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○○守とは?

某大河ドラマで真田昌幸が「真田安房の守(阿波の守)」と呼ばれていますが、彼が支配しているのは安房でも阿波でもありません。 徳川吉宗のドラマに必ず登場する大岡忠相も「大岡越前の守」と呼ばれていますが、越前とは縁が無いようです。 これらはどのような理由で命名(任命?)されたのでしょうか。

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  • oska2
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回答No.5

>彼が支配しているのは安房でも阿波でもありません。 多くの方が、支配地と〇〇守が異なっている事に違和感を持ちますよね。 何故、信州の真田昌幸が「安房の守」なんだ? 安房って、房総だっぺ? >これらはどのような理由で命名(任命?)されたのでしょうか。 色んな回答がありますが、実は「官位」と連動しています。 官(太政大臣から主馬令史まで)位(正一位から少初位下まで)は、多くの方が理解していますよね。 官が太政大臣の場合、位は正一位です。 ※豊臣秀吉が有名。 官が中納言の場合、位は従三位です。 ※水戸徳川光圀が有名。 じゃ、〇〇の守とは? 戦国時代には、多くの武将が「勝手に、〇〇守」を名乗りました。 面白い事に、同じ〇〇守を同時期に名乗った武将も複数いますよ。^^; 織田信長なんか、上総守と自称していました。 流石に、上総守=親王のみというしきたりで「途中から、上総介」と名乗っています。^^; ※「上総介」は、「上総守の代理」という意味。 秀吉以降、徐々に〇〇守も自由に名乗れなくなりました。 真田昌幸の「安房の守」も、武田信玄から与えられた(私的な)官でなくなり(朝廷としての)関白秀吉から正式に与えられた(公認の官という)事になります。 この秀吉の考えは、歴代徳川将軍も引き継ぎます。 支配地とは、全く関係ありません。 配置換え・断絶などで、支配地と〇〇守の統一性はなくなっています。

その他の回答 (4)

回答No.4

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 ★およそ平安時代では、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)などと呼ばれ、まあ、極端な言い方をすれば、派遣された国の「長」(=国司)で、阿波国であれば「阿波守」と呼ばれ、その国の統治権を与えられ、祭祀、行政、司法、軍事、を全て任されていました。 ★やがて、武家政権が誕生し、鎌倉時代に入ると、主に軍事的勝者により、敗者の国を奪い、勝者で功労のあった者への「恩賞」として、一国を与えたり、一国を分割して与え「守」名乗りを許すようになりました。 ★鎌倉幕府の中期頃からは、「元寇」(げんこう)または「蒙古襲来」と呼ばれる文永の役(ぶんえいのえき・1274)と弘安の役(こうあんのえき・1281)が大きく関わってきました。 ★先にも述べましたが、 国内の戦いであれば、勝者は敗者の土地などを手に入れて手柄を立てた者へ恩賞として与えることができましたが、元寇では鎌倉幕府は勝利を収めたものの手柄を立てた者への恩賞としての与える土地は一切なく、さらには幕府の経済力は疲弊してしまいました。そこで、各地の守護代や代官となっていた者たちは、その支配地へ急遽定着をし生活の安定を計ることを考えねばならなくなりました。 ★こうして、地方豪族となった者たちが、朝廷への「献金」などと引き換えに、阿波国であれば「阿波守」の称号を手に入れ、その国の統治者として認めてもらうようになりました。 ★やがて、戦国時代になると、国土の奪い合いが始まり、同時に朝廷権力も足利幕府権力も衰退してしまい、朝廷から一国の国司としての「守」名乗りを許されていた者も、戦に負けて滅んでしまえば消滅してしまいました。 ★江戸時代に入ると、家康が「公武諸法度」の中で「武家の補佐は当官の外(ほか)たるべし」と定めました。つまり、「武家の官位(「守」名乗り)は名義だけのものですよ」と言っているのです。従って、美濃守が伊勢の大名であったり、伊勢守が豊前の大名であったりしました。単なる「ハク付け」だったのです。 ★当初の頃は、関ケ原の戦いなどの「論功行賞」として、家康が「守」名乗りを与え、播磨守などは7人もいました。これは、播磨国が上等な国であったので栄誉のために与えたものでした。 ★秀忠以後は、幕府に対して何らかの功績があった大名などに、いわば、「お礼」として将軍から授けられました。 ★江戸時代中期になると、3,000石以上の大名、あるいは、旗本であっても3,000石以上であれば、「守」名乗りができるようになり、希望の国名を上申しておけばたいがいの場合許されました。しかし、朝廷の官位とは何の関係もありませんでした。 ★大岡忠相も、享保2年(1717)に江戸町奉行(南町奉行)に任命され、町奉行の俸禄は3,000石でしたので、「守」名乗りが出来るようになり、「越前守」を名乗りました。 ★ただし、大岡家の旗本としての俸禄は1,920石で、町奉行になって「+」(プラス)3,000石の4,920石ではなく、3,000石に足りない分、つまり、大岡忠相の場合ですと、1,080石が追加支給され、合わせて3,000石ということになります。 これを「足し高」(たしだか)と呼びました。 以上、簡単ですが、ご参考までに・・・。

回答No.3

○○守と支配領地は関係ありません 武田信玄は室町幕府から「甲斐守護」に任ぜられてましたが朝廷からは「信濃守」に任ぜられていました 幕府滅亡後は「○○守」は朝廷の官位に一本化されて下賜されました 単に「従四位下」だけでは格好が悪いので「○○守」とか付けて官位に箔を付けたわけです 羽柴秀吉は筑前守 前田利家は加賀守 徳川家康は三河守 と 支配領地に関係ない場合と 支配領地に即した「○○守」が下賜された場合もあるのです ちなみに昌幸の息子の信繁(俗に言う幸村)は「○○守」ではなく「左衛門佐」(さえもんのすけ)という官位を下賜されていました

回答No.2

平安後期より武家に限らず論功行賞(褒美)の手段として官位を与えることが始まり、 その一部で役職名として~守も登場します。 鎌倉時代に、~守は、守護職(守護と地頭)をさしましたが、幕府が変わるたびに同じ土地の守護の名前が変わるなど、時代と共に形骸化していき、格式を指すものに変わります。 官位は朝廷からしか与えられませんでしたが、戦国時代になると、~守は、一部の由緒あるものを除き、各地の大名が勝手に家臣につけたり、あるいは、豪族が自称するようになります。 自称ですから、誰かからクレームがつけば、格式の低い方が改名しますが、クレームは宣戦布告でもあったので、互いに重複しないよう気を使ったと言われています。でも、遠く離れた場所、例えば東北と九州ではなかなか情報が行き交わないので、同じ名前を名乗ったものはいました。 安房守は、真田昌幸が武田の家臣で手柄を立てた際の論功行賞で武田家より 自称を許されたものですが、その前より自称していたという説もあります。 詳細はこちらに http://matome.naver.jp/odai/2145527861593899901

  • ithi
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回答No.1

tzd78886 さん、こんにちは。 安房守任官に別に意味はありません。安房守になったのは受領名を受けたということです。たぶん、叙位叙任として従五位下という位をもらったと思いますから、もはや、正式な大名としての権威は高まりました。それと同時に叙位叙任してくれた豊臣秀吉との関係も主従関係として特別なものになります。

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