この質問の例文での限定された意味での「文学的」という表現の説明を答えます。一般的にというと、話が難しくなります。一般論だと、例えば、プラトンの対話編は、哲学書か文学書かよく分からないとか、宗教は文学的に表現されていることが多いなど、境界が曖昧になって、説明が難しくなります。
>「…たとえば<なぜ人は生まれるのか>と言う問いかけに対する<根拠>は、その発問者の求めるところに応じて、生物学的にも哲学的にも宗教的にも文学的にも、さらに童話的にさえ回答可能であり…」
これは、「人が生まれる根拠」という問題です。
生物学的:精子と卵子が結合し、受胎が起こると、胎児となり、やがて人として生まれる。生物は、自己の複製を作る機能・目的性を持っており、人間の場合に、この複製機能は、受精・受胎そして出産という過程で、実現し、これが人が生まれてくる根拠である。
哲学的:イデアー界に人の魂は故郷を持っており、そこより、何かの使命を果たすため、地上の肉体に魂が入り、これが人の誕生である。人の持つ「使命」とは、形而上的なものである。
宗教的:世界の一切は因縁で結ばれており、子供が生まれ来ることも、縁起の法に従っている。縁起の根拠のない場合、幾ら、子供を作ろうと夫婦で試みても、子は生まれない。しかし、縁のあるところ、子供は、宇宙の縁起の理に従って生まれて来る(仏教)。
神は、人間に、「生めよ、増やせよ」と命じた。神自身が、この言葉に縛られており、アダムの子孫は、こうして、神が個人の霊魂を創造し、男女の結合で胎児が構成されたとき、この胎児のなかに霊魂を挿入するのであり、こうして、人は生まれてくる(キリスト教)。
文学的:実は、あの子は、いまの夫の子ではないのです。夫は、自分の子だと信じているようですが、わたしには、夫以外に、昔から好きな人がおり、あの日、どういう運命の決まりか、わたしは過ちを犯してしまったのです。そしてAが生まれたのです。いえ、過ちを犯したのは、わたしの意志だったのです。わたしは、どうしても、あの人の子がほしかったのです。……これはAという子供が生まれた根拠の文学的説明になっているのです。あまり適当な例文でありませんが。
あるいは:何故、人は生まれるのか。それは、人と人のあいだには常に「愛」があるからだと云える。「愛の欠如故」に、生まれる不幸な子供もいる。あるいは愛の反対の憎しみが子供を生むこともある。しかし、これらは、人間の「愛」がすべて関係して、人はこの世に生まれて来るということの証なのだ。
童話的:赤ちゃんはなぜ生まれてくるのか。それは、子供がほしいと、おとうさん・おかあさんが願っていると、天国の上様が願いを聞き、こうの鳥に命じて、赤ちゃんを、地上に運ばせ、おかあさん・おとうさんの元へと運ぶのです。だから、子供が生まれてくるのです。……(こうの鳥は、天国の使いなので、赤ちゃんを運んでいる姿は、誰にも見えないのです。おとうさん・おかあさんだけには見えるのですが、赤ちゃんを受け取ると、忘れるようになっているのです)。
こういう感じです。「文学的」というのは、非常にヴァリエーションが広く、個別的な、子供が生まれてくる根拠と、一般的な根拠で、説明が違うでしょう。上は、個別的と一般的について、例文を作っています。
生物学的説明は、科学的な誕生のプロセスを説明します。それは、生命の発生についての仮説でも同様です。「根拠」ではなく、「過程」を科学は述べるのです。
哲学的説明は、哲学的世界観に従い、人間が生まれる根拠について、人間の存在とは何かというような、哲学的展望から、その回答を行うのです。
宗教的説明は、宗教の教義に従い、人間の存在の根拠や、誕生の意味を述べ、生まれてくる理由を述べると云えます。
文学的説明は、哲学のように知性に訴えたり、宗教のように信仰に訴えるのではなく、感情に訴えるとも云えます。何らかの構想で、修飾や技巧や、文体や話の魅力で説明し、それで読者が感銘を受ける、感情的に受け入れ納得するという効果で、答えを述べるのです。
童話的説明は、以上の四つのどれでもよく、子供にも理解できるたとえ話的な説明で、宗教が背景にあることもあれば、哲学的洞察を示していることもあれば、文学的感銘があることもあり、ただ、簡単には、「たとえ話」ということです。
お礼
丁寧な回答ありがとうございます。 asterさんの回答は、毎回僕の創造する範囲を超えていてとても興味深いです。 すべての例はとりあえず、文を表現するための例えですよね。 それとも、哲学の場合イデアの説は定説となっているのでしょうか?