断章のミスリードを誘うものだと言わざるをえません(私自身、ソシュールを研究するとき、最もアテにしているのは丸山先生の著作なので、丸山先生の仕事に難癖を付けるのは少々気が引けるのですが)。ここでソシュールが述べているのは、知覚に言語が先行するというようなことではなく、パロールにおいて初めて登場する(知覚の具体的な印象ではない抽象的)観念がその役割を果たすためには、ラングが与えられパロールを行使する条件が充たされねばならない、ということであると思われます。このことを、先程は、 >ラングそのものが与えられていないという場合は、パロールの行使そのものが不可能であり、パロールの世界すらありません。これを言い表して、混沌と言うことも出来るでしょうるでしょうが、解説としては、誤解を生みやすいと思われます。 と説明させていただきました。責任を押し付ける形になって恐縮ですが、失語症の例と並べて断章1802を引用するのが適切なものであるかどうか、もし原資料の文脈が分かるようでしたら、確認してみることをお勧めします。 以上のように、ソシュールが知覚よりも言語の優位を説いているように見えるのは、丸山先生の解釈の行き過ぎに問題があると思います。ただし、ソシュールが知覚に対するラングの独立を説いていることには疑いはないと思います。例えば、日本語においては、イヌの鳴き声を”ワンワン”と表記するのに対し英語においては”BowBow”と表記しますが、これらはいずれも実際人間の耳に聞こえる知覚とは独立に、ラングの体系から全く恣意的に与えられたものであり、どちらが現実のイヌの鳴き声を忠実に再現しているかどうかに応じて評価されるべきものではないのです。 ソシュールは飽くまで言語学者であり言語をテーマに自らの仕事を行ってきた人です。アナグラムの研究などにおいては無意識の研究をしていたとも言えるわけですが、それでもやはり、彼が研究していたのは無意識的な言語現象を研究していたのであり、無意識的な現象一般を研究していたわけではありません。ですから、知覚は言語によって塗り潰されるか否か、といった(むしろ心理学上の)問題は、ソシュールの関心の外にあったのではないでしょうか。 むろん、ソシュール自身にそういう問を突きつけてみれば、何らかの関心を示して彼なりの考えを示したかも知れませんが、実際のソシュールはそのような業績を残していないというのが歴史的事実です。それは、失語症の問題においてもまた然りです。したがって、ソシュールは、言語無くして知覚無し、というテーゼに肯定も否定もしていないというのが実情であって、ソシュールは、言語無くして知覚無し、と説いたとする解釈は、明らかに拡大解釈でしょう。そしてまた、ソシュールが知覚を自らの研究課題としていなかった以上、ソシュールの学説はパロールの世界についてのものである、と結論づけるべきだろうというのが、私の見解です。
お礼
もし、そうであれば、「シーニュ間の恣意性」を支える、シーニュの非実体性、関係的存在の意味が明確になります。そうすると、ソシュールのシニフィエを理解するためには、それが、一般に言われる「概念」とは全く違ったものであるという認識が必要なのではないかと思い始めています。 以上、かなり、説明の混乱と飛躍があるかと思いますが、新しい視点で考えるキッカケを与えて頂いたお礼も兼ねて書かせていただきました。
補足
ご回答ありがとうございました。 今回、「知覚」という概念を使って説明していただいたのと、また、「知覚」は、ソシュールの関心の外にあったのではないかという話から、改めて、別の角度から、問題の在り処を考えるきっかけができました。それは、以下に述べるようなことなのですが、これは、今まさに考えている途中であり、かなり混乱しているのですが、今後、この方向で、もう少しゆっくり考えてみたいと思います。 ソシュールの入門書などを読んで、感じる”わかりにくさ”の、根底にあるのは、以下のどの立場を取っいるかが、あいまいなまま論が進められているためではないかと感じました。 立場1: 人間は、言語がなくても、物事を分節する「知覚能力」を持っている。 立場2: 人間は、言語がなければ、物事を分節する「知覚能力」を全く発揮できない。 立場3: 人間は、言語がなければ、物事を分節する「知覚能力」をごく限定的にしか発揮できない。 立場4: 人間が持つ物事を分節する「知覚能力」は、言語の分節の話とは”全く”関係がない。 私は、初め、ソシュール、あるいは、丸山先生の考えは、立場3に近いのかと思っていたため、非常にあやふやな理解しかできませんでした。というのは、人間以外の動物(例えば、サルや犬)を見れば、言語がなくても、物事を分節する「知覚能力」を持っていることは明らかですし、また、人間の赤ん坊の場合は、言語を覚える前の短い期間でしか確認できませんが、それでも、物事を分節する「知覚能力」を持っていることは明らかです。にも関わらず、立場3を取るとすると、唯一の可能性は、人間は言語能力があるが故に、サルや犬より、物事を分節する「知覚能力」が劣っているということしか思い付きません。確かに、それは、正しいのかも知れませんが、そうすると、その劣っている「知覚能力」による分節と言語による分節がどう関係するのか、非常に、あいまいになってしまいます。それは、丸山先生の言う「身分け」と「言分け」の関係ということになるかと思います。 ところが、今回いただいた回答からヒントを得て、思い付いたのですが、そして、また、otasuke009さんの#51の回答の「メシ!」からもヒントを得たのですが、結局、立場4が正しいのではないかと言うことです。「身分け」とか「言分け」とか言うから話がややこしくなるのであって、「身分け」があるかないかは、「言分け」とは全く関係がないのではないかということです。 そのように考えた背景は、ソシュールの言う「シーニュ間の恣意性」というのが、立場4を取ると説明ができるからです。すなわち、「心の内面の存在」を100%無視するということです。「心」がないと言うわけではないですが、「心の内面があるかないかは問わない、問うのは、心の外部に現れた言動のみだ」ということではないかと思います。実際に、人が他人の心を知るのは、外部に現れる言動から推測するしかないわけです。例えば、リンゴを見て、誰かが「赤い」と言ったとしても、その言った本人が「赤い」と言った色を心の内面で、実際どのような色として感じているのかは、知る術がないわけですから。同様に誰かに「リンゴを取って」と言って、その人がリンゴを取ってくれたとしても、その人が心のなかで、リンゴの概念を持っていたかどうかは知りようがないわけです。「リンゴを取ってくれた」という行動を見て、「リンゴ」という概念を持っていると推測するしかないと言う事です。 そう考えると、シニフィエであるところの「概念」というのは、通常使う意味の「概念」とは、全く異なり、「純粋に論理的記述としての概念」ではないかと思うようになりました。 どういうことか言うと、例えば、「リンゴ」の概念と通常言うのは、実際に、我々が目で見て目の前に見えるその姿、形、色、そして、齧ったときの味などの具体的な「質的」側面を含んでいるように思います。もちろん、リンゴの値段であるとか、栄養であるとか、五感とは異なる知識もありますが、五感で感じ取る「質的」側面も重要な要素として含んでいると思います。ところが、シニフィエである概念には、そのような「質的」側面は一切含まれていない。いわば、辞書的な概念、すなわち、言葉で記述されるような純粋に論理的関係によってのみ記述される概念ではないのかと思うのです。 <続きは、お礼に>
No.50です。 心分けの位置づけが出来てよかったです。なによりです。 (D)の問題ですが これは わざと相手に有利なように解釈しました。そうでなければ おっしゃるとおりの結論になるとわたしも考えます。 《人間の意識を支配するのは、「言語」というよりは、「言説」ではないでしょうか》 ――わたしの場合 抽象的に 《わたし / その意志 / その意志による行為》が たとえ潜在的にであっても 人間の意識を規定すると思っています。《言説》は その意味で同感です。《言語》が意識を支配すると言った場合 抽象的すぎるように感じます。 恣意性の問題ですが 横のほうにかんして 《「靄」「愛」「肺」の間の恣意性は全く理解できません。この世界から「愛」と言う言葉が消えたら、その空白を「霞」と「肺」が埋めるなどという恣意性はないはずですから。》 ――この場合 いとおしさとか かなしみとか まことのこころとか 類義語でも間に合わないといった意味なのでしょうか。 第二次的なほうの縦の恣意性について わたくしは じつは 疑いを持っていて すでにこのgooでも質問しています。よろしかったら参照してください。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2944701.html ソシュール説のきちんと批判される日の早からんことを願っています。 今回 楽しかったですし いい経験をさせていただきました。(これで さよならというわけのものではないですが)。 アナグラムは 手をつけようとは思わなかったですねぇ。必要になるでしょうか。(わかりませんが)。
お礼
すなわち、発声/ ng / と意味「目の前に困ったことがある。それを、遠方に追い払う。」の間に、心理的に何らかの関連性があるかのという問題です。/ n /には、何か否定的な意味合いがあるような気もしないでもないです。英語の「no」や「negative」なども関連するかも知れません。また、/ g /は、「あっちへ行け」で、英語の[go]と関連するかも知れません。[good]もあるけど、母音を抜くと[good]は[gd]の系統で[g]の系統とは違うなどと屁理屈を付けていると調子に乗りすぎなので、ここらで、退散します。お騒がせしました。
補足
ご回答ありがとうございました。 シーニュ間の恣意性については、丸山圭三朗の「ソシュールの思想」P95に以下の記述があります。 << 個々の語はあくまでも全体に依存しており、その大きさ(価値)はその語を取巻く他の語によってしか決定されない。>> 個々の語(シーニュ)は、即自的でpositiveな存在ではなく、示差的関係であるnegativeな存在だということです。そして、丸山はこのことを、「饅頭モデル」と「風船モデル」の違いとして説明しています(同書P96)。饅頭モデルは、饅頭がぎゅうぎゅうに詰まった箱から、饅頭を一個取り除くと、その空白はそのまま残ると言うものです。饅頭が語だとすると、これは、言語が語という要素の集合体だという考えで、ソシュールが否定しているモデルです。これに対して、「風船モデル」は、風船がぎゅうぎゅうに詰まった箱から、風船を一個取り除くと、その空白に他の風船が広がって、埋めてしまうというものです。これが、ソシュールが考えている言語モデルです。 この「風船モデル」を支持する例として、「狼」、「山犬」、「野犬」、「犬」という語からなるシステム(箱)から、「狼」を取り除くと「狼」が占めていた場所(価値)を、「山犬」が占有する(価値の拡大)という例を挙げ、だから、「饅頭モデル」は間違いで、「風船モデル」は正しいという論法です。 これに対して、私の疑問は、何故、「狼」、「山犬」、「野犬」、「犬」のような互いに似通ったものを例に挙げて「風船」モデルが正しいと言うのかです。もし、「狼」「国家」「流産」「遣隋使」なら、「饅頭モデル」が正しいということになるのではないかという疑問です。シーニュ間の恣意性については、私は、大筋は恣意的ではなく、部分的に恣意的なところもあるという考えです。その最大の根拠は、各言語間で翻訳が可能だという事実です。どう思われますか? シニフィアン/シニフェ間の恣意性については、大変興味深い質問(goo)を読ませていただきました。私は、大和言葉に疎いので、的外れかも知れませんが(大いに的外れでしょうね)、「心分け」とも関連するので考えてみました。 (1)意味は、「子音」に、より多く宿る。 (2)音声は未分化から分化へと発展する。 (3)意味は未分化から分化へと発展する。 (1)は、人間の発声上の特徴に根ざしていると思います。サルと人間の発声上の違いとして、人間は口内で舌が自由に動かせるが、サルは口内の上下方向のスペースが狭く自由に動かせないという構造上の特徴があると言われています。「母音(舌を上下にあまり動かさない)」が生み出す差異の数は少なく(サルの叫びのようになる)、「子音」は舌の自在な動きに対応して、多くの差異を生み出すことができます。この「子音」の特性を利用して、無数の意味を生み出しているのだと思います。だから、「意味」については、母音をある程度無視して、子音に注目するという考えもありそうです。 (2)、(3)は、言語の発生時点に遡って考えると、音声も意味も、初めは、より未分化な状態から出発して、順次、分化のレベルが高まって行ったと考えるのが自然な気がするということです。例えば、母音では、[a][e][o]などは、共通母音[X]があって、それが、次第に[a][e][o]に分化して行ったと考えられるのではないかということです。と言うのは、[a][e][o]は、ほとんど口の形や、舌の位置を変えずに発声することができます。[u][i]などは、また、別なレベルの分化のような気もしますが。[a][e][o]の共通母音[X]については、現存しているものとしては、中国語の[e]がぴったりな感じです。中国語の[e]は、最も声帯の緊張感を弛緩させた母音のように感じます。[a][e][o]から、夫々の個性を消去したような音です。 それで、/ nVgV /との関連ですが、/ nVgV /のVは、未分化なV、すなわち、当初は、原母音[X]だったものが、生活環境の複雑化に伴い、原母音[X]が[a][i][u][e][o]などに順次分化して行ったのではないかということです。一方、意味の方も、原初においては、「目の前に困ったことがある。それを、遠方に追い払う。」というような未分化な原初的意味だったものが、順次、「逃げる」「凪ぐ」「和ぐ」「投げる」「願う」「流れる」「長い」などに分化して行ったとも考えられます。その意味上の分化(これが「心分け」)に対応した「音分け」として、原母音[X]が、母音[a][i][u][e][o]へと分化して行ったとも考えられます。 と、一応理屈を捏ねて見たのですが、要するに、結論としては、シニフィアン/シニフィエの恣意性の問題は、この例では、/ nXgX /(あるいは、むしろ、/ ng / )と「目の前に困ったことがある。それを、遠方に追い払う。」の間の恣意性の問題に、置き換えて考えた方がいいのではないかということです。 <以下、お礼に続く>
- otasuke009
- ベストアンサー率38% (234/601)
#1->#26->#32->#37->#43->#44です。 紆余曲折の末、話が元に戻ってきたようでよかったことです。 >従って、提示していただいた図式1、図式2は、結果的には同じことになるかと思います。いずれにしても、初めてオリオン座のイメージを心の中にゲシュタルトとして浮かび上がらせた人の(まだ、シーニュが生まれる前)のオリオン座の概念Aと、シーニュ「オリオン座」のシニフィエとしての概念Bは、同じ価値を持っているということで、同意していただけたのかと解釈しました。 ><< 言語は、「もの」や「概念」に付けられた名前ではない。>> >まず、「もの」については、それが、もし、「心の外にある客観物」と考えるのであれば(当初質問したときは、そんなものがあるとは想定していませんでしたが)、それは即自的に存在しないことは自明なことですから、納得できます。しかし、「概念」については、心の中に即自的に存在するわけですから、それに名前(正確にはシニフィアン)を付けたのが「シーニュ」だと考えては何故いけないのか、これが、私の疑問です。 この問いについて考えてみます。 わたしは、#44でこう述べました。 >>おそらく概念Aと概念Bは同じものと言ってよいでしょう。 たぶん同一人の中ではほとんど同じもの。 他人同士ではどのような映像であるかはまったく異なっている可能性がありますが、 同じシニフィアンに対応しているシニフィエであり、 現実的な場面で混乱を引き起こさない限りにおいて同じ価値を持った概念と考えてよいと思います。 「現実的な場面で混乱を引き起こさない限りにおいて」という留保をつけています。 わたしの考えている「概念」は、おっしゃるような「即自的」存在ではありません。 むしろ、記号のネットワークの中で、他の概念との差異によってしか特定できないものなのです。 「概念」と呼ばれるものは、シーニュのシニフィエとしての側面を構成する「想念」で、これまで「感覚映像」と呼んできたものです。その存在の物質的基礎は脳細胞の興奮状態の分布状況と考えてよいと思います。 *** 人間的な「記号」の枠を越えてより一般化する意味で、これを「刺激-反応」という枠組みで考えてみましょう。 たとえば、「肉の臭い(刺激)」で犬が「よだれを流す(反応)」。 一匹の犬が「鶏肉の臭い」に「よだれを流した」のと、「牛肉の臭い」に「よだれを流した」のを比較してみましょう。 鶏肉と牛肉では臭いが異なっているでしょうが、「よだれを流す」という反応を引き起こす限りでふたつは「同じ刺激」だと言うことができます。 しかしまあ、これは「言語」や「記号」とは別の話です。 *** さらに話を一歩前進させて、 犬に肉を与えるときに、必ず「ベル」を鳴らします(パブロフの犬)。 犬は「ベル」を聞くだけで「よだれを流す」。 鶏/牛肉とベルではそれぞれかなり異なったものでしょうが、「よだれを流す」という反応を引き起こす限りでそれぞれは「同じ刺激」だと言っていいのです。 「反応が同じだけで刺激は別々だ」という声が聞こえてきそうですが、 いまのところ無視をして話を進めます。かなり奇天烈な例えですので心構えをお願いします。 犬は場合によっていろいろな鳴き方をするものですが、 偶然「メシ!」(っぽい)鳴き方をしたときだけ鶏肉なり牛肉なりを与えることにします(オペラント条件付け)。 犬は腹が減ると「メシ!」と鳴くと肉がもらえることを学習します。 犬にとって「メシ!」とは「腹減った!」とか「肉!」を意味する言葉になったかのようですね。 「メシ!」の「概念」は犬の中で「即自的に存在するもの」と言えるでしょうか? また、肉を与える人間はしてやったりで、犬に「メシ!」という言葉を教えたと思いこむかもしれません。ただ、この人間にとって犬の「メシ!」という言葉の概念はどのようなものなのでしょうか? 犬の「メシ!」の概念と同じといえるでしょうか? いずれもわたしにははっきりとわかりませんが、「メシ!」を媒介として、肉を与え・食う関係が成立する限り、「メシ!」という記号が成立しており、その概念はその限りで「同じ」と言ってよい、というのがわたしの考えです。 別に犬の脳細胞の興奮状態と、人間の脳細胞の興奮状態が同じでなくてもかまいません。 ソシュールの立場は、これに似ています。 「メシ!」という「記号」が成立した後では、「メシ!」の概念が存在するように見える。 *** さて、人間の世界に戻ります。 言葉というものは、通じるか通じないかといえば、ほとんど通じないもののような気がします。 「正義」という言葉もなかなか通じません。 辞書的な意味(ラング内での共通了解事項)は分明のように見えて、 それが実際に使われる場面でなにを意味しているかは、人によりまるで異なっていたりします。 殺し合いまでは起きないにしても、同じような事態は日常的に存在します。 「ちゃんと仕事しろ!」 「やんとやってるよ!!」 「どこがちゃんとやってるってんだ!!! 明日からもう来るな!」 「明日テストするから勉強しておくこと。」 「はーい。」 …… 「勉強しろっていったのになんでやって来なかったんだ?」 「あれー? 勉強してたのになぁ。」 「仕事」や「勉強」の概念が違うとしか言いようがないですね。 *** 「オリオンのベルト」という「記号」はどうでしょう? 「あれがオリオン座だよ。あの三つ並んだのはオリオンのベルトなんだ。」 「なるほどねぇ。なんだかロマンチックだわ。」 話は通じていますが、二人がどんな「ベルト」を想起しているかはわかりません。 「オリオンのベルト」というシーニュは、 「ポセイドンのベルト」でもなく、「オリオンのサンダル」でもなく、 「オリオンのベルト」というシニフィアンと結びついてさえいれば、 「革のベルト」を想起しようが「布のベルト」を想起しようがかまいません。 「結果的に」どちらも同じ「オリオンのベルト」としての価値を持つ概念なのです。 もしかしたら、「ベルト」である必要すらないかもしれません。 もちろんその場合、「誤用」とか「誤解」というレッテルを貼られるかもしれませんが。 *** 人間の「身体」や「心の中」に去来する「刺激」や「想念」は、常に一回的なもので、同じ「刺激」や「想念」は二度と訪れないという言い方ができるかもしれません。 (じつはいまのところわたしは人間の「身体」と「心」を区別する必要をあまり感じていません。) その意味で人間(の「心」)に与えられるもの(「想念」)は未分化で混沌としたものなのではないでしょうか。ソシュールはそのことを言っているとわたしは思います。 しかし人間の「身体」や「心」には不思議な働きがあって、この「刺激」や「想念」は、あの「刺激」や「想念」と「同じ」とか「違う」とか感じ取る能力が備わっているようです。その働きを「意識」とか「ランガージュ」と呼んでもよいでしょう。 昨日の「わたし」も、今日の「わたし」も、同じ「わたし」である。 なぜそれが可能か? 「わたし」という存在は「わたし」というシーニュの成立自体が支えているのです。 「意識」が壊れるとき「わたし」の同一性は失われます。 すなわち、その人物において「わたし」という言葉が成立しなくなったとき、 「わたし」は「わたし」ではあり得なくなり、誰ともつかない存在に還ります。 「わたし」と思うから「わたし」は「わたし」なのであり、 「わたし」が先にあって「わたし」に「わたし」という名前を与えるのではありません。 *** さてわたしの回答ですが、 << 言語は、「もの」や「概念」に付けられた名前ではない。>> これを正しく解釈すると、 <<人間同士は同じ「もの」や「概念」について語っているのではない。 同じ言葉を使って語ることによって 「事後的に」同じ「もの」や「概念」が まさにそのものとして存在しているように感じられるにすぎないのである。>> ということになるような気がします。 言語の「社会性」も考慮して表現してみました。 もちろんこの表現にもまだ問題が残っています。 それは「同じ言葉」という部分なのですが、それを論じることは、 まだわたしの手に余るようですし、質問の範囲も逸脱することになりそうなのでやめておきます。 今回の話は通じそうでしょうか?
お礼
補足を書いた後、ご回答の中の以下の3つの文を中心に、2日間くらいずっと考えていました。 >「現実的な場面で混乱を引き起こさない限りにおいて」 >「メシ!」を媒介として、肉を与え・食う関係が成立する限り、「メシ!」という記号が成立しており、その概念はその限りで「同じ」... >「仕事」や「勉強」の概念が違うとしか言いようがないですね。 というのも、これらの文の中に、何か重大なヒントが含まれていそうだったからです。そして、色々考えた結果、実際、今は、全く新しい視点で問題を捕らえ直しつつあります。それは、言語は個々人の心の内面を一切問わない、むしろ、”問い得ない”ということです。唯一可能ことは、心の内面ではなく、心の外に現れた言動のみだと言う事です。すなわち、「黄色」というと、心の内面では、その黄色を「質」として感じ取ることができますが、言語「黄色」には、「質」を含めることができないということです。出来るのは、「黄色とは、例えば、ひまわりの花の色であり、レモンの花の色だ」のように、「黄色」以外の何らかのシーニュとの関連でしか示すことができないということなのだと思い至りました。現在、さらに、その条件について、検討中です。 貴重な示唆を与えていただき、ありがとうございました。
補足
ご回答ありがとうございました。 大変興味深い例を挙げていただいたので、あれこれ考えてみました。まだ、あまり整理しきれていないのですが、以下に気付いた点を書かせていただきました。 初めに、概念は、即時的存在ではなく、他の概念との差異関係としてのみ存在するという件です。これは、ソシュールの言うシーニュ同士の関係の恣意性の話に繋がるのだと思いますが、このことが私にはよく理解できません。例えば、「黄色」という色が、即時的に理解されるのではなく、他の色との差異によってのみ理解できるなどということがあるのでしょうか? もちろん、この世界が「黄色」ばかりで出来ていて、他の色が存在しなければ、「黄色」という概念そのものが生まれないだろうことは十分理解できます。従って、「黄色」という概念が即時的に生まれるための条件は、「黄色以外の色」も同時にあるということです。しかし、だからと言って、「差異」だけで「黄色」を特定するということは、そもそも何を意味しているのかよくわからないのです。 敢えて想像すると、「黄色」は「赤色」より、光の周波数が高い。などと言う例を考えてみたのですが、そもそも、光の周波数などという概念は人類史上つい最近出てきた話で、「黄色」や「赤色」という概念は、もっとずっと前に生まれたものです。そうすると、「黄色」を「赤色」から区別する「差異」とは、一体、いかなるものかがわからないのです。「黄色」は「黄色以外の色ではない」と言ってみても、それは、トートロジーのように思います。差異によって概念を特定するとは、具体的には、どのような意味なのでしょうか? 次に、犬に「メシ!」と言わせる例です。これは、非常に面白い例で、何か重要なヒントが含まれているような気がするので、色々考えてみたのですが、最後にたどり着いた結論は、以下のものです。 この例の「メシ!」は、犬と人間の間で、「概念」を共有するプロセスを欠いているので、単なる、シグナルに過ぎないのではないかということです。まさに、初めに書いておられるように、「刺激(空腹感)--->反応(叫び「メシ!」)」の生理プロセスに過ぎないのではないかと思うのです。犬の心の中に何らかの「概念」が構成されているという証拠はないように思います。 最後に、「正義」「仕事」「オリオンのベルト」の概念が、各人でばらばらだと言う話は、全く、おっしゃるとおりだと思います。ただ、もし、それを認めると、シニフィアン「正義」「仕事」「オリオンのベルト」に対応するシニフィエ「正義」「仕事」「オリオンのベルト」が、人によって異なることになり、その結果、「一つのシニフィアンと一つのシニフィエで出来ている一つのシーニュ」というソシュールのモデルが成り立たなくなってしまうのではないでしょうか。
No.48を承けます。次のように考えます。 まづ雨上がりに空に 虹がかかります。わたしが見ています。ほかの人も見ています。仮りに写真に撮ってみれば 誰もが 自分の見ている虹はこれだと言い合って おそらく――その指向対象としての虹なるものにかんして―― 皆が同じものを見ていると確認できるということだと思われます。 これが わたしの心にどう映っているかですが それは 従って まづ写真に撮った映像と同じものが 客観的なものとしてあり そのほかに おそらく心象風景として 喜びやあるいは悲しみにつながるような心理的な視像もあるかと考えられます。それで いまは心理の側面は措いて考えるわけです。 客観的な映像のほうにかんして まづはこれも 視覚に捉えたものを意識に乗せて心の場に置かれています。つまり身分けのあと 心分けが始まっています。 ここで すでに言分けを取り上げてみれば 日本語というラングでは これを にじと言い それは七つの色から成ると言う。他では 雨弓だの空の弓だのと言い それらは 仮りに六色だ五色だと言う。 そこで問題は 初めの心分けといまの言分けとの関係です。言分けが成り立ったあとでは 語としての《にじ・七つ・色》は それぞれ シニフィエ/シニフィアンを伴なったシーニュです。他のものから にじなるものを 他の数から七つを 他のかたちや匂いなどから色なるものを それぞれ切り取って 言分けしています。 ですから このように切り取られる前には それぞれそのようなゲシュタルトが心の場に現われようとしていた。これでいいのではないでしょうか。一つのものとそれがいくつあるかにかかわるゲシュタルト たとえば顔色とのまさに色の違いにかかわるそれ。《にじ あるいは 漢語の虹》がどのようなゲシュタルトであるか わたしは知らないのですが ラングによっては 《弓》のようなゲシュタルトを思い浮かべるという心分けもあると捉えられます。 これでいいのではないでしょうか。心分けはあった。言分けが成り立ったなら 心分けは もう 取り上げないでいることができる。ただし ラングの場で言葉が確定するまでに それにかかわるゲシュタルトが姿を現わそうとしていたとすれば 《予定観念》と言えるはづです。 もし細かい問題があるとするなら それは 言葉=シーニュが明確になっているときには それは すでにシニフィアンとシニフィエとが結合して成り立っているということだと思われます。 つまり このシニフィエが概念だからと言うので それをシーニュから取り出して 前段階の《予定観念》と 必要以上に 同定することは 言語の問題と別になる。あるいは 今度はシニフィエとすでに切り離して シニフィアンのほうを単独で取り上げても そこに言語の新しい捉え方が生まれるというものでもない。 というのも 《弓》と言ってしまえば すでに言分けが完了しているのであり これは そのものとして 一つのシーニュであると言わなければならない。つまりは ゲシュタルトにおいて・ゲシュタルトとして yumiというシニフィアンだと言ってみたり 《矢を射るための円弧形のもの》といったシニフィエを取り出したりしても 問題がちがってくると思われる。 《(D)概念が、言語の価値となる前に人の心の中で決まっているとすると、必然的に、ある言語と別の言語の項が正確に対応していなくてはならないことになります。》 ――《シーニュとしての概念(シニフィエ)が つまりはたとえば〈雨弓〉なる概念が シーニュとして明確に言分けされる前に》ということではないでしょうか。また 《決まっている》という表現が 《すでにシーニュとして分節されている》という意味に採られます。逆に言うと 心の場で《雨弓》のようなゲシュタルトが持たれていても いいけれども それは シーニュとして不分明だし シーニュではないのだと。 《言分け》――シーニュの縦の(内部の)および横の(外部での)恣意性説――を持ち出さなければ 言語=名称目録観がどうのこうのと言うこともなかったかも知れません。 (それにしても 丸山という人は それとして整合性を持たせて 文明批評にまで持っていきましたね)。
補足
ご回答ありがとうございました。 ご回答の内容を少し抽象化して整理させていだくと、以下のようになるかと思いました。 ある「もの(仮にA)」に関して、各人の心の中には、心分けにより、概念A1、概念A2、概念A3などが生まれている可能性がある。しかし、一旦、そのものに関して、「シーニュA」が完成すると、そのシニフィエである概念Aは、各人の心の中に言分けとして定着する。その場合、概念Aは、たまたま、概念A1、A2、A3などと一致する場合もあれば、一致しない場合もある。いずれにしても、その言語集団内では、「シーニュA(シニフィエA)」だけが言語として流通するという事実に変わりはなく、概念A1、A2、A3などは、各人の心の中に残存、あるいは、シニフィエAにより上書きされるだけのことであり、その事実は、言語にとっては問題の対象外である。 このような考えであれば、私も、全く同感です。そして、そのことは、ソシュールが、「予定観念などというものはなく、言語が現れないうちは、なに一つ分明なものはない。(「ソシュール一般言語学講義(小林英夫訳)」P157)」と言い切るのはやや無理があり、特に、最後の「なに一つ分明なものはない」は、明らかに無理がある。このような理解が、今回の私の当初の質問に対する最終回答かと考えます。 次に、(D)の件ですが、おっしゃりたい意味を把握しかねております。多分、(D)の意味することに対する認識が食い違っているのかも知れません。(D)の意味を私は以下のように解釈しました。 <<「予定観念」などというものはない。なぜなら、もし、「予定観念」があるとすれば、フランス語の犬(chien)も日本語の犬も同じ意味範囲になるはずではないか。でも、実際は、そうではないではないか。ほら見ろ。>> しかし、もともと、フランス語の「chien」は、日本語の「犬」ではないのですから、対応する「予定観念」も違うし、意味範囲も違って当たり前だと思うのです。 最後に、シーニュの縦の(内部の)および横の(外部での)恣意性説の件ですが、先ず、縦の恣意性というのは、大変納得できるものです、しかし、横の恣意性は、80%納得できないです。納得できる20%は、類似語における恣意性です。例えば、「霞」「霧」「靄」の間の恣意性は良く理解できます。しかし、「靄」「愛」「肺」の間の恣意性は全く理解できません。この世界から「愛」と言う言葉が消えたら、その空白を「霞」と「肺」が埋めるなどという恣意性はないはずですから。 丸山圭三朗の「文化のフェティシズム」を少し読み始めたところです。科学に対する反感がかなり強いようですね。人間の意識を支配するのは、「言語」というよりは、「言説」ではないでしょうか。科学崇拝も言語のなせる業なら、神話の時代の文化も、また、言語がなせる業ですから、言語そのものよりも「言説」如何のように感じました。やはり、アナグラム研究でもやった方が実り多い議論ができるでしょうか。
- fladnug
- ベストアンサー率44% (4/9)
ANo47です。お返事ありがとうございます。 なるほど、存在論的な疑問をお持ちではなかったのは良く分かりました。 そして、ソシュールが”心の外にあるかも知れない世界”におけるものの在る無しについて言及しているのではない、とするkobareroさんの解釈は、私も正しいと思います。 そこで問題となってくるのは、シニフィアンの有無によって左右される”心に映った世界”とは、一体、どこの世界なのか、ということなのですが、これは、パロールの世界と言った方が正確でしょう。というのも、心の所在をきちっと定義することは、先に述べました通り、心理学上の方法論的な手続きをちゃんと踏まえねばならず、複雑な議論に陥りかねないからなのです。それゆえ、先は、純粋にパロールの現場として、殺人事件の例を挙げさせていただいたのです。 シニフィエの有無が問題となる世界がパロールの世界であるということを再確認していただくと、日本人にとっては、イヌとタヌキとがいるのに対し、フランス人にとっては、chien しかいないことになる、と言うとき、そのことが一体何を言わんとしているか分かると思います。それは、先の殺人事件の例で上げた通り、人間の行動が言語に強い影響を受けるということなのです。それは、日本人の視野においては、イヌとタヌキとが全然別の動物に見えているのに、フランス人の視野においては、かなり似た動物に見えてくる、などということではありません。 このような誤解は、母語によって虹の色数が違って見える、といった誤解として知られています。(確かブルームフィールドだったと記憶しているのですが、なにぶん昔借りた本なので思い出せませんが)虹の色を表す言葉は、日本語では、7色、英語やフランス語では6色、ネイティヴ・アメリカンの諸言語では、2色ある、ということを比較した研究がありました。しかし、この研究は、虹の色に言及する色の名称の数を研究したものであり、研究対象となった人の視覚映像について研究したものではありません。そうであるにもかかわらず、これが一部で誤解され、まるで人間の知覚を支配するかのような解釈になっているケースがあります。しかし、それは間違いです。 被験者に対し、虹の映像を見せて、あのアーチは何色と何色と何色とで出来ているか、と問えば、その被験者が属するラングの体系に応じたボキャブラリーで色の名称が枚挙されるでしょう。これは、問に対し色の名称を挙げる、というパロールですから、ラングの支配力は大きいものです。しかし、たくさんの種類の絵の具を用意し(ただしそれらの画材には色を表すいかなる言語も使用しない。例えば、赤い絵の具が入ったチューブに、”あか”だとか”red”だとかいったラベルを貼らず絵の具と同じ色の色紙を貼っておく。こうしないと被験者に対し言語の影響を与えてしまうからです)、あのアーチと同じものを描いて見せて、と要求した場合、被験者が色盲などのハンディキャップを負ってでもいないかぎり、殆どの被験者が自らの属するラングに関わりなく、赤から紫のグラデーションをなす色を付けたアーチを描きます。 それゆえ、ラングによって分節化されてはじめてリンゴがリンゴになるというのは、結局の所、パロールの世界、言語が介在した行動の世界の話に過ぎません。先程殺人事件の例を挙げさせていただいたのも、犯人を捜すという捜査官の行動そのものが baby という言葉をどう解釈するか、というパロールの一環だったからです。baby をミスリードしたということは、たまたまそこにいた捜査官の不注意だったのではなく、その不注意そのものが事件の当事者達が英語というラングに属していたからこそ生じえたということに問題があるのです。そして、リンゴという言葉がなくとも、パロール外の世界(kobareroさんの言う”心の外にあるかも知れない世界”)においてリンゴは歴然とあるわけですが、パロールの世界ではリンゴは他の何か類似したものと同じグループに取り込まれ姿を消します。ただし、パロールの世界で姿を消すと言っても、それは、その言葉の欠如が言語を介在した行動に強い影響を持つということであって、人間の視覚から消えてしまうといったようなことではないのです。 ただし、 >この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない と言われるときは、もっと強い意味があるでしょう。ある一個の言葉の欠如によってラングの体系が組み変わるということは、そのラングに属する人間の行動にこれまでとは違った影響を与えるに過ぎませんが、ラングそのものが与えられていないという場合は、パロールの行使そのものが不可能であり、パロールの世界すらありません。これを言い表して、混沌と言うことも出来るでしょうが、解説としては、誤解を生みやすいと思われます。 ソシュールの言わんとすることは、ラングが異なれば、それぞれ異なったパロールの世界が与えられるのであり、パロールの世界が異なると、言語を介在した行動に大きな影響が出る、ということ、そしてそれぞれのラングは、それ自体で完結しており、よその世界からその善し悪しを評価されるものではない、ということになるでしょう。kobareroさんは、何かがパロールの世界に在ったり無かったりする、という比喩的な説明を、字面通りに理解しすぎているのではないかと思われます。それは、人間の心に映ったり映らなかったりするということを言っているのではなく、(くどいようですが)言葉を介在した行動に差異をもたらすということなのです。例えば、日本人に、学校の先生を描きなさい、と命じたとき、男性の先生を描く人もいれば、女性の先生を描く人もいるでしょう。しかし、ドイツ人に Beschreib Lehrer! と命じたとき、女性の先生を描く人はいません。なぜなら、Lehrer は男性名詞であり、女性の教師は Lehrerin だからです。取り立てて女性の教師を表す言葉が日本語に欠けているということは、日本人の心から女性の教師の存在を奪ってしまうのではなく、例えば以上のような、独特の行動として現れるのです。
補足
ご回答ありがとうございました。 例に挙げていただいた虹の話は、大変良く理解でき、そして、全く納得できるものでした。 そして、もし、このような理解がソシュール言語論と矛盾していないのであれば、私は、今回の質問を提示する必要はなかったのだと思います。ただ、実際は、何か基本的な所でソシュールの考えとは違っているのではないかというのが、私の現在の感触です。以下にその説明をしてみたいと思います。 ただ、これを説明するには、fladnugさんが最初に言われた”心に映った世界”とは、一体、どこの世界なのか”がどうしても関係してくるので、もしかすると、混乱の原因になってしまうかも知れませんが、まずは、説明を試みてみます。 第一に言いたいことは、言葉があろうがなかろうが、我々の目の前には、「目に見える具体的な世界」が広がって”見えている”ということ。 第二に言いたいことは、言葉があろうがなかろうが、「目に見えている具体的な世界」には、「輪郭のはっきりした多くの物」が”見えている”ということ。ただし、これには、条件があります。その条件は、人が生まれた後、どこかに監禁されたり、目隠しされたりすることなく、自由に周囲の物と戯れる”経験”を持つということです。 ここで、混乱がないように付け加えておくと、「目に見えている具体的な世界」には、「輪郭のはっきりした多くの物」が”見えている”だけではなく、「輪郭のボケた多くの物」も、また、”見えている”ということです。虹の色の帯などは、その代表例です。 ここで、私の疑問は、ソシュールは第二の点を認めていないのではないかということです。要するに、言語以前に、「輪郭のはっきりした多くの物」が”見えている”ということを否定しているのではないかということです。これは、以下の例からも、推察されます。 「文化のフェティシズム」(丸山圭三郎)P184からの引用です。 失語症患者の周囲の世界は、常人より雑多な色が一面にぬりたくられている状態だという。患者はあらゆる微妙な色のニュアンスをカテゴリー化して<同一性>に括ることができない。彼にとっては、知覚に訴える限りの、その都度レアールなニュアンスの数だけの色が存在することになるのである。まことに、「言語事実を持つ以前は一般観念について語ることは、牛の前に鍬をつける如き転倒である」(断章番号1802) 以上の引用からは、言葉が無い人間の目の前には、「特定の輪郭のない、混沌とした色のモザイク」があるだけであるかのような印象を受けます。 私は、この判断は間違いなのではないかと思っています。すなわち、失語症患者は、言葉を失ったから、「混沌とした色のモザイク」を見るのではなく、「混沌とした色のモザイク」しか見えなくなった(心理的・脳内的障害)から、言葉を失ったのではないかと思うのですが、どうお考えですか?
今回 No.45そしてほかの補足説明されたものを読んで 推測の限りでは 簡単なことで議論が長引くことになったかも知れないということでした。 というのは たしかに心分けの位置づけにかかわっているのではないでしょうか。ソシュールないし丸山は この心分けを 独立させようとは思っていない。(字義どおりには 《何ひとつ分明なものはない》と言う)。批判する(疑問を抱く者の)側としては そこのところを はっきり位置づけるべきだと感じている。 この心分けは 丸山の説明によれば 《シーニュによる分節以前の実質》=《星雲》・《マグマ》 であると言い つづけて ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ イェルムスレウL.Hjelmslevはのちにこれを《メニングmening》とよびました。この術語は英語でpurport フランス語ではsensと訳されますが サンスと言っても既成の《意味》ではなく 意味化以前の未分節にある意識 意味志向である・・・。 (《ソシュールを読む》p.40) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《意識 意味志向》というからには 《心》の問題であるはづです。 もっとも これが分明ではないものであり 少なくとも独立させたくはないということなのでしょう。 《ゲシュタルト》というとき では それがどれほど《分明》なのか 言いかえると 《未分節》というのはどの程度なのか これに帰着するでしょうか。 《動くもの そして柔らかく温かい感触をもつもの》というゲシュタルトは どうでしょう? この場合 《動く・柔らか・温か》は 身分け(ここでは 視覚と触覚)のあとの意識つまり心分けであるわけですが そのように言っているなら すでにじゅうぶん分節しています。では どうなのでしょう? 第二の恣意性についても 同じようなことが言えると思います。 シーニュは シーニュどうしの恣意的な関係――なんら自然のものに基づくことのない互いの差異の関係――によってのみ成り立つ。というのであれば 言分けのためには・つまり人が言語が使用できるようになるには あたかも天からそのシーニュ群が降って来て頭の中に入り込むことでもなければ 無理だという物言いが出て当然だ。・・・ おそらく ソシュールくんたちは そこに欠如していると見える過程つまり 心分けとしてのゲシュタルト生成の問題 これを 不問に付しているのではないでしょうか。 不問に付すということには 二つの側面があるようです。一つには 恣意性として成り立っているというからには その母親からのラングを だれもその主観の違いによって 別様に受け継ぐ気遣いはない。ゆえに 心の問題はかかわっていないと言っているらしい側面。 もう一つには いや確かに シーニュ学習の過程では 実際 そのシーニュないし具体的なパロル(ディスクールと言うべきでしょうか)を受け取るからには 心のはたらきを除外することは出来ない。しかも それ(心の領域を除外していないこと)は 暗黙の前提であるというらしい側面。 ・・・・・・ わたしなら むしろ言分け自体を 大きく心分けとして規定し 大いに主観のはたらきを全面に押し出したいところです。身分けしたことがらを意識したもの これも 含むわけですから その心分けは けっきょく言語行為のすべてを包むかも知れません。
お礼
最後に(E)ですが、(A)で言っていたのとは異なり、再び、ソシュールの信ずるところに戻った感じです。 以上ですが、結局のところ、この種の問題は、言語学と心理学のハザマンに落ち込んで、詳細な検討が未だ進んでいないと言ったところでしょうか。
補足
ご回答ありがとうございました。 >今回 No.45そしてほかの補足説明されたものを読んで 推測の限りでは 簡単なことで議論が長引くことになったかも知れないということでした。 何だか、実りない議論のお付き合いをさせてしまったようで、大変心苦しいです。私の方は、先にご紹介いただいた「身分け」という発想が、私の疑問を解剖する上で、この上ない有効なツールになっており、大変感謝しております。何とか、一定の理解の目途が立つところまで行きたいと、最後のもがきをしているところです。 おっしゃるとおり、「心分け」の位置づけが重要と思います。また、《分明》とか《未分節》とかが具体的にはどういうことなのかがはっきりしないというのも同感するところです。虹の例などから考えると、”共同体内で社会的に同意された”切れ目が入っていないことを《未分節》と言い、また、個人的に勝手にやっている分節があったとしても、それは、共同体で共有されたものではないのだから「言語の対象ではない」ということで不問いに付されるているとも感じられます。おっしゃるとおり、<その母親からのラングを だれもその主観の違いによって 別様に受け継ぐ気遣いはない>のですから、言語的視点からは、問題外の領域ということなのかも知れません。 この当たりになると、どうやら、入門書ではとてもラチが開かないようなので、私も、少し源泉に戻って参照してみました。 (A)もし、さまざまな概念(愛する、見る、家)それ自体を、それを表す記号の表現から切り離して取り上げるならば、これは一連の心理上の対象です。心理学の分野では、これは複雑な単位だと言うことができるでしょう。しかし、言語学上の領域の一部をなすためには、概念は聴覚イメージの価値でなくてはなりません。(「ソシュール一般言語学講義:コンスタンタンのノート」P101) (B)言語記号は、それゆえ、二面性を有する心的実在体であって、図示すれば[シニフィアン/シニフィエの結合図]、この二つの要素はかたくあい結ばれ、あい呼応する。(「ソシュール一般言語学講義(小林英夫訳)」P96) (C)少なくともソスュール、イェルムスレウ、フレーにとっては、所記が記号の一部である以上、意味論は構造言語学の一部であるべきなのに対し、アメリカの機械主義者たちにとっては、所記は言語学から心理学の領分に追いやられるべき資料なのである。(「零度のエクリチュール」ロラン・バルトP132) (D)概念が、言語の価値となる前に人の心の中で決まっているとすると、必然的に、ある言語と別の言語の項が正確に対応していなくてはならないことになります。(「ソシュール一般言語学講義:コンスタンタンのノート」P173) (E)予定観念などというものはなく、言語が現れないうちは、なに一つ分明なものはない。(「ソシュール一般言語学講義(小林英夫訳)」P157) (A)を読むと、ソシュールは、シーニュの一部としての概念(シニフィエ)ではない概念を完全否定しているわけではなく、ただ、言語学の領域から、心理学の領域に追い払っているように見えます。しかし、やや矛盾するように感じるのは、(B)においては、シーニュは「心理的実体」であると言っているわけですから、そうである以上、同じ心の中に、シニフィエである概念とそうでない概念が共存することになり、それらの相互作用を無視するわけにもいかないと思うのですが、そこは、理論的モデルとしては、切り捨てたということでしょうか。 (C)からは、アメリカの機械主義者たちは、シニフィエもそれ以外の概念も共に、心理学分野の対象として考えようとしている様子。すなわち、シニフィアンは、ソシュールの言うシニフィアンではなく、「もの」や「概念」を指し示す独立の「記号」ということになるのかも知れません。私は、どちらかというと、こちらの方が直観的に理解しやすいですが。 ところで、(D)の論法は未だに不可思議です。ソシュールは(D)の記述の後に、フランス語とドイツ語で似たような意味を持つ単語を提示し、それらの意味の守備範囲がぴたっと重なっていない例を挙げて、言語が決定する以前に客観的に分節される「概念」は存在しないことを論証しようとしています。しかし、もともと、フランス人とドイツ人の「心」が世界を同じように分節する必然性はないわけですから、この論理はどうも理解しかねるところです。
お礼
長らくお付き合いいただきありがとうございました。