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幕府の滅亡について
幕府の滅亡のところで分からないことがいくつかあります。初歩的な質問ですみませんが、ご回答よろしくお願いします。 1)大政奉還とは誰のどのような政策だったのか、また大政奉還を行った意味は。 2)王政復古の大号令とはどのような誰が何に対して行ったのか。その 中身・意義は? 以上です。よろしくお願いします。
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1)大政奉還・・・、江戸時代末期の1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)に、江戸幕府第十五代征夷大将軍徳川慶喜が、大政(統治権)の朝廷(天皇)に対する返上を申し出た政治的事件。大政奉還によりその後の朝廷の下の新政権も徳川家中心のものになることが当然予想された。しかし倒幕派は新体制では将軍はもちろんのこと、摂政・関白その他従来の役職を廃止して朝廷から親徳川派を排除し、倒幕派中心の体制にしたかった為に天皇をかつぎ、徳川の息の根を止めるべく王政復古の大号令をかけて新しい時代の始まり&徳川が終わった事を日本中に示した。 2)王政復古の大号令・・・江戸時代末期の1868年1月3日(慶応3年旧暦12月9日)に朝廷(天皇)が発した、政権が天皇に移った事を宣言する政変。内容は、摂関制度(摂政・関白)、幕府を廃し、総裁、議定、参与の三職をおく、というもので、天皇による新政府の成立を宣言するものであると同時に、徳川幕府の廃絶を意味した。
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- zymurgy689
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1)は徳川慶喜が政治の実権を朝廷、天皇に返した。 2)は天皇が古代の親政復活を宣言。 まあ、その、これであってるかな? 要するに、あっちこっちで大量殺戮を繰り返した戦国時代を戦争のない秩序だった社会にして、代々の将軍によって安定した支配を実現するために徳川家は封建制度を敷きました。「人」や「もの」が勝手にあっちゃこっちゃに動き回るのを無理やりに止めて、政府による統制を徹底させちゃったんですね。戦争をするための「人」と「もの」を戦争をしようとした人達と切り離しちゃったんだと思います。でも、時代が経つにつれて資本主義っていうのが跋扈しはじめて、再び「人」も「もの」も勝手に動くようになって統制不可能なまでになっちゃったってところかな。 資本主義を統制するノウハウなんて幕府は知らなかったものだから、できるんならあなた達でやってみたらって、政権を放り出したって事でしょう。今で言えば行政を動かす組織やそれの運営に長けた官僚は抱えていたからその実務はまだ幕府が当然担うものと思っていた様だけれど、もっと大枠の政治や外交はやっかいな事になってしまっているのでそっちだけ返還したってところかな。 でも、新政府は当然に政権運営の全てを掌握したかったから強権を発動しやすい天皇親政を強行したんでしょう。
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分かりやすい説明ありがとうございます。幕府は自分達のの手に負えなくなって政権をあきらめたんですね。だいぶ理解出来たような気がします。ありがとうございました。
大政奉還とは、岩倉などの公家により倒幕の勅令が出るのを予想して、徳川慶喜がその先手を売って政権を返上して、徳川家は将軍からいち大名になって新政府の主導権を握ろうとしたことです。 最終的には15代将軍徳川慶喜が大政奉還しましたが、土佐藩の後藤象二郎が発案して藩主の山内容堂が慶喜に進言したと言われています。 巷では、後藤象二郎は坂本竜馬に言われてヒントを得たとか言われています。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。御蔭さまで大政奉還については理解することが出来ました。王政復古の方はどうなのでしょうか…。あれこれ質問してばかりですみませんがなにとぞよろしくお願いします。
お礼
ご回答ありがとうございました。王政復古の大号令は徳川幕府を廃絶するために出されたんですね。おかげさまで解決いたしました。本当にありがとうございました。