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世代間の負の遺産
私は懐疑的なのですが、親子間で心理的不の遺産が相続されてしまうというのがあります。例えばアダルトチルドレン(これがなぜアルコール問題の用語になっているかわかりませんが)などで、そういう子供に対する傷つける傾向を相続してしまうといいますが、そんなことが普通の人間にありえるでしょうか?普通は「こんな親だったから、おれは違った親になる」という意思でもって、簡単に抜けられるものじゃないでしょうか。そんなにも「無意識」なるものの影響力は大きいでしょうか。大きいとすれば現実の所得の問題とか、より経済的社会的問題によってでないでしょうか? そこのところが、納得行かないのです。無意識の偉大さを説明していただければと思います。
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- hakobulu
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絶対的な弱者として扶養された時代にキャパシティを超えた強制力を蒙った記憶が、それを負ではなく正の遺産として無意識を醸成せざるを得ないからではないかという気がします。 目的は自己アイデンティティの保護でしょうか。 変なたとえですが、鳥は目を開けて最初に見たものを親だと思うという話があります。 人間も自分が愛され庇護されるべきものから受けた仕打ちを、それが何であれ愛情と錯覚してしまうような気がします。 親というのはこういうものだ、という不合理な思い込みを解除し、自らの生を理不尽に歪めた相手として対峙することによって初めて、客観的な真理を得ることができます。 真理を知るということは実質的な自立が可能になる時でもあるでしょう。 自立が獲得されれば、許し、さらに感謝という主体性に基づく感情も芽生える土壌ができるしょう。 ただ、この真理は感得される必要があります。 >普通は「こんな親だったから、おれは違った親になる」という意思でもって、簡単に抜けられるものじゃないでしょうか :意識的にはそうですね。 しかし、それで抜けられる程度であれば「こんな」というほど「こんな」ではなかったということになるのではないかな、という気はしますね。 「あういう形態ではあったが私は確かに愛されていたはずだ」という無意識による不合理な思い込みを必要とするほどの記憶を抱える人が問題なのでしょう。 それだからこそ対峙によってはっきりさせることが必要になるわけです。 たとえば虐待する時の親の無意識は、おそらく「私はこんなにお前を愛している。私の親が私をこうやって愛したように。」といったところではないか、と推測します。 しかし、親の愛情というものは独善的な要素を払拭しきれないものでしょうから、多かれ少なかれこのような形態を取らざるを得ないだろうと考えます。 アダルトチルドレンにしろ、特殊な状況ではなく程度の問題だという解釈を私はしています。