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神経症とは
神経症についてよくわからないことがあります。 神経症の代表的なパターンに、~~恐怖というものがあります。 これは、本質的に見ると、 「自己の生命を脅かすもの」に対する過剰な防衛 という風には捉えられないでしょうか。 もし大体そういうラインがあるならば、神経症というものは、本質的には、 「命への過剰配慮」「死への過剰防衛」 というように捉えられないでしょうか。 なぜ、一般人のように、「死」なんていうものを忘れて生きられなくなるのか、それがどういうメカニズムで発生してしまうのか、はっきりつかめません。なにか納得できる考え型があるのでしょうか。
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>神経症というものは、本質的には、 「命への過剰配慮」「死への過剰防衛」というように捉えられないでしょうか。 :これはいいところを突いているように思います。 ただ、なぜ過剰になるのか、という点を考慮する必要があるような気がします。 たぶん、自らの弱さを過剰に感じてしまうために、防御も結果的に過剰になるのではないでしょうか。 「感じてしまう」というところが重要で、実際には弱いと思う必要がないにも拘らずそう思ってしまう、「不合理な思い込み(=イラショナルビリーフ)」が根底にあるように思います。 (これは逆もまた可なりで、一般的に弱いと言われる立ち場の人であっても強いと思い込めば強くなることが可能でしょう。) イラショナルビリーフは経験・体験によって生じると考えるのが自然です。 現状の解釈ということで言えば、 「どのような経験・体験をしてきたか」ということに尽きるように思います。 「経験」はDNAレベルで捉えることもできるでしょうが、ここでは、単純に胎児を起点に適用するだけで十分でしょう。 記憶が無い場合が殆どでしょうが、少なくとも誕生以来のあらゆる刺激(特に3歳ぐらいまでの刺激)は、相当強い印象を伴ないつつ記憶領域に格納され、後の性格・人格形成に大きな影響を与える場合が多いと思います。 『>なぜ、一般人のように、「死」なんていうものを忘れて生きられなくなるのか、それがどういうメカニズムで発生してしまうのか、』 ということに関連して述べると、 何らかの刺激(あるいは刺激の継続)が、自らの本能、または自我、あるいは超自我のいずれかに対して、本人のキャパシティを超えた力として及んだ場合に、本能や自我や超自我の健全な進展が妨げられる。 その妨げがキャパシティを超えたものであるだけに、自己の不全感が修正のできない決定的な弱さとして(無意識的に)認識されてしまうから。 ではないかという気がします。 ただ、我々人間は属性として意志(あるいは意思)を持つように生まれついています。 この意志によって無意識に影響を与えることも可能なので(と確信しているので)、 このメカニズムから脱出しようと試みる人にとっては、後はただ、我々は自身を変革できる可能性を常に持つ存在であるということを信じる、 つまり、自分を疑う勇気を持つ、という当たりが鍵になるのではないかという気がします。 なんか蛇足部分が多かったような気もしますが、素人の見解としてはこんなところです。
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神経症: 本当に簡単で難しい症状です。 私の実例を述べてみたいと思います。 15歳の時に異性を意識するようになっ時に「心臓がどきどき」するようになり、その事が突然、何か死ということを意識するようになってそれが恐怖になったのです。 思えば思うはど「心臓の動悸」がひどくなり45年の事でですが日本の心臓権威であった日本女子大付属病院の○○先生を頼って病気だと思い診察をくけましたが異常はありません。何度も救急車で病院まで飛び込んだり、宗教の門をたたいたりしました。 ただ、いえることは自分の好きな事をやっているときややりがいのある仕事をやっている時にはその症状は起きませんでした。 「死ぬ事」が不安でならない? それが今は、大きな病気をして本来なら死んでしまっても当たり前の病気からの生還をしましたら今はその事を皆さんに理解して貰ったらと思って毎日を暮らしております。 :もろもろの神経症は: 精神と身体の調整がうまく出来ない症状が神経症だと思います。 現在も安定剤を持っていないと不安です。
お礼
ご体験談参考になります。 つらいです。 やりがいのあることに集中できているとき、症状が消えている。 これは重要なことです。前の方の回答とも合わせて、「生が機能しているとき、神経症は遠のいている」と言えます。
- winterer
- ベストアンサー率40% (11/27)
例えば対人恐怖症という神経症は、人そのものではなく ひとから自分がどう思われるのかが怖いというもので、他者に対する 自分を過剰に意識しすぎているときに発症します。 これは人類の過去を考えると納得し得ます。 人は昔から集団で生活し身を守ってきたから、他の人々から見放されることは死につながります。少なくとも そういう時代がありました。その時の『人から見放される、嫌われるのが怖い』という本能は現在にも全ての人間に受け継がれているでしょう。つまり、確かに対人恐怖症は、死の恐怖と関連していると思います。 高所恐怖症、閉所恐怖症はいうまでもなく直接的に死の恐怖と関係 があるといってよいでしょう。その他強迫神経症も、直接的に死の恐怖 は関係していなくても、人類に過去に記憶された何らかの死の恐怖に関係した防衛本能と間接的に結びついているといえるかもしれません。 神経症になる原因は、それを引き起こすような体験を しているというのが一つの原因です。高所恐怖症なら高いところのトラウマ、閉所恐怖症なら狭いところのトラウマ。対人恐怖症なら、 過剰に怒られたりいじめられたり、恥をかかされたトラウマ等。 でも、それだけでは説明できないと思われます。生まれついての 性質にもよるでしょう。生まれつきの不安にたいする耐性というのは 個人差があると思います。その耐性の弱い人は、自分を防衛しようとして、不安の作用に対して過剰に防衛してしまうのではないでしょうか? もちろん、森田療法等、神経症は改善し得ますが。
お礼
確かに、神経症は自己完結的というより、社会的な症状だと思います。それを突き詰めると、人類創世記になりそうですね。 トラウマ、というものに鍵があるのでしょうかね。つまり、熱さを知りすぎている、ナマスを吹くということわざの通りかもしれません。あとは、猫舌かどうかですね。
- gangiyou
- ベストアンサー率19% (8/42)
http://report.huuryuu.com/why/index.html こういうサイトがあります。
お礼
ありました。それで、どうなんですか?
お礼
経験により自己不信が醸成されるというのは大きいでしょうね。 それにより、無意識的な過剰防衛が形成される、非常にありえそうです。しかし、リペアは可能だと思います。統合失調のところでもお答えいただきましたが、精神疾患の問題は、結局医学と哲学がいまだ乖離した状態にある、その欠落部分を各人の意識的努力で埋めていくという以外、なさそうですね。