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疑わないときは信じているときなのか?
明日が雨になることを疑うことをせず、明日が晴れになることを疑うことをしないときというのは、明日が雨であることも、晴れであることも信じていることになってしまうのでしょうか? 信じているというものについて混乱してしまいました。どうか、ご教授ください。
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すでに、良い回答が多数有り、無用の回答ですが。 1)疑わないときは信じているときなのか? 疑わないとか信じるといったことは、意識の有る状態です、意識の場合常に一つしかなく、ある状態の次に他の状態になったことを、同時と勘違いすることがあります、質問の内容は微妙ですが、意識における見方や立場が時間の経過で少しずれている、と考えることも出来ます。 本文では特に、精神の状態という、見えないものを、視覚的に取り出した、偽りの問題です。 2)疑わないときは信じているときなのか? 人の思考は、考えるほどに論理的なものではありません、一つの精神状態に、一つの言語表現しかないという事はなく、対象と記号の関係は、複数対複数の関係で、その中で一番、もっともらしい選択が常識的判断といえるでしょう。 3)疑わないときは信じているのか? 明日が晴れると疑わない、というのは、自然の移行に関する意識の表明というより、ある種の予測・推測する主体に対する、信頼・疑問の意識表明ではないでしょうか、例えば、明日晴れて欲しい人が、明日晴れると信じる場合、天気の予報ではなく自分の運を信じています、ここはまったくの主観的盲信ですが、意識が少し間主観的に移行したとき、自分の運を疑わない、といった精神状態に移行し、あたかも、疑わないことと、信じていることが、同時に存在するような錯覚に陥るのです。 以上、あれこれ詭弁を考えてみました。
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- tenntennsevengoo
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どっちでも良いということなんじゃないでしょうか?
お礼
確かにそうなんですが、どっちども良いと思っても、疑問に思ってしまいまして、なんとかどっちでも良いと思える程度まで、持って行きたいと思います。 ご回答ありがとうございました。
- sirooni
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命題で考えれば 疑っている⇒信じていない ・・・(1) が真だとすると、そこから成り立つのは 信じている⇒疑っていない ・・・(2) だけだと思います その他の 疑っていない⇒信じている ・・・(3) 信じていない⇒疑っている ・・・(4) は成り立つとは限りません これは逆、裏、対偶の良くある間違いらしいです。 逆、裏、対偶、命題などのキーワードで検索するとそこそこ出てきますよ。 ちなみに(3)が裏で、(4)が逆です。
お礼
確かに必要十分条件が満たされていなかったですね。それにしても、きれいな論理的回答をして下さいましてありがとうございます。とても役に立ちました。感謝します。
哲学の概念を日常に持ち込むと確かに混乱いたしますね。 例えば、明日お日様が昇る。 目の前を猛スピードで通り過ぎる自動車。 このお日様とか自動車の存在をお疑いになられますか? (spitzer3様は自動車にお飛び込みになられますか? もし疑いようがないと思われるのでしたら、この疑い難さを哲学のある部門では「信念」と呼びます。 だから、>疑わないときは信じているときなのか? まさか明日雪がふるとはお思いにならないでしょう。 晴れか雨か曇りかそのいずれかだろう(そのいずれかになるであろうという信念)くらいの意識しかないわけです。 日常で使う信じるとは違う意味を持ちますのでお気をつけください。
お礼
>もし疑いようがないと思われるのでしたら、この疑い難さを哲学のある部門では「信念」と呼びます。 常で使う信じるとは違う意味を持ちますのでお気をつけください。 確かに日常で使う信じるというのとは違うというのが実感できました。これからも、哲学的な言葉の使い方を学んで行きたいと思います。 ご回答ありがとうございました。
#3です。たびたびすみません。 信じているというもの・状態は、やはり結果が見えない状況には違いないと思うんです。 それで、対象にもよるのでしょうが、永遠に結果が見えないもの・こともあるとは思います。 また、実際の状況とは別に、ある結果を強く希望してしまうような場合もあるのではないでしょうか? いずれにしても結果が気になる場合には、かなり不安定な状況になるのではないかと思います。 信じたい、信じている・・・といっても冷静になれば、どこか否定的なものが見え隠れし、100%ではなくきちんと考えれば?否定的な部分を抱えてる。という感じではないでしょうか? ただ、結果はおいといても(最高の結果が出るということにはならなくとも)、信じること?信じてみること?から良い展開が生まれるようなこともあるような気がします。 (いっぱいいっぱいです) 失礼しました。
お礼
>信じたい、信じている・・・といっても冷静になれば、どこか否定的なものが見え隠れし、100%ではなくきちんと考えれば?否定的な部分を抱えてる。 確かに言葉ではそう言っていても、信じていないときもあるかもしれませんね。しかし、本当に信じていなくても、信じていると信じることで、好転するということですか。 分かりました。 ご回答ありがとうございました。
- nabayosh
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何かを「信じる」という場合、信じるか信じないかの選択肢があって、そのうちの「信じる」という選択肢を選ぶことです。 つまり、人が何かを「信じる」とき、それを「信じない」ことを選択することもできるはずです。 「疑う」を「信じない」とまったくの同義として見なしましょう。 そうすると、このようなことがわかります。 ・信じることができることは疑うこともできる。 ・疑うことができることは信じることもできる。 ・疑いようのないことは信じようもない。 ・信じられないことは疑う余地がない。 しかし、日々の生活の中で、「疑いようのないことだけを信じるのだ」とか「信じられない=疑わしい」だという風に考えている人を圧倒的に多く見かけます。 さて、<信じる/信じない>の選択肢が出されてはじめて、私たちは信じるか信じないかの態度を決定するわけです。 ご質問の状況においては、選択肢は出ているが、選択していない状態です。 可能性としてはどちらも起こりうると考えている、判断を決めかねているような状態です。 判断の前に置かれているので、疑うも信じるもない状態であると言えます。 しかしこれを世間では<半信半疑>などと言ったりするわけですが。
お礼
>判断の前に置かれているので、疑うも信じるもない状態であると言えます。 確かに、判断をしていなければ、無関心ということになるんですね。分かりました。ご回答ありがとうございます。
- mijinco
- ベストアンサー率25% (87/346)
とてもおもしろい(失礼な表現ですが)ご質問だと思いました。 「疑うことをしない」というのは、疑う信じるについての判断を保留しているとか考えていないという場合もありますよね。 ですので、 「雨であることも晴れであることも」判断していない、判断という表現が適切でなければ、信じる疑うということに関心がない状況もあると思います。 この場合は、どちらも信じているとは言えないと思います。 信じる、というのはある面から見れば積極的なことだと思います。
お礼
>「雨であることも晴れであることも」判断していない、判断という表現が適切でなければ、信じる疑うということに関心がない状況もあると思います。 この場合は、どちらも信じているとは言えないと思います。 確かにおっしゃるとおりだと思います。そのまえに何も言っていなければ、関心がない状況であると分かりました。 ご回答ありがとうございます。
- dai-ym
- ベストアンサー率22% (848/3824)
ANo.5です。 >言葉を受け入れ、疑いを持っていないときは とはしたの「夕焼けが真っ赤だから明日は晴れだ」を受け入れるって言う意味でしょうか。この言葉を受け入れて疑わないって事は信じていることでしょう。 無関心は受け入れもしていない、何の感想も持っていないときですね。 誰かが「俺は・・・をやる」と言ったときに無関心は出来る出来ないを考えない事ですね。「そんなのどっちでもいいやと。」と思うことですね。
お礼
>無関心は受け入れもしていない、何の感想も持っていないときですね。 誰かが「俺は・・・をやる」と言ったときに無関心は出来る出来ないを考えない事ですね。「そんなのどっちでもいいやと。」と思うことですね。 こういうのが無関心であるということが分かり助かりました。ご回答ありがとうございます。
- dai-ym
- ベストアンサー率22% (848/3824)
前にも書きましたが信じる行為のために疑い、逆に言えば疑う行為のために信じる。表裏一体というよりも、切り離せないもの。 雨が振ることを信じていることも、見る角度を変えれば晴れることを疑っている。 疑う、信じるの反対のことは無関心でしょう。 例で言うと、関心を持ってないから雨になることも晴れることも疑ってないし、信じてもいない。 無関心だから考えもしないんです。
補足
>例で言うと、関心を持ってないから雨になることも晴れることも疑ってないし、信じてもいない。 無関心だから考えもしないんです。 信じているときというのある言葉を受け入れていることだと思うのですが、言葉を受け入れ、疑いを持っていないときは、何も関心を持っていないのではないでしょうか? そうすると、無関心も信じているときの内に入る気がするのですが。
- ANASTASIAK
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迷信という信じる行為を言っているわけです。 夕焼けが真っ赤だから明日は晴れだ、と疑わないことは 過去の経験則からの確信です。科学的な根拠の上に立った ものではないわけで。 この信じるということは、マタイの聖書の中でイエスが サドカイ派やファイリサイ派に向けて説明しています。
補足
>夕焼けが真っ赤だから明日は晴れだ、と疑わないことは 過去の経験則からの確信です。 夕焼けが真っ赤だから明日は晴れだということを疑っていないとき、夕焼けが真っ赤だから明日は晴れではないということを疑っていないときもあるのではないでしょうか? そうすると、いったいどっちを信じていることになってしまうのでしょうか?
私も#1さんに近いものを感じます。 信じるとかは、その時点では見えない結果についてでしょうから、 自分で結果が左右できないことについては、半々くらいに思って、 時間とともに実際の状況の変化や、気持ちの上での揺れを感じつつ、 推移していくようなことが・・・なんとなく自然な感じがしますが・・・?
補足
>信じるとかは、その時点では見えない結果についてでしょうから、 確かに言葉を発したときには、信じているかどうかは分かりませんね。そこでなんですが、その信じているという状態の結果というものはどういう状態のことを言うのでしょうか?
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お礼
>疑わないとか信じるといったことは、意識の有る状態です、意識の場合常に一つしかなく、ある状態の次に他の状態になったことを、同時と勘違いすることがあります、質問の内容は微妙ですが、意識における見方や立場が時間の経過で少しずれている、と考えることも出来ます。 自分の問題はまさにこれでして、なぜか同時であると思ってしまいました。たぶん、言葉による区切りを間違ってしまったのでしょう。 ご回答ありがとうございました。