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If the sun rose in the west, I wouldn't change my mind. ---(1)と書いてもいいのか
仮定法の文でIf the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. というのがあります。この文を If the sun rose in the west, I wouldn't change my mind. ---(1)と書いてもいいのかという質問を生徒から受けました。自分にはわからないから調べておくと言ったまま、1ヶ月が過ぎ、ついに春休みになってしまいました。どなたか教えて頂けるとありがたいです。 ちなみに、グーグルでIf the sun rose in the west every morning, I would get younger day by day. というのがありました。この文が正しいのは納得できます。仮定的な状況を設定して、そうした状況にどういうことが起きるかということを言おうとしているわけですから、問題はないと思います。 又、こう言うのもありました。What if the sun rose in the west? この文も上の文と同様に問題はないと思います。 ところが、(1)の文では太陽が西から上ることは最初からあり得ないこととして、いわば、議論のための飾りのようなものとして使われています。それでも(1)の文は正しいのでしょうか。
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feedersさんへ ~~~論理関係については触れないことにします。~~~ ~~~私自身はもうこの問題は考えないことにします。文法書に詳しく触れられていないからには、区別の必要がないということだと思います。~~~ そうですね。それがベストだと思います。 ~~~又、上のEven if the sun were to rise in the west.が決まり文句のような働きをしていることは明らかですから、その場合、学校英語においてはとっておきの手があります。これは熟語だ、あるいは慣用表現だと言ってしまえば納得してもらえるという習わしのようなものがあるのです。どうしてもと言う時にはこの手を使います。~~~ ~~~恐らく、太陽が西から上ることがないのと同じように、私の決心が揺らぐこともない-という意味なのだと思います。 I never change my mind any more than the sun rises rise in the west.(あまり良い文ではありません)くらいの文を添えて説明すれば、多少、教育的効果があるかなと考えているところです。~~~ wakkarahenさん(おそらくseegrammarも)の回答は、「(Even)if the sun ROSE ~」もOKだということだったと思います。もう一度、原質問に戻ると、その生徒さんの「(1)はOK?」という問いに対しては、私は「Yes」が正解だと思っていたました。 あと、そのいわゆる鯨公式は生徒さんを混乱させるように思います。それはNO13あたりで出た議論に関係しているのではないでしょうか?もしそうなら、これは「“因果関係”の有無による区別は、それほど重要ではない」という説明に使う方便だと思います。 ですから、「論理関係」について、生徒さんがそもそも疑問に思っていない以上、必要ない説明になるのでは? ただ、これはfeedersさんの判断が優先されるべきだと思います(当然ですが)。また、私の勘違いかもしれません。 あえて言えば、「太陽が西から昇っても、決心は変わらない」ということですから、「同じように~ない」ではなく「I'll change my mind less than the sun'll change its direction to rise in.」ではないでしょうか。 (すいません、冗談です)。 ★以下は、「(Even)if the sun ROSE in the west, ~」に対する私の考えです。参考になれば幸いですが、もうお腹一杯の場合は無視してください。 では、頑張ってください。 ============== これは【現在】についての仮定だと思います。ただし、この【現在】は「One and one IS two.」における【現在形】のようなものではないでしょうか。つまり、「1+1=2」というのはいわば、時間を超越した「真実」です。それを現在形で表しているわけです。 したがって、「ROSE」も同様に考えれば、「時間を超越した」という意味で「WERE TO RISE」の「未来永劫」的なニュアンスは出るのだと思います。 If I WERE a bird, I could fly to him. この文が【現在】のことを意味しているからといって、「将来、私は鳥になるかもしれない」ということを含意しているわけではないのと同じです。「One and one ISN'T three.」であるように、「時間に関係なく」私は鳥ではないということだと思います。 ===========
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~~~「太陽が西から昇っても、私は決心を変えない」の肝は、そうした不確実な【未来】のことであるにも関わらず、それに言及している点です。「私が決心を変える《可能性》」は、「太陽が西から昇る《可能性》」よりもさらに低いのだよ、ということです。 --そうでしょうか。「私が決心を変える《可能性》」は「太陽が西から昇る《可能性》」と同じく0パーセントですよ。と言っているのではないかと思いますが-~~~ 私は、未来において、太陽が西から昇る可能性0パーセントだと思っています。おそらく大多数の人がそう思っています。ですから、ここは私もfeedersさんも同じことを述べているように思います。【そうでしょうか】というほどのことはないと思うのですが。 ★とりあえず、今日は寝ます。
補足
~~~「太陽が西から昇っても、私は決心を変えない」の肝は、そうした不確実な【未来】のことであるにも関わらず、それに言及している点です。「私が決心を変える《可能性》」は、「太陽が西から昇る《可能性》」よりもさらに低いのだよ、ということです。 --そうでしょうか。「私が決心を変える《可能性》」は「太陽が西から昇る《可能性》」と同じく0パーセントですよ。と言っているのではないかと思いますが-~~~ 私は、未来において、太陽が西から昇る可能性0パーセントだと思っています。おそらく大多数の人がそう思っています。ですから、ここは私もfeedersさんも同じことを述べているように思います。【そうでしょうか】というほどのことはないと思うのですが。 -------------------------------- 「--そうでしょうか」と言ったのは、どちらの可能性も0パーセントですから、---「私が決心を変える《可能性》」は、「太陽が西から昇る《可能性》」よりもさらに低いのだよ、という言い方が気になったというだけのことです。結果的に揚げ足を取ったことになりましたかね。
feedersさんへ ~~~ところが、Even if the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. においては、含意として、現実には、「太陽が西から昇ることはないので(東から昇るので)私は決心を変えない」というわけのわからない状況が存在することになってしまいます。そして、「もし、太陽が西から昇るようなことがあれば、私が決心を変えるだろうと」他人は思うかも知れないが、でも、話者にはある事情があって、「たとえ、太陽が西から昇るようなことがあっても私は決心を変えないぞ」と思っているはずです。 この場合、「太陽が西から昇ることはないので(東から昇るので)私は決心を変えない」→「もし、太陽が西から昇るようなことがあれば、私が決心を変えるだろうと」他人は思うかも知れないが、でも、「たとえ、太陽が西から昇るようなことがあっても私が決心を変えることはない」--の論理の流れは不自然というより、わけのわからないものになっています。冗談話としても意味をなさないことは確実です。何とか文脈を整えて意味をなすものにしようと思えば、相当苦労してSF的な状況を想定するしかありません。~~~~~ 申し訳ありません。上の引用部分が理解できません。ここで引用した部分の前は理解できます(多分)。また、この引用部分から後ろの部分も、この引用部分を前提にしたものということで、意味は理解できます。 しかし、上の引用部分は正直よくわかりません。私には「太陽が西から昇っても、決心は変わらない」というのは、日本語でも英語でもごくふつうの内容に思えます。 ~~~《未確定》ではないと思います。話者の心理・態度においては【未来】も続くことが確定した事実として感じられているのではないかと思います~~~ 言葉遣いの問題ですが、私の《》でくくった《確定》《未確定》というのは、次のような区別です。すなわち If I were you, I wouldn't accept the offer. 上の文で「私があなたではないこと」は《確定》しています。考える余地もありません。ところが、【未来】の話の場合は、《確実》であるとは言えても、《確定》はしていませんね。 そこで、【未来】については《未確定》と表現しました。 少し思ったのですが、仮にfeedersさんが、この《確定》《未確定》の区別に有意差がないと考えるなら、“因果関係”の有無について、あれだけstrictだったのに、奇妙な気もします。 結局、何かにこだわりすぎているだけのような気もします。 ~~私の考えた理屈につきあって頂ければありがたいのですが。その理屈はお礼の方に書かせて頂きます。よろしくお願いします。~~~ OKです。「お礼」は「補足」の間違いでは?
補足
~~~ところが、Even if the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. においては、含意として、現実には、「太陽が西から昇ることはないので(東から昇るので)私は決心を変えない」というわけのわからない状況が存在することになってしまいます。そして、「もし、太陽が西から昇るようなことがあれば、私が決心を変えるだろうと」他人は思うかも知れないが、でも、話者にはある事情があって、「たとえ、太陽が西から昇るようなことがあっても私は決心を変えないぞ」と思っているはずです。 この場合、「太陽が西から昇ることはないので(東から昇るので)私は決心を変えない」→「もし、太陽が西から昇るようなことがあれば、私が決心を変えるだろうと」他人は思うかも知れないが、でも、「たとえ、太陽が西から昇るようなことがあっても私が決心を変えることはない」--の論理の流れは不自然というより、わけのわからないものになっています。冗談話としても意味をなさないことは確実です。何とか文脈を整えて意味をなすものにしようと思えば、相当苦労してSF的な状況を想定するしかありません。~~~~~ --上の引用部分は正直よくわかりません。私には「太陽が西から昇っても、決心は変わらない」というのは、日本語でも英語でもごくふつうの内容に思えます。 --この部分は確かにごくふつうの内容です。わけのわからないものではありません。 私が問題としているのは、含意として、現実には、「太陽が西から昇ることはないので(東から昇るので)私は決心を変えない」というわけのわからない状況が存在するのはまずいのではないかということです。普通の仮定法を使った場合は、必ず含意として、ごく普通の状況が現実の状況として存在します。例えばIf he had more money, he would buy a car. という文は、含意として、現実には、彼はあまり金を持ってなくて、車を買うこともないというごく普通の状況を示しています。このように、仮定法過去の文は、一般的に含意として、普通の(少なくとも意味をなす)状況を現実の局面として抱えているのではないかということです。そして、こうした普通の状況を現実の局面として抱えることのない仮定の文はwere toを使わなければ書けないのではないかという気がしているわけです。 又、「太陽が西から昇ることはないので(東から昇るので)私は決心を変えない」→「もし、太陽が西から昇るようなことがあれば、私が決心を変えるだろうと」他人は思うかも知れないが、→でも、「たとえ、太陽が西から昇るようなことがあっても私が決心を変えることはない」という一連の論理の流れが不自然である場合は普通の仮定法では書けないのではないかということと言いたかったのです。 言葉遣いの問題ですが、私の《》でくくった《確定》《未確定》というのは、次のような区別です。すなわちIf I were you, I wouldn't accept the offer. 上の文で「私があなたではないこと」は《確定》しています。考える余地もありません。ところが、【未来】の話の場合は、《確実》であるとは言えても、《確定》はしていませんね。そこで、【未来】については《未確定》と表現しました。 --納得しました。 「【現在】太陽が東から昇っている」ということは、既に《確定》しています。しかし、それが【未来】も続くかどうかは《未確定》ですから、《可能性》の問題になるわけです。--というふうに書いておられたはずです。「【現在】太陽が東から昇っている」という事態が【未来】においても続くことは、どんな人間の心の中においても《確定》していることだと思ってそう書きました。そのことを疑う人はいないはずです。--《未確定》というのは主節の出来事を指していたわけですね。早とちりをしてしまいました。 なお、蛇足ですがIf I were you, I wouldn't accept the offer.の文は、「もし、私があなたの立場であれば」の意味の場合もありますから、その場合、今、「あなたの立場にいなくても、いつかあなたの立場に立つ」可能性がありますので、(厳密に言うと)読み方によっては《確定》ではないとも読みとれます。
go urmさんへ 「どういう目的で因果関係という要素が重要なのか教えていただけますか?」ということですが、そもそも feedersさんの質問の主旨は “因果関係”がない場合にも「if S did」と書き換えてよいのか? ということです。「evenの要否」は周辺的なことにすぎなかったりします。非常に失礼な書き方になりますが、feedersさんの質問の意図を正しく理解できたのは、私とwakkarahenだけのような気がします。 で、私も(多分)wakkarahenさんも、「その“因果関係”の有無に意味はない」という意見です。 そのことを前提に、以下feedersさんが問題にしている(しかし、私はあまり意味がないと思っている)“因果関係”について説明してみます。(おそらくNO12とNO17で述べたことの繰り返しになると思います) (A1)太陽が西から昇っても、私は日の出を毎朝拝む習慣をやめないだろう。 上の文には、“因果関係”があります。すなわち、 「太陽が西から昇る」⇒「東で日の出を拝むことが不可能になる」⇒しかし、私は西で日の出を拝むだろう」 というように、「仮定」と「帰結」に論理的つながりがあるからです。したがって、これを (A2)富士山が動いても、私は日の出を毎朝拝む習慣をやめないだろう。 とすると、意味不明になります。少なくとも(A1)の意図は伝わりません。このことは、次の文と比べるとよくわかるはずです。 (B1)太陽が西から昇っても、私は決心を変えない。 この文では、「太陽が西から昇っても」というのは、「たとえ何がおきようとも」をレトリカルに表現しただけです。したがって、 (B2)富士山が動いても、私は決心を変えない。 と変えても、ほぼ(B1)と同じ意味が伝わるはずです。この(B1)のような文には、“因果関係”がないということです。 どうでしょうか?このように“因果関係”の有無をfeedersさんは区別しています。その上で、“因果関係”のない(B1)のような場合に、「if S did」を使ってもよいのか?というのが質問内容です。 ちなみに、「太陽が西から昇れば、あなたと結婚するわ」は“因果関係”がないとfeedersさんなら考えるはずです。つまりgo urmさんがNO20であげた例文はすべて“因果関係”のない文です。 「あなたが地球最後の男になっても、私はあなたと結婚しないわ」は“因果関係”があるということになります(NO8の補足参照)。
補足
私の考えを代弁して頂いてありがとうございます。datelummyさん宛の前回のご意見に対し補足の形で、理屈を展開してみました。一度お読みになって意見を頂ければありがたいです。とろしくお願いします。
- go_urn
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No. 2 / No. 9 / No. 18です。 一応もう一度通読させていただき、貴重な discussionだと感じました。 これまでの成果は、 1)(Even) if the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. という例文が、ネイティブはほとんど使わないにもかかわらず、日本の英語教育の were toの例文として、非常に幅を利かせている、という現実があるということ。この状況はすぐには変りそうもない(日本は英語例文のガラパゴスです)ので、この例文に対する理解は、(ネイティブには滑稽に見えても)英語教育に身を置く人間には重要だということ。 2)(a) If the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. (b) If the sun rose in the west, I wouldn't change my mind. は、どちらも間違いとはいいにくいということ。但し、違和感を持つ人もいるので、 (c) Even if the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. (d) Even if the sun rose in the west, I wouldn't change my mind. としたほうがよいということ。(c) (d) はほとんど全てのネイティブが承認する英語であること。 残った問題は、生徒にどう説明するかということですが―― もう一つ、因果関係の議論が行われていましたが、僕は頭がよくなく、よく分かりませんでした。これも、説明のために必要な議論なのですか? If the sun were to rise in the westの例で言いますと、 (e) If the sun were to rise in the west, I would marry you. (これもよく出ていた例文) (f) Even if the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. の2つで、因果関係があるものとないものとに分かれるということですか?どういう目的で因果関係という要素が重要なのか教えていただけますか?
補足
(e) If the sun were to rise in the west, I would marry you. ( (f) Even if the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. の2つで、因果関係があるものとないものとに分かれるということですか?どういう目的で因果関係という要素が重要なのか教えていただけま因果関係すか?--ということですが、これらの2つとも因果関係はありません。因果関係が存在するのは I wouldn't see the beautiful sunset against those hills any more if the sun rose in the west.という冗談半分の文です。were toを使っても同じ意味になります。 Even ifの意味でも、I wouldn't give up the habit of early rising if the sun rose in the west.という文が作れます。この場合もwere toが使えます。いずれにしても、冗談半分の文しか作れません。 因果関係があれば普通の仮定法で書けるはずですが、因果関係なかった場合はまずいのではないかという危惧があるからです。
すいません。「これで最後にします」と言った前言を撤回させてください。 私ならどう説明するのかを考えてみました。ポイントは「if S were to do」が【未来】についての仮定であるということです。 (1)たとえ【今】ナイフで脅されても、私は決心を変えない。 (2)たとえ【未来】に何が起きても、私は決心を変えない。 上の(1)(2)では話し手の気持ちに若干の違いがあると思います。(1)はあくまで【現在】のことしか意識していないのに対して、(2)は【未来永劫】のことを述べている点で、話者の気持ちはより強いはずです。 「太陽が西から昇っても、私は決心を変えない」というのは、(1)ではなく(2)である点は争いはないのではないでしょうか。 したがって、話者の(2)の気持ち、すなわち【未来永劫】決心を変えるつもりはない、ということをより明確に伝えるには、【現在】と【未来】を表すことができる「if S did」よりも【未来】であることが明確な「if S were to do」のほうがよいのだと思います。 go urnさんが、 >「万一」という、僅かばかりでも可能性がありそうなニュアンスを(日本人学習者は)感じる と書かれていますが、これは【未来】についての仮定であることから来る必然のような気がします。「【現在】太陽が東から昇っている」ということは、既に《確定》しています。しかし、それが【未来】も続くかどうかは《未確定》ですから、《可能性》の問題になるわけです。 「太陽が西から昇っても、私は決心を変えない」の肝は、そうした不確実な【未来】のことであるにも関わらず、それに言及している点です。「私が決心を変える《可能性》」は、「太陽が西から昇る《可能性》」よりもさらに低いのだよ、ということです。 ただし、「if I rose」でも未来を表せますし、wakkarahenさんが指摘しているように「太陽が西から昇る」という仮定の内容自体が【未来】であることを示しているので、「rose」でも問題はないのだと思います。 以上を踏まえて、私なら「roseでもよい」「しかし未来であることを明確にするには、were to riseのほうがよいと思う」と生徒に答えます。 「if S were to do」が【未来】についての仮定であることを理解できれば、納得してもらえるのではないでしょうか。意外に見落としている生徒が多いように思います。 「因果関係」「論理的つながり」の有無については触れません。おそらくその質問をした生徒さんも、その点については問題にしていないのではないでしょうか。それを言うと、かえって混乱させるような気がします。 何かの参考になれば幸いです。 ★ちなみに、私もかつては「too strict」でしたが、今は「rather loose」です。説明が「too long」とよく言われます。
お礼
--話者の(2)の気持ち、すなわち【未来永劫】決心を変えるつもりはない、ということをより明確に伝えるには、【現在】と【未来】を表すことができる「if S did」よりも【未来】であることが明確な「if S were to do」のほうがよいのだと思います。--ということですが、同感です- 「【現在】太陽が東から昇っている」ということは、既に《確定》しています。しかし、それが【未来】も続くかどうかは《未確定》ですから、《可能性》の問題になるわけです。 --《未確定》ではないと思います。話者の心理・態度においては【未来】も続くことが確定した事実として感じられているのではないかと思います- 「太陽が西から昇っても、私は決心を変えない」の肝は、そうした不確実な【未来】のことであるにも関わらず、それに言及している点です。「私が決心を変える《可能性》」は、「太陽が西から昇る《可能性》」よりもさらに低いのだよ、ということです。 --そうでしょうか。「私が決心を変える《可能性》」は「太陽が西から昇る《可能性》」と同じく0パーセントですよ。と言っているのではないかと思いますが- ただし、「if I rose」でも未来を表せますし、wakkarahenさんが指摘しているように「太陽が西から昇る」という仮定の内容自体が【未来】であることを示しているので、「rose」でも問題はないのだと思います。 以上を踏まえて、私なら「roseでもよい」「しかし未来であることを明確にするには、were to riseのほうがよいと思う」と生徒に答えます。-確かに説得力がありますね。単なる未来ではなく、今から死ぬまでの未来の時間のどの時点においてもと言うことですね- 「因果関係」「論理的つながり」の有無については触れません。おそらくその質問をした生徒さんも、その点については問題にしていないのではないでしょうか。それを言うと、かえって混乱させるような気がします。-そうかも知れません。 何かの参考になれば幸いです。★ちなみに、私もかつては「too strict」でしたが、今は「rather loose」です。-私も取りあえずrather strictくらいで行ってみようと思います。 ところで、一度、私の考えた理屈につきあって頂ければありがたいのですが。その理屈はお礼の方に書かせて頂きます。よろしくお願いします。
補足
例えばIf he had more money, he would buy a car. という文は、含意として、現実には、彼はあまり金を持ってなくて、車を買うこともないという状況を示しているはずです。ところが、話者は彼が貧乏なのに車を欲しがっていることを知っているので、彼に同情して、「彼がもっと金を持っていれば車を買うだろうになあ」と思うわけです。 又、Even If he had more money, he wouldn't buy a car. という文も、含意として、現実には、彼はあまり金を持ってなくて、車を買うこともないという状況を示しているはずです。彼の経済状態だけしか知らない人は、彼に同情して、「彼がもっと金を持っていれば車を買うだろうになあ」と思うかも知れません。ところが、話者は彼が数年前に交通事故で歩行者をはねて大けがをさせたと言うことを知っているので、「たとえ、彼にもっと金があったとしても車を買うことはないだろう」と思うわけです。 同様に、If the a dead man were to be born again, I would be very scared. の場合、含意として、現実には、死人が生き返ることはないので私は恐い思いをすることもないという状況があるはずです。なのに、もし、死人が生き返るようなことがあれば恐い思いをするだろうなあと想像を働かせているわけです。(例えば、話者には先祖の墓参りを10年以上していないという事情があって、墓参りをちゃんとしないとそのうち曾祖父が生き返るぞ。そうなったら--というふうな冗談めいた空想なされる局面が想定できます。) この場合は、If the a dead man were born again, I would be very scared. とも書けるはずです。 ところが、Even if the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. においては、含意として、現実には、「太陽が西から昇ることはないので(東から昇るので)私は決心を変えない」というわけのわからない状況が存在することになってしまいます。そして、「もし、太陽が西から昇るようなことがあれば、私が決心を変えるだろうと」他人は思うかも知れないが、でも、話者にはある事情があって、「たとえ、太陽が西から昇るようなことがあっても私は決心を変えないぞ」と思っているはずです。 この場合、「太陽が西から昇ることはないので(東から昇るので)私は決心を変えない」→「もし、太陽が西から昇るようなことがあれば、私が決心を変えるだろうと」他人は思うかも知れないが、でも、「たとえ、太陽が西から昇るようなことがあっても私が決心を変えることはない」--の論理の流れは不自然というより、わけのわからないものになっています。冗談話としても意味をなさないことは確実です。何とか文脈を整えて意味をなすものにしようと思えば、相当苦労してSF的な状況を想定するしかありません。 つまり、日常生活の中で冗談話としてでも一応の自然な文脈がたどれるか、それとも苦労してSF的な状況を想定しなければ自然な文脈を作れないかという点はdividing lineとして有効なのではないかということです。つまり、前者は仮定法過去とwere toを使って書くことができるが、後者はwere toしか許されないのではないかということです。 又、例えば、If the a dead man were born again, をI wouldn't change my mindと組み合わせれば、同じ理屈でwere toしか使えないということになるのではないかと思うのですがいかがでしょうか。
- go_urn
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No. 2 /No.9です。 興味深く拝読しています。 ご質問者の 【-結局、ネイティブの意見の大勢がIf the sun rose in the west, I wouldn't change my mind. をよしとしているようなので、自分もそうしようかという気になっているところなのですが、】 というのが、落ち着きどころのような気がしますが、これを変だと思うネイティブがいるということはやはり意識すべきと反省しました。(そう言われると何となくわかります。) すると、Even if the sun were to rise in the west ないし、Even if the sun rose in the west なら、誰も文句は言わないということなのでしょうね。 しかしご質問者の、教える立場としての 【じゃあ、文法的説明はどうするということになるとどうしたらいいのかなと思い悩んでいます。たぶん、仮定法過去の文とwere toを使った仮定法の文においては、どちらもあり得ないことの仮定が可能であると説明して、それ以上の細かい区分は必要ないと言うしかないのかも知れません。】 という疑問は、まだ何となくすっきりしませんね。were to が、「万一」という、僅かばかりでも可能性がありそうなニュアンスを(日本人学習者は)感じるだけに、rose の方が正統とすら見えてきます。生徒に、聞かれたと想像すると、答えに窮します。何か、(生徒が納得してくれるような)スッキリした説明があれば、私もお聞きしたいですね。
補足
全く同感です。生徒にどう説明すればいいか考えているところです。我々は、(生徒ももちろん)ネイティブスピーカーではないので、ある表現を言うか言わないかではなくて、納得できる説明ができるかどうかが肝心なのです。ですから、そこそこ論理的な説明ができればありがたいのです。 最近の英語表現で文法を逸脱している場合は口語表現だから仕方ないと言って納得させることが可能ですが、今回はそのようなケースではありませんので困っています。とにかく、ありがとうございました。
生意気な書き方ですが、おそらくfeedersさんの質問の意図を一番理解しているのは私ではないでしょうか?ただし、feedersさんと同じ考え(悩み?)を持っているわけではありません。むしろその反対です。 繰り返しになりますが、feedersさんの質問の中心は以下の2つの文に違いがあるのか?ということだと思います。 (a1)If the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. (b1)If the sun rose in the west every morning, I would get younger day by day. evenの話を横に置いておくためと、後の話を見えやすくするために日本語にします。 (a1)西から太陽が昇っても、私は決心を変えない。 (b1)毎日太陽が西から昇れば、私は毎日若返るのに。 ここで【feedersさんが】問題にしているのは、「たとえ」という譲歩の意味の有無ではなく、「因果関係」の有無です。ただし、通常「因果関係」というのは「既に起きたこと」に対して使われる用語だと思います。私は「論理的つながり」と書くことにします。 私は、この(a)と(b)にはたしかに違いはあると思います。NO12にも書きましたが、それぞれを「太陽が西から昇る」を「富士山が動く」に書き換えてみると、 (a2)富士山が動いても、私は決心を変えない。⇒OK (b2)富士山が動いたら、私は毎日若返るのに。⇒意味不明 wakkarahen氏のおっしゃるように、(b1)に「因果関係」や「論理的つながり」があるのかという疑問はありますが、【話者】の頭の中では、 太陽が西から昇る⇒(時間が遡る)⇒若返る というプロセスが頭にあるはずです。そもそも「仮定法」ですから、本気で言っているわけではないので、それは話者の自由だと思います。ちなみに私はスーパーマンを思い出しました。 このように考えると、【feedersさん】が問題にしているのは「たとえ」という譲歩の意味の有無ではないことがわかると思います。 (c1)太陽が西から昇っても、私は日の出を眺める習慣をやめないだろう。 上の(c)は、譲歩の意味があるので(a1)に近いように思えますが、【feedersさんの】類型では(b1)に近いものとなります。私もその違いは認められると思います。この場合は、 太陽が西から昇る⇒毎日東の空を見ていた人は驚くだろう⇒それでも(譲歩)⇒私は(西の空を眺めることで)日の出を見続けるだろう ということで、【話者】の頭の中では、仮定と帰結に「論理的つながり」があるからです。 このように、(a1)と(b1)には、何らかの違いがあることは理解できます。 ただし、【feedersさん】と違って、私はこの2つの文の違いは問題にするほど大きな違いではないと考えています。この点ではwakkarahen氏と全くの同意見です。その理由を箇条書きします。 (1)その違いを認識しづらい=たいした違いはない ⇒feedersさんが思うほど、この違いは認識しやすいものではありません。私も最初はfeedersさんの質問を誤解していました。(生意気な書き方ですが)回答者の多くの人が、まだよく理解できていないのではないでしょうか。そのくらい、「細かすぎる」違いなのだと思います。 (2)ネイティブが両者を同じ形式で表現している ⇒このスレッド(?)の中だけで、すでに2つ示されています。ひとつがNO5さんのリンク先です。 (d)I wouldn't do it if the sun were to rise in the west. (e)I wouldn't do it if the sun rose in the west. これはどちらも「太陽が西から昇っても、私はそれをしない」ということで(a1)の類型になるはずです。これを「太陽が西から昇れば、私は美しい日の出を見ることはないだろう」と(b1)の類型で捉えるのは、恣意的すぎる気がします。 もうひとつはwakkarahenさんによるネイティブチェックです。つまり(a1)の文について米国人のプロのライターの方が、「were to rise」でも「rose」でも問題はないと答えているわけです。 (3)文法書に載っていない ⇒もし(a1)と(b1)の違いが、文法的な問題、すなわち表現形式を変えるべき問題ならば、そのように文法書に記載されているはずです。おそらくfeedersさんは、「(a1)も(b1)も同列に扱ってよい」と明記されている文法書を確認したいのではないのでしょうか。私はそのような文法書は存在しないと思います。それは、(a1)と(b1)に形式に影響を与えるほどの実質的な違いが存在しないからだと思います。あえて言えば、(1)で述べたようにたいして意味のない違いをわざわざ取り上げて、しかも「それらを同列に扱ってよい」とわざわざ説明するのはばかげています。そなことをしていてはページ数がいくらあっても足りないでしょう。 以上3点より、私はfeedersさんとは意見を異にしています。一番大きいのは(1)です。おそらく「たいした違いはない」から「ネイティブも気にしていない(2)」し、「文法書にも乗っていない(3)」のだろうと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ところで、「we」に2種類あるのをご存知ですか? (a)聞き手を含む「we」 (b)聞き手を含まない「we」 たとえば、「私たちは、賃上げを要求すべきです」は話し手も聞き手も「従業員」ですから、この「we」は(a)の「聞き手を含む」ものです。 一方「私たちは、賃上げを要求します!」は、従業員が雇用者に言っているので、この「私たち」は(b)の「聞き手を含まない」ものです。 このように「we」に2種類ありますが、英語ではこれをどのように区別するのでしょうか?文脈以外に文法的に区別できないのでしょうか。あるいは、イントネーションで区別するのでしょうか?どの文法書にも書かれていません。どなたか教えてください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 厭味な書き方になったら申しわけありませんが、feedersさんの悩みは、上のような感じに思えます。たしかに、違いはあるかも知れませんが通常は意識されないものです。したがって、表現上も区別されません。文法書にも説明がありません。たとえば、(a)を「wee」(b)を「we」と区別するとします。ものすごく面倒だと思いませんか?しかも、それを区別する意義がはたしてあるのだろうか?と思いませんか。 最後に「if S should do」については、feedersさんと同意見です。おそらくほとんどの人が同意見だと思います。製品の説明書などに、 If you should find a problem, please let us know ~ と書かれています。私はこれを見て仮定法のshouldを理解できました。つまり、「私たちは責任を持って製品を作っているので、問題は【ないと思っています】。しかし、【万一】問題があった場合は、知らせてください。すぐに対処する体制にあります」ということです。 これを「If you find」とすると「問題があるかも」と思っているのか?と、読み手に不安を与えるような気がします。また「If you found」や「If you were to find」とすると、傲慢な印象を受けます。問題があった場合に「そんなわけないだろ!」と認めてもらえないような気がします。そもそもこの2つでは、「please ~」と続けることができないわけですが。 ただ、あえて言えば「100%の可能性」と言っても、それはあくまで「未来」のことですから客観的なものではないわけです。ですから「If the sun should rise in the west」もありだと思います。そもそも「万一」言っても「0.01%」という意味ではないわけです。どの程度の可能性をshouldに与えるのかも含めて、結局「話し手のこころ」の問題だと思います。 ★そろそろウザいと思っている人もいると思います。自分でも「おれのほうが、よほどメンドクセ!」と感じてきました。これで最後にします。結構楽しかったです。いずれにせよ、feedersさん、これだけこじれると生徒に説明するのは大変だと思いますがが、頑張ってください。私なら「どっちでもいいよ」「でもwere toのほうが、ありえない感がでていいかな」「あまり細かいことは気にせず、どんどん問題集を解くこと!」と言って逃げます(笑 では。 ★以上はNO16のwakkarahenさんの回答を読む前に書きました。私の考えを簡潔に(自爆)書くと、wakkarahenさんのこの回答と同じだろうと思います。ただ、せっかく書いたので投稿します。否させて下さい! では。
お礼
ところで、「we」に2種類あるのをご存知ですか? (a)聞き手を含む「we」 (b)聞き手を含まない「we」 たとえば、「私たちは、賃上げを要求すべきです」は話し手も聞き手も「従業員」ですから、この「we」は(a)の「聞き手を含む」ものです。 一方「私たちは、賃上げを要求します!」は、従業員が雇用者に言っているので、この「私たち」は(b)の「聞き手を含まない」ものです。 このように「we」に2種類ありますが、英語ではこれをどのように区別するのでしょうか?文脈以外に文法的に区別できないのでしょうか。あるいは、イントネーションで区別するのでしょうか?どの文法書にも書かれていません。どなたか教えてください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ weはもともと話者と聞き手を含む集団です。we は自分を含む集団を代表して何かを述べる場合に使いますが、聞き手もその中に含まれますのが普通です。 たとえば We must observe the rules of the society. という文は、我々社会人というふうに意識していれば使えます。それでも、聞き手を含まない場合があるとすれば、聞き手との間に対立関係がある場合だと思います。 又は、聞き手が自分とか異質のものと感じられている場合でしょうね。例えば We have a lot of rain in June. (We -- 我々日本人)においては、聞き手は明らかに、我々とは違う場所や立場にいる人だという意識があるように思います。 結局、文脈次第だと言うことになります。 ただし、「我々は元々は悪人ではありませんよ」を We are not bad by nature. と書くと、「我々人間」の意味にも取れるので気をつけた方がよいと思います。 イントネーションについてはわかりません。聞き手を除外するのであれば、普通はWEを強く言った方がいいと思うのですが。??--
補足
(1)その違いを認識しづらい=たいした違いはない ⇒feedersさんが思うほど、この違いは認識しやすいものではありません。私も最初はfeedersさんの質問を誤解していました。(生意気な書き方ですが)回答者の多くの人が、まだよく理解できていないのではないでしょうか。そのくらい、「細かすぎる」違いなのだと思います。--私が細かすぎるのかも知れません。時々、同僚にもそう言われます。ネイティブスピーカーにも一度、You are too strict. と言われたことがありました。それに対して、If I'm too strict, you are too loose. と言いたいところを抑えましたが。-- (2)ネイティブが両者を同じ形式で表現している ⇒このスレッド(?)の中だけで、すでに2つ示されています。ひとつがNO5さんのリンク先です。 (d)I wouldn't do it if the sun were to rise in the west. (e)I wouldn't do it if the sun rose in the west. これはどちらも「太陽が西から昇っても、私はそれをしない」ということで(a1)の類型になるはずです。これを「太陽が西から昇れば、私は美しい日の出を見ることはないだろう」と(b1)の類型で捉えるのは、恣意的すぎる気がします。 --ただし、wouldn't do itがややあいまいなので気になっています。この件については補足で次のように書きました。 -ただ、wouldn't do it がもっと具体的な記述であればありがたかったのですが。例えば、I wouldn't see the beautiful sunset against those hills any more if the sun rose in the west.という冗談半分の文が想定されます。この場合は、were toを使っても同じ意味になりますね。ただし、Even ifの意味でも、I wouldn't give up the habit of early rising if the sun rose in the west.という文が作れそうです。この場合もwere toが使えます。いずれにしても、冗談半分の文しか作れません。-- もうひとつはwakkarahenさんによるネイティブチェックです。つまり(a1)の文について米国人のプロのライターの方が、「were to rise」でも「rose」でも問題はないと答えているわけです。 --確かに問題はないのかも知れません。ただ、最近のアメリカ英語の文法には日本の受験英語と相容れない部分がいろいろあります。例えば、当然even ifを使うところをeven thoughを使っていたり、過去完了形にすべきところを過去形ですませたり、何の意味もなくやたらと進行形を使ったり、対比関係を表現する定冠詞theを対比の関係が存在しない局面で使ったり--------やはり不安ですね。 (3)文法書に載っていない ⇒もし(a1)と(b1)の違いが、文法的な問題、すなわち表現形式を変えるべき問題ならば、そのように文法書に記載されているはずです。おそらくfeedersさんは、「(a1)も(b1)も同列に扱ってよい」と明記されている文法書を確認したいのではないのでしょうか。私はそのような文法書は存在しないと思います。それは、(a1)と(b1)に形式に影響を与えるほどの実質的な違いが存在しないからだと思います。あえて言えば、(1)で述べたようにたいして意味のない違いをわざわざ取り上げて、しかも「それらを同列に扱ってよい」とわざわざ説明するのはばかげています。そなことをしていてはページ数がいくらあっても足りないでしょう。 --私もそのように思います。そうとしか考えられないというべきでしょうか。これまでにも、私の取り上げたような疑問を感じた人がいくらでもいたはずだと思いますが、こうした話題について書かれた書物を見たことも聞いたこともないということは、実質的な違いを問題にする必要がなかったということなのだろうと思います。-- --「If the sun should rise in the west」もありだと思います。そもそも「万一」言っても「0.01%」という意味ではないわけです。どの程度の可能性をshouldに与えるのかも含めて、結局「話し手のこころ」の問題だと思います。--同感ですが、私はやはりIf the sun should rise in the westには抵抗を覚えます。グーグルで検索したところ4件ヒットしただけです。were to rise87件、rose 119件です。 私なら「どっちでもいいよ」「でもwere toのほうが、ありえない感がでていいかな」「あまり細かいことは気にせず、どんどん問題集を解くこと!」と言って逃げます--がんばってみます。
- wakkarahen
- ベストアンサー率61% (262/423)
No.13のfeedersさんのコメントに対して、簡単ですが: feedersさんがEven if ..に言及されていないことはわかっています。これは、私の質問として(NO.15さんと同じ気持ちで)そのネイティブにしました。尚、そのネイティブも内容的にはEven if ...のほうがベターだが、If ...でもOKでした(feedersさん提示の文をそのまま伝えました)。くどいようですが、原質問がその生徒の質問に対する答えを欲しい・確認したい(そのwere to → roseへの書き換えは自動的にokとすぐ思いましたが、その確認と、内容を考え、Even if..の方が文としては良いのでは(書き換えに関係なく)?と聞きました。 仮定法において「因果関係」が絡んでくるのかどうか知りませんが、そういうことを考える必要は無いのでは、ということで「因果関係」についてそう書きました。そういうことは考えたこともないし、考える必要性を感じたこともなかったので、特に調べたりすることなく、実践で英語を使っているものとして感じたことを書きました。昨晩、家で2-3の文法書を見てみましたが、仮定法と因果関係のような記述はみあたりませんでした。 ご提示の文は仮定法ですが、If the sun rose/were to rise ...は、If I were you, I would ...などという文とは少し、使う上での「目的」が違う気がします。No matter what happensという意味合いを強調しているという使い方といえるのではないでしょうか(仮定法は「仮定」というより「こころの意味合い」をかもしだしますから)?No matter what happens のところを仮定法で書いているので、後半も仮定法で、となっている文で、因果関係などとは関係ないと思うのですが? 生徒に論理的に教えねばならないお立場の方達に、「因果関係」は関係ないのでは、と簡単に(調べもせず)いうのは失礼かと思いますが、実践で英語を使っているものとしての意見は、そういうことを考える必要性を感じたことは一度もない→よって、そのような説明をすることもないのでは?と思うところを、ご参考までに書きました。 仮定法で私が言いたいことは、仮定法は「仮定」というより「気持ちの表れ」といった感じだということを生徒さんには伝えていただければ、ということです。例えば、今はそうでないでしょうが、ずっと昔には、If I had been there, I could have helped you. を書き換えよで、回答が Because I was not there, I could not help you.でした。これらの2文においての話者の意味合いはかなり違います。 Wish I could explain better というところですが、学校英語・受験英語で育ち、実践で英語を使っている者の一参考意見です。
補足
--仮定法において「因果関係」が絡んでくるのかどうか知りませんが、そういうことを考える必要は無いのでは、ということで「因果関係」についてそう書きました。そういうことは考えたこともないし、考える必要性を感じたこともなかったので、特に調べたりすることなく、実践で英語を使っているものとして感じたことを書きました。昨晩、家で2-3の文法書を見てみましたが、仮定法と因果関係のような記述はみあたりませんでした。 --とのことですが、仮定法と因果関係についてわざわざ記述がなされているようなことはないと思います。普通の条件文と因果関係については書いてあるはずです。ついでに、仮定的な状況における因果関係について簡単に触れていることと思います。-- --If the sun rose/were to rise ...は、If I were you, I would ...などという文とは少し、使う上での「目的」が違う気がします。No matter what happensという意味合いを強調しているという使い方といえるのではないでしょうか(仮定法は「仮定」というより「こころの意味合い」をかもしだしますから)?No matter what happens のところを仮定法で書いているので、後半も仮定法で、となっている文で、因果関係などとは関係ないと思うのですが? --とのことですが、例えば、No matter happens [happened], I would never give up my hope. において、No matter happens [happened]は、ほぼEven if anything serious should happenに置き換えてもいいのではないかと思います。(少なくともそうした意味が含まれているのではないでしょうか)その場合、何か大変なことが起きれば私は自分の希望をあきらめなくてはならないことになるかも知れない。でも、それでも、何とか希望を捨てずにがんばってみよう--というふうに論理的なつながりがあるように思います。 一方、If the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. において同じような読みこみを行うと、-太陽が西から出るようなことがあれば、私は決心が鈍ってしまう。(気持ちが変わってしまう)でも、それでもやはり決意(気持ち)を持ち続けよう。-ということになります。この読み込みの中で、「太陽が西から出るようなことがあれば、私は決心が鈍ってしまう(気持ちが変わってしまう)」の部分が意味をなさないので、因果関係は存在しないということになります。 つまり、If the sun were to rise in the west, I wouldn't change my mind. における if節は因果関係を超越した単なる決まり文句と言うべきものではないかと思うのです。-- -生徒に論理的に教えねばならないお立場の方達に、「因果関係」は関係ないのでは、と簡単に(調べもせず)いうのは失礼かと思いますが、実践で英語を使っているものとしての意見は、そういうことを考える必要性を感じたことは一度もない→よって、そのような説明をすることもないのでは?と思うところを、ご参考までに書きました。 --そういう立場にある者でも、何でもかんでも論理的に教えねばならないというわけではありませんが、もしそれが可能であるならそうしたいということなのです。 文法が全部杓子定規に一定のルールに収まるものでもないことは承知しております。その意味でこの問題もそろそろ引き時かなと思い始めているとことです。生徒に、「結局わからなかった。ごめん」もありだと思っています。 --仮定法で私が言いたいことは、仮定法は「仮定」というより「気持ちの表れ」といった感じだということを生徒さんには伝えていただければ、ということです。--全く同感です。生徒達にはそのように教えています。-- --例えば、今はそうでないでしょうが、ずっと昔には、If I had been there, I could have helped you. を書き換えよで、回答が Because I was not there, I could not help you.でした。これらの2文においての話者の意味合いはかなり違います。 --全くその通りですね。生徒達にはこれらの2文の区別をきちんと教えています。ところで、私自身、このことに関して耳にいたいことがあります。実は、ネイティブスピーカー達としゃべる時、仮定法をほとんど使ったことがないのです。I wish I could. とか、Would you mind if I ----以外にほとんどしゃべったことがありません。反省しています。--
- vegan
- ベストアンサー率47% (124/261)
難しい事は分からないのですが、私にとってはこの文章、とても違和感があります。違和感がある部分は、最初の if です。私なら Even if とします。 ちなみに、アメリカ人の夫に聞いた所、「特に変ではないと感じるのは、恐らく何と言いたいのか分かって、頭の中でそのように理解しているからではないか」と言ってました。で、「もし、English や English Literature のクラスでペーパーを書くとしたら、この様な文章を書くか?」と聞いたら、自分なら Even if とする、と言われました。 ご参考まで。
補足
全く同感です。最初からEven ifで書くべきでした。日本の受験英語ではEven ifを使わずにIfですませることが多いのです。僕自身は生徒に対して必ずEvenを使うように言っているのですが、今回は、受験参考書でよく紹介されているままに書いてしまいました。 ともあれ、Even ifにすればOKだということなのですね。
- Parismadam
- ベストアンサー率65% (2756/4211)
No.3です。早速のお礼を有難うございました。補足質問にお答えします。 質問1への回答: Ifには条件法と仮定法があります。条件法には仮定と譲歩の用法があります。しかし仮定法には譲歩の用法はない、これが私の理解です。条件法の仮定と仮定法の仮定は違うものなので、混同されないようにして下さい。したがって、この例文を「たとえ~だとしても」と訳すのだとしたら、これは仮定法の文ではない、というのが私の回答です。3つの辞書・文法書からの引用文は、私にとっては譲歩文です。それぞれの例文が仮定法の仮定だと辞書に書かれてありましたか? 質問2への回答: 100%あり得ないことを仮定する場合は、If節ではwere to、shouldを使うべきというのが私の理解です。したがって、roseを使った文は私の理解では間違いになる、これが回答です。 質問3への回答: <現実には「太陽が西から上るようなことはないので、私は決心を変えない」という事実が存在するはずです。> とありますが、この文を仮定法と考えた場合、存在する事実とはそうではなくて「太陽が西から上るようなことはないので、私は決心を変える」という事実があるのです。仮定法は叙実法に書き直した場合、条件節も帰結節も仮定法にかかれてある文と反対にしなければならないからです。「条件説の内容、帰結説の内容は共に事実と異なる」それが仮定法の真意だからです。 結論から言いますと、この例文を「たとえ太陽が西から昇っても私は決心を変えないだろう」という意味ととるならば、この文は仮定法でなく条件法譲歩文である、というのが私の結論です。「譲歩文が仮定法になる」という新説があるのだとしたら、それは私の理解の範囲外ですので、その新説へ至る論駁を読んでみないと、何とも答えられません。また、質問2のように、「roseは間違い」説も私の理解の範疇ですので、「roseも正しい」という新説の論理が納得できるかどうかは、たとえ著名な文法家の説明であっても、じっくり検討しないと首を縦に振ることはできません。 辞書や文法家の言っていることが全て正しいのではなく、辞書によっても、文法家によっても言ってることが違います。どの説を信頼するかは使用者・学習者に委ねられているのです。 私の説は上記の通り、他の回答者にもいろいろな説があり、みなさんそれぞれに自信を持って回答されています。どれがより信頼できそうかは、feeders様が決められればよいことです。 ご参考になれば幸いです。
補足
-Ifには条件法と仮定法があります。条件法には仮定と譲歩の用法があります。しかし仮定法には譲歩の用法はない、これが私の理解です。条件法の仮定と仮定法の仮定は違うものなので、混同されないようにして下さい。したがって、この例文を「たとえ~だとしても」と訳すのだとしたら、これは仮定法の文ではない、というのが私の回答です。3つの辞書・文法書からの引用文は、私にとっては譲歩文です。それぞれの例文が仮定法の仮定だと辞書に書かれてありましたか--とのことでしたが、確かにそう書いてありました。私としては、譲歩文であってかつ仮定の文であるような文が存在することに違和感はありません。 --100%あり得ないことを仮定する場合は、If節ではwere to、shouldを使うべきというのが私の理解です。したがって、roseを使った文は私の理解では間違いになる、これが回答です。--とのことですが、仮定法過去を使って100%あり得ないことを仮定する場合もあるように思います。例えば、If I were you, I wouldn't accept the offer. はどうでしょうか。 又、shouldを使った仮定法は通常は100%あり得ないことの仮定には使わないというのが文法書一般の見解になっています。 いずれにしても、参考にさせて頂きます。
補足
同感です。feeders