• 締切済み

私はどこにいるのですか?

抽象的な話ですがお付き合い下さい。 いま、「私」はどこにいるのか、ということを考えています。 よろしければ皆さんの意見を聞かせてください。 「私」と書きましたが、ここでは「私を私たらしめているもの」、あるいは、「私」という特定の人物の固有の「命」「魂」「自我」のようなものです。 例えば… 「私が『私は私だ』と思うのは脳内での出来事だから、『私』の根拠は脳である」 と考えると、脳死した私は私ではないことになります。 「生物の固有性は生命活動そのものだ」 と考えると、私は死んだら私ではなくなることになります。 正解のある質問ではないと思ったので、こちらのカテゴリにて質問させていただきました。 改めてお聞きします。 「私」はどこにいるのでしょう。 心臓ですか? 脳ですか? 社会ですか? イデア界ですか? それとも……? 忌憚のない自由なご意見が聞ければと思ってます。 引用する場合は出典を、 宗教的な回答の場合は差し支えなければ宗派などを、 併記していただけると参考になり、助かります。 よろしくお願い致します。

みんなの回答

  • dell_OK
  • ベストアンサー率13% (776/5747)
回答No.13

ANo.9です。 私の回答がもめごとの発端になりかけてしまったようで、 少々心配になってしまいました。 ANo.12でご回答のAMX005様のご意見を読ませていただいて、 なるほどそのような考え方もあるのだと、少しわかりました。 人様のお考えがわかると言うのは、 とてもうれしい気持ちになります。 とは言え、私の回答が変わるわけではありません。 私が何の考えもなく回答した「私」は、 ANo.12にある4つのどれにもあてはまりそうにありません。 それは見方の違う性質のものですから当然の事です。 改めて少し考えてみましたが、 私には「『私』にとっての【私】」と言う風に、 「私」を別々に考える事ができません。 AMX005様のご意見に反論しているのではなくて、 提出された考え方について、私なりに考えた事を申してみます。 もし、他人が知っている私を私として考えた場合、 その他人が私の事をこうこうこれこれだと思っていて、 それが私の思っている私と違えば、 「私はそんな人間ではない」と否定します。 この違うかも知れない「私」の存在を私は認めません。 誰でもが「それは私ではない」と言うと思います。 でなければ「そうなのかも知れない」と思い直すのは、 本来の自分が知らなかった自分に、 たったその時から自分がなってしまうと言う、 私にとっては危険な事態になってしまいます。 それは自分では気づいていなかった自分の新しい面を知る事ができた、 で済むのならそれでかまいません。 見えるような例えなら、 いつも、あるいは、時々、頭の後ろの髪に寝癖があり、 それは本人ではよく見えない部分だけど、 まわりの人にはよく見えている部分です。 「頭の後ろの髪に寝癖がある」のは私ですし、 それを私は知らなかっただけの事です。 これは私に他なりません。 また、同様に、体の中に見えないくらい小さな腫瘍があったとします。 これは、自分も知りませんし、他人も知りません。 けれども、この腫瘍を含めて、それは自分なのです。 加えて、まだ知らない自分とは、 例えば「大金持ちになった未来の自分」など、 仮にそうなったとしても、 明らかにわかっていない自分は自分ではないと思います。 同時に、未来に知る自分を自分だとも思います。 他人が知っている自分も、他人も自分も知らない自分も、ひとつの自分なのです。 私はこれらを別々にしては考えられないのです。 心も体もひとつで一緒に存在しているそれが私なのだと思います。 たぶん「モヤモヤ」されていた質問者様そのものが「私」なのだと思います。 私が哲学や心理学などを学べば、他の回答をしたかも知れません。 それらを学んでいない私が私で、その私として回答させていただきました。

fugrin
質問者

お礼

二度目の投稿ありがとうございます。 全く揉め事と感じなかった私が鈍感なのでしょうか……いずれにしてもご心配は無用ですよ^^。お気遣いありがとうございます。 内容についてですが…… 自分がどう思っていようと、他人がどう考えていようと、物理的な事実として「私」は存在してる。その存在が「私」である、ということですよね(たぶん…)。 私はこの考え方は実に誠実で真っ当だと思います。 例えば、私が今年の2月に死んでいたとして、友人のBさんがその事を知らず、3月になっても私が生きていると思っているとする。そこで「Bさんが知っている私も私だ」と規定してしまうと、私はまだ生きていることになってしまいます。 これはおかしいような気がします。 もっとも「その通り、生きているのだ」という考え方もあると思いますが、混乱の元であることは確かです。 最後の二行は、考えさせられました。 どんな知識を得ても得なくても、どんな考え方をしてもしなくても、「私」は「私」です。 でも、それによって「私」の捉え方が変わってくるんですよね。

  • AMX005
  • ベストアンサー率28% (45/156)
回答No.12

こんばんは。ANo.6です。 ANo.9様宛のお礼文を拝読し、 「あれっ?? >4番の方の回答を読んだときに思ったのですが、(以下略) とあるが、この話の流れだと・・・・私っ!?(´;ω;`)」 と思ったので、再度お邪魔します。 もし、私の事であるなら、お礼文に「???」と書いて下されば良かったのにぃ!! >「私」というのはそれほど安定していないのかも知れませんね。 質問者様の解釈に 「おぉ!!私の拙い文章から、私ですら曖昧にしか書けなかった回答を こんな風に読み取って下さるとは!!」 と感動していたのに残念です。。。(決して批判ではありませんm(__)m)。 私の言いたかったのは、心理学からのアプローチ、 1、自分も他人も知っている「第1の私」 2、自分だけ知っていて他人は知らない「第2の私」 3、自分は知らないが他人には知られている「第3の私」 4、自分も他人もだれもまだ知らない「第4の私」 からの見解です。 4つの『私』が、どれも『私』であるなら、4分割して1番比率の高い『私』を考え、 私は私の体の一部(手、足、腹部等)しか肉眼で見た事が無いが、 他人は私を肉眼で見ることが出来る。 もしかして、私が『私』だと言うモノよりも、他人のいう『私』の方が正しいのでは?? となった次第で御座います。 これまた今回も乱文にて、質問者様に「思う処」が上手く伝わるのか心配ですが・・・・ まぁこんな感じです(^^ゞ。

fugrin
質問者

お礼

どうも、お察しの通り4ではなく6の間違いでした。 それに曖昧な書き方をしてなにやら誤解を招いてしまったようです。すみません…。 実は私もNo.6を拝読したとき、まさにその「4つの私」をイメージしていたのですよ。ですのでこうして補足していただいてよりすっきりしました^^。 件の箇所で「モヤモヤ」と書いたのは、「私」をどう捉えればいいか、という点でモヤモヤしているという意味でして、NO.10へのお礼に書いたところでいうと、「私」を【私】と考えればAMX005様のお話が的確に響いてくるのですが、『私』になると、たぶん、「4つの私」のうちのどれでもないと思うのです。

回答No.11

へぇ。 いわゆる「私」という概念が、単一の物と誤解したために、なんらかの困惑を感じているようですね。 貴方の言う「私」には大きく分けて二種類あります。 他者(人でもものでもよい)と、自己を区別するための「私」 そして、自己の体内で「私」を統括していると考えられる部位としての「私」 前者の考え方は明らかで、ただ単に区別するだけの標識となります。 後者の場合は、自己を統括している物が、特定の部位、心臓や脳のどこなのか、という問題が判別できない為に迷っているようですね。 脳死の場合は、脳死した人間は自己と他を区別する能力がなくなっています。そのため、他者のみが、脳死した人を区別する事が出来ます。 心肺停止の場合は、やはり同様です。 究極的に言えば、「私」は、肉体全体そのものです。その一部分が残っていても、他者は、その人を区別できます。 「私は死んだら私ではなくなることになります。」という考えは非常に正しいものです。なぜなら貴方がいなくなれば、貴方が自分だと認識する人間はいない訳ですから。貴方と他人を区別するのは、第三者だけに出来る事です。 「私」とは、他者と自己を区別する事から生じます。自己の体内でさらに区別しようとすると混乱する訳なんですね。

fugrin
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 尤もこの質問はアンケートなのでとくに私が困ったり迷ったりしているわけではないのですが^^。 この質問を投稿した動機の根底には、「私の肉体、もしくは意識こそが私だ、と考えてしまえば話は簡単だが、はたしてそう断言していいものだろうか」という疑問があります。 更に言えば、肉体や意識が死んでも、「私」は死なないのではないか、ということです。「私」の領域を広げたいわけです。 ちなみにみなさんの回答を拝見しますと、大きく、他者との比較における「私」について回答してくださる方と、主体としての「私」について回答して下さる方に分けられると思いますが、どちらも参考になり、興味深く読ませていただきました。

  • markx01
  • ベストアンサー率20% (12/59)
回答No.10

難攻不落な強力敵要塞を一人で攻め落とすくらい 難しい質問ですが、はっと<何か>が見えたので回答させて頂きます。 それをそれと認める事ができるのは目視による【感覚】であり 脳による認証と認定です。 しかし自分が自分であると認める事ができるのは 魂以外にはあり得ないものと思います。  身体の存在は目視による想像認証ですから 当然他人から見られているイメージは自分が自分を イメージしたものとは必ず違います。 しかし魂は見えないのですから、魂所有者にしか 魂のイメージが出来ないですよね。 魂はサーモグラフィーでも目視でも捉えられない 【想像】の象徴なのでしょうか? 一般論で、人間が死ぬと魂重量35g (数値は正確ではないかもしれません)が必ず減るといわれています。 それがまさに魂の存在。死による重量減少は医学的に 認められていますが、何が減っていっるのか医学的には 立証できないと言われています。 魂が存在している場所、まさにそこが質問者様の いる場所かと思います。 私(の魂)はココにいます。ですが死によって魂が身体から抜けたとき 私が使用していた身体は抜け殻となるのです。 自分がイメージした【私はどこにいるのですか?】 駄文でわかりにくいかもしれませんが 一生懸命書きました(´;ω;`) ちなみに宗教に興味はありませんので あくまでも個人意見です。

fugrin
質問者

お礼

ありがとうございます。 死ぬと魂のぶん体重が減る、というのはもっとオカルト的な話かと思っていましたが、医学的にも認められているんですね。 魂 思ったのですが、例えば「私にとっての私」という文に出てくる二つの「私」を、 「『私』にとっての【私】」 とすると、『私』のほうが魂とか、他の回答者様の言葉を借りると意識とか、そういうものかもしれません。私が死んだら『私』はいなくなる、それでも完全に私がいなくなるような気がしないのは【私】のほうがまだ残っているからではないでしょうか。

  • dell_OK
  • ベストアンサー率13% (776/5747)
回答No.9

難しいご質問で悩んでしまいました。 哲学的な事はよくわからないのでお答えできそうにありません。 悩む前に思ったのは、 「私の家の私の部屋の私の机の私のパソコンの前に座っている」でした。 広く言うと「この銀河系のこの太陽系のこの地球の私の家の私の部屋の私の机の私のパソコンの前に座っている」です。 私が生まれた時からずっと私は私のいるところにいます。 ダウンしてしまったら、多分火葬されてお墓に入ると思いますので、そこにいると思います。 その骨もいっさいが消滅してしまったら私はいなくなります。 撮影した写真に写っている私は、あれは私ではありません。 私以外の人が覚えている私も、あれは私ではありません。 他のどこを探しても私はいません。 まとめると、今、あるいは、こののちも、 「ここにいる私がいるここにいます」です。

fugrin
質問者

お礼

ありがとうございます。 「そこにわたしはいません」……なんていう歌が流行りましたけどね(これは冗談です)。 >私以外の人が覚えている私も、あれは私ではありません。 4番の方の回答を読んだときに思ったのですが、この部分が本当に正しいのか、というところがモヤモヤしています。 つまり、「私」は私だけのものか、ということです。

  • coco1701
  • ベストアンサー率51% (5323/10244)
回答No.8

「私」はどこにいるのでしょう 私自身を意識、感ずる事が出来る、意識の中、または意識そのもの 五感がなくとも(脳が活動している限り)、意識は存在する(外界からの情報が皆無になっても) 脳に損傷を受けて、意識は存在するのか・・・疑問? 脳内のパルス信号のやり取りの中に、意識が存在するのではと、思っています 脳が機能停止すれば、パルスは止まり、意識は無になる 私の存在は消える、それすらも知る事はない、瞬間に私は存在しなくなる(意識を感じた時からの全てが消え失せてしまう・・存在しなかった様に)

fugrin
質問者

お礼

どうもありがとうございます。常識的に考えれば、そういうことになるのでしょうね。意識=「私」。 皆さんの回答を読んでいて思ったのですが、 >意識を感じた時からの全てが消え失せてしまう・・存在しなかった様に 私はこの部分に何か重大な見落としがあるのではないかと思っているようです。自分でもはっきりとは分かりませんが……

  • bunbun001
  • ベストアンサー率27% (71/254)
回答No.7

時間の中。 哲学、楽しいね。 哲学カテなんてあるんだ。いってみよ。

fugrin
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 出ましたね、時間……。否定のしようがありません。

  • AMX005
  • ベストアンサー率28% (45/156)
回答No.6

はじめまして。こんにちは。 私の『私』は、『他人の中』にあるのかなぁ・・・・なんて気がします。 いくら「私は信用に値しない人間なので近寄るな。」と言っても近寄られるし、 逆に良かれと思ってした事が、酷い悪意と取られてしまったり・・・・。 私が死んでも、『他人の中』の『私』は『記憶』として留まる。 それを否定する術が無いのなら、尚更『他人の中』の『記憶』が『私』になってしまう。 そんな気がします・・・・ (回答になってるでしょうか・・・・?朝から答える”質問”では無かった・・・反省。)

fugrin
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 拝読して「自分も含めたみんな」の中に「私」は存在するのかも知れないと、ちょっと思いました。「私」というのはそれほど安定していないのかも知れませんね。

回答No.5

インド ヨーガの哲学では、「あなたは心と体を包括して存在します」  心と体を包括する主人(本体)が自分であって   宗教的な用語で言うと「魂」にあたります。  したがって、あなたの心と体を操っている、そのものがあなた本体です。   自分の心と心を戦わせると煩悶(悩み)が始まります。    (欲求心と自制心、などのように・・・そこは、本体が采配を振る)   自分の体と体を戦わせると痛いと心を通じて自分に知らせてきます。限界を超えると怪我し、そして一部の体の機能が失われることもあります              そして、その自分(本体)なるものは、天(宇宙)のエネルギーを受けて、心と体を得て生命体として4次元の世界に現れたもので、  自分本体は創造主の一部分であって輪廻する。    今風のスピリチュアルな哲学のほとんどはここに帰結しています。  余談ですが・・  幽体離脱で出来る人は・・心をつれて体から分離する。  悟りの極意には・・ 心を離れて体だけの存在になるというのもあります。  この辺、大分科学されてきています。http://www.aqu-aca.com/

fugrin
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 > 幽体離脱出来る人は・・心をつれて体から分離する。 > 悟りの極意には・・ 心を離れて体だけの存在になる 心と体をさっ引いてもまだ「自分」が残る、とは興味深いですね。

  • isatake
  • ベストアンサー率17% (88/512)
回答No.4

有限な存在でありながら無限の精神を持つ私たちは、ひたすら苦悩し、 そして歓喜するために生まれてきた。  byルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン

fugrin
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 精神が無限だとすれば、「私」は生まれる前から「私」なのかも知れませんね。さすがベートーベンです。

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