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南部氏と津軽氏

戦国期の東北と言えば伊達氏のように言われていますが、南部氏について語られる機会は少ないので、調べています。 津軽(大浦)為信の南部氏青森からの独立について。 1・相馬大作事件というのが津軽地方独立に起因している、というのですが、そもそもどんな事件だったのでしょう? 2・現代でも津軽とその他青森地方とは不仲なのでしょうか? 3・南部氏は九戸政実の乱で力を落とし、津軽氏独立の隙を与えたというのは本当なのでしょうか? 誤解している部分があれば正していただきたいのです。お願いします。

みんなの回答

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.5

#3です。すいません、一部間違えてました。「津軽弁」と「青森弁」です。もしかしたら青森と南部(八戸)でも言葉は違うかもしれません。 関東の人間は関西の人は全部大阪弁だと思っていますが、京都と大阪と神戸じゃ発音とか違いますよね。大阪もあのボクシング三兄弟あたりともっとお上品なところじゃまた違いますよね。それと同じだと思います。

hirarno36
質問者

お礼

了解しました。 どちらにしても「一戸」から「九戸」まであるのはなぜなのでしょう(戸とは関のことなのでしょうか???または分家???) 南部方は八戸弁=青森弁と思っていいのでしょうね。 話は飛びましたが、相馬大作事件の砲撃は無かったとの説も見つけました。講談は講談の世界で、いろいろ誇張されていたのでしょうね。調べれば調べるほどに奥深く・・・

  • mouryou
  • ベストアンサー率27% (229/826)
回答No.4

 補足ですが、小説仕立てではありますが「幕末剣豪伝 中沢?夫/著、鱒書房」という本がこの話、因縁の話から相馬大作事件までとても良くかけています。今では絶版のようですが。 相馬大作は下斗米秀之進と名乗っていたのでこのキーワードで検索すると色々わかってくるお思いますよ。

hirarno36
質問者

お礼

回答&ヒントありがとうございました。下斗米秀之進が本名で相馬大作が偽名であることも判りました。 津軽寧親(津軽藩6代目当主)との確執も見つけました。 完全に津軽は八戸(盛岡藩)に敵対して、逆に恨みを買っていますね。 秀之進が講談「みちのく赤穂浪士」や小説になるまで英雄化していたのでビックリです。吉良が津軽寧親に摩り替わっています。 秀之進のその後には処刑説と生存説があるのでいま少し調べてみます。 ありがとうございました。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.3

2.についてのみ。 今でも津軽の人たちと八戸の人たちの仲は悪いようですよ。青森出身の人によると、津軽弁と八戸弁は違うらしくて「相手の言ってることが分からない」こともあるそうです。八戸の人いわく津軽の人は「腹黒い」津軽の人いわく八戸の人は「意地汚い」だそうです。 意外に青森って細かい地元意識が強いんですよ。青森は「NeBUta(ねぶた)」で弘前は「NePUta(ねぷた)」五所川原だと立佞武多ですからね。ごっちゃにすると地元の人に怒られます。 一見人の良さそうな東北人も実は細かい地元意識がありまして、後輩の山形人にいわせると、同じ山形でも庄内地方は「敵」なんだそうです。遡ると戦国時代の対立(上杉と武田、みたいな)が出てきたりするので面白いですよ。

hirarno36
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私は歴史(と言っても日本史好きなだけでさほど知識はありませんが) は「地理(天候によるもの・人工によるもの)」「郷土史」「人物史」の3つの要素で変化しうるものであると考えています。 その点、戦国時代という「攪拌期」は非常に興味深いです。 「南部」「津軽」のタイトルに食いついていただいて(笑)ありがとうございます。 「郷土史」的回答いただきました。為信の時代にはすでに仲が悪かったので独立した訳ですから、もっと以前から仲が悪かったわけでしょうね。 私は関西人なので東北弁の違いが判らないので、たぶん地元の方がきいたらお叱りをうけるでしょうが、ずっと「ねぶた」が間違いで「ねぷた」が正解なのかなぁ、って思っていました(漠然と)。「津軽弁」は聞いたことがありますが、「八戸弁」は初耳でした。 <相手の言っていることが判らないぐらい・・・そうなんですか。仲が悪いと方言からして隠された意図を感じてしまいます。 興味深いお話、ありがとうございました。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.2

1・2は#1さまの通りとして 3)九戸政実の乱より前、北条攻めの際に津軽氏は南部氏に先んじて参陣したせいで、津軽氏の独立は秀吉によって認められました。そのため、津軽と同盟していたはずの九戸氏は津軽から見捨てられました。

hirarno36
質問者

お礼

3・津軽氏も南部右京之介を名乗っていたので、南部一族だった。九戸氏はいわゆる抜け駆けされたと見ていいのでしょうか。 やはり、この為信という人物よっぽど南部支配が嫌だったのでしょうね。しかし相次ぐ離反を見ていると南部家は弱体化していたのでしょうね。 回答ありがとうございました。

  • mouryou
  • ベストアンサー率27% (229/826)
回答No.1

1南部候と津軽候は幕府での席次が違いましたが、津軽候の運動で南部候より席次が上になりそうになりました。臣下筋の分際でと南部藩は悲憤しました。そんななかで平山行蔵の弟子だった相馬大作が津軽候の大名行列を大砲で狙い撃ちする事件がありました。そのとき津軽候は計画を察知し幕府届出のコースと違う道をたどりました。なので命は無事でありましたが勝手に参勤交代のコースを変えたことがわかると最悪おとりつぶしになるので、表ざたにすることも出来ずにいた。といった経過をたどります。物語はしばらく続きますがネタばれになるのでこの辺で。 2現在でも不仲であると聞いたことがあります。 3そうです。そのあと津軽が秀吉に取り入って先に本領安堵を受けました。そのとき以来不仲は続いているわけです。

hirarno36
質問者

お礼

回答ありがとうございました。幕府、と言うことは江戸時代の話なのですね。そのころまで南部藩は津軽藩を臣下(格下)と見ていたと言うことなんですね。 1・<最悪おとりつぶしになるので、表ざたにすることも出来ずにいた その後どうなったのか気になります。 2・やはりいろんな因果というか、遺恨はのこるのでしょうね。 3・九戸氏が起因しているのは間違いないのですね。間違ってはいなかったので安堵しています。 回答ありがとうございました。