• 締切済み

神経症の完治には?多くの意見を頂きたいです。

神経症の解消、メカニズムについて色々考えています。 最近、神経症とは混在意識と潜在意識の心の葛藤から生じる体の反応なのかもしれないと思い始めした。 フロイト、ユング論では神経症は、過去の否定的な感情の抑圧がキャパシティを超え、神経症という形で表面化する。無意識からの意思表示とかいいますよね。 無意識の蓋を開けたら恐怖心がなくなった。といった事例も目にします。 確かに、この原理は理解できますが、医学的アプローチとは離れています。 このようなアプローチは、催眠療法をうけるしかありませんか? 僕自身、パニック障害を発症し、閉所恐怖、会食恐怖が併発しています。 過剰なストレスと過労で発症しました。 対症療法だけでは、根治できないかもと悟り、否定的な感情やトラウマ、不安の根元を探しています。瞑想なども実践しています。 自己と向き合っているうちに、抑圧していた出来事にいくつか気づきました。神経症になるべくしてなったんだな。と痛感しています。 ただ、症状、身体的感覚に変化はありません。 もっと重要な抑圧があるのでしょうか? そもそも方向性が間違っているのでしょうか? もやもやした不安や自律神経反応は消えるのでしょうか? 過去の解決より森田療法で成功体験を重ねることが最重要なのでしょうか? 発症までは全くの健康体で精神的に崩れたことはありませんでした。 発症した途端、ここまで体、心に不調がでて困惑しています。 話がまとまらず、大変読みづらく申し訳ありません。 僕自身としては、過去への気づきは症状へアプローチする考え方にあたって、スムーズに向かうヒントぐらいなのかなと漠然と落ち着いているぐらいです。 ご意見や体験談など、たくさんのご意見を頂きたいです。 神経症の根治を目指しています。

みんなの回答

回答No.11

再度回答します。 不安に向き合う態度を質問して頂きましたので、その答えです。 貴方の問題点は『いくら小さな不安でさえも』問題として、受け付けないところが在ります。湧き上がる感情の受け流し方を学ぶ中に『不安の解消は存在します。』 今までの考え方や、生きる態度が『不安からの逃避、或は回避、或は防衛機制』になっていますので、急激な変化は無理と思います。 ただ結果としての変化を示しておきますので、焦らないで対処して下さい。 『湧き上がる感情は、只の雑念の中の一つにしか過ぎません。』雑念は人間の頭の中では、海の波のようなものでしか在りません。寄せては返しているものです。 その雑念の内の『何か』が貴方の症状でしか在りません。湧き上がる雑念を『只の雑念と出来た時』貴方の不安は解消します。それは『小さな不安や、症状としている事を、自分で受け入れた時です。』 不安を受入れた時には、その不安が不安のままで『大安心に変化します。』それが悟りです。 不安を問題としない貴方の態度が完成された事を意味します。 そうなる為には『湧き上がる不安を問題としないようない生き方が大事です。』 森田療法での恩師、鈴木知準先生の言葉で締めくくります。 『ノイローゼの一年は座禅を十年した事と同じ』そうして『ノイローゼは悟りを開かないと治らない』です。 この意味は神経質な性格の人が、大安心の人生を送る事が出来るという意味です。 そうなる為に『湧き上がる不安や症状を口にしない態度を学ぶ事です。』 そういう態度が完成する時の事を、『不安心即安心』や見性と表現しています。 今の貴方にとっては『症状』がきつく感じられるかもしれませんが、症状の改善を求めなくなった時が『完治した時』ですので、症状の事を口にしない生活を守る事が唯一つの完治する道と思います。 先生は(騙されたと思って)試みに私の云うとおりの生活を守って下さい。と言っていました。 貴方にもそうして欲しいと思います。

221soi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分を苦しめている恐怖や不安感が、ただの雑念、すなわち「気にする必要のない情報」だということを感覚的につかんでいく作業が悟るという事なのでしょうか? 生き辛さの意味を知るという事なのか? 今は、しんどいですが、日々、精進します。

回答No.10

>湧き上がる自分の感情に流されない人間 是を体現するにあたって、気にしそうな時、不安に苛まれそうになった時、自分をスッとこのスタンスへ戻してくれる言葉や心構えの基本の様なものがあれば尚、いいのでしょうね。 という質問を頂きましたので書いてみます。 本当は、此処だけが分かる時に『治り始めます。』そうして此処が分ったた時が完治です。湧き上がる自分の感情を嫌う事から、神経症と言うからくりが始まります。 神経症の治療方法の一つに『森田療法』が在ります。もう一つの昔からの方法に『禅』が在ります。ともに神経症の完治が出来る方法です。 その理論は『神経症の症状を起こしている者』との出会いです。 神経症の元を正してゆくと分りますが、それは『心の中に存在する不安です。』その不安を、心の奥底から感じている事です。生や死を、意識の根底から不安に感じている事が『神経症の根っこには存在しています。』 この不安の正体が分かる事を『自分の性が分る『=『見性する』=『悟りを開く』と形容しています。 神経症は『自我意識』VS『自身の命そのものの働き』が同調出来難くなる現象です。 人間の脳内に意識が二つ存在する事に『違和感が生じる場合』では、心の矛盾を感じている事を意味します。それは二つの意識に『機能的な齟齬』が生じているという意味です。 その証拠が『不安になり易い性格や、神経質な場合です。』それは自身の心の在り方に疑問が生じている事を意味します。 健常者と言う人達には、いくら説明したところで『漠然とした不安や、何処から押し寄せているかわからない、得体の知れない心理的な圧迫感は』たぶん理解出来無いかも知れません、何故なら二つの意識の間には、飛び越えなければならない、溝が存在していないからです。 不安になり易い人達や、神経質な人達には、二つの意識の間には『飛び越えがたい溝が存在しています。』その溝の事を、川に例えて、向こう岸、つまり『彼岸』と形容しています。 彼岸に至る時、神経症は完治しますので、そうなる為の道筋を書いてみます。 神経症の場合は『身体も心(脳の機能)も正常です。』いくら精密に検査をしたとしても異常は見付けられません。事実関係としては『健常者と全て同じです。』 唯一つだけの違いは存在しています。それは『意識性が強い事です。』この意識性の強さを『我が強い』としています。この場合に問題となる事は『無意識の世界に入り難くなる事です。』 無意識の世界は『右脳が占有している世界です。』この二つの意識が戦うという意味が、『意識する自分』VS『無意識の自分』が戦うことを意味します。 彼岸に至る時『心の矛盾は解消されます。』その時が完治です。そうなった時に感じる事を書いてみます。 今までは『症状が有るから苦しくて、症状の改善や消滅に力を尽くしていましたが、』神経症の完治とは『症状とは無関係であった事が分ります。』 その時には『症状が在るとかないとかには、自分の関心が無くなっています。』症状が在ろうが無かろうが、どちらでも良くなっています。 症状を無くそうという態度や、考え方が、『ただ普通の事を、症状にまで高めていた事がが分ります。』 症状らしきものは、在っても無くとも関係ない事が分かるようになります。その結果として『症状らしきものが、意識を占領する事がなくなります。』=『症状が幻となって消えてゆきます。』 その結果として『神経症になった事も治った事も全て、意識出来なくなります。』すっかり症状の事を忘れ果てているようになります。それが完治です。 そうなる為の心得を書いて見ます。 神経症が治るという意味は『症状を問題としない人間になる。』と言う意味です。今感じている症状としている事柄は、実は『生きてゆくために必要な事柄です。』 意識性が強い事)自我意識が強い事)と『命そのものの働きが強い事』によって、二つの意識に、同調性や協調性が生じ難くなっています。『自分自身の心同士がぶつかり合っている。』と言う意味です。 この事を解消して、二つの意識に、又協調性や同調性が返ってくる現象を『悟る』といっていますので、そうなる為の心得です。 自我意識に送られてくる情報を受け取って『感情が湧き上がるシステムになっています。』この情報の受取りをし無いようにする事が、症状を嫌う原因となっています。そうして薬の効能になっています。 この情報を『選り好みしないで受け取る時』神経症は治っています。そうなる為の方策は『湧き上がる自身の感情に良し悪しを付けないでいる生活を守る事です。』 ただ是だけが治りへの道です。 右脳の意識は脳梁を介して情報を送っています、自我意識は、その情報に良し悪しを付ける為に。その情報は、間違った受取り方をされる事になっています。 この生き方を、森田療法でも禅でも『不問』としています。この不問と言う意味が分かる時、治っていますので、『不問』の意味をもう少し詳しく書いてみます。 不問と言う意味は『症状の事を口にしない。』と言う意味です。 頭の中では『症状が在って苦しくてきつい』と考える事は自由ですが、その事を口にしない生活です。『症状の事を口にしない生活を守る事が完治への道です。』 そういう生活を守りながら、禅を学ぶ事も有効です。私の場合では、鈴木大拙博士の著作集を読む事で完治した経験が在ります。 『禅問答が分かる時』神経症が完治します。その時に『生死の問題が解決します。』湧き上がる不安とは『自分自身が発信元だと了解出来るからです。』

221soi
質問者

お礼

ありがとうございます。 心に刻みたいと思います。 正しく無意識から発信される恐怖感、不安は、今までの自分の考え方からくる生き辛さの反応だと感じます。 その生き辛さを見つめ、修正を図ることは、「不問」の精神に反しますか? 生き辛さの傾向が、大体わかってきた感じはするのですが、恐怖感が消えることはありません。 分かりやすいスタンスとして、沸き上がってく不安に対して、「不問」とは、 ・不安を認めてあげて、見つめてあげること ・不安を無視して知らないふりをする ・不安を十分感じてあげながら、消えるまで無意識と共生する どのような姿勢でいることが最善ですか? もう一つ質問させてください。 心から沸き上がる不安が止まりません、自分の中から生じているとわかっているのですが、相手をしていないつもりでも、少なからずは、意識が向いていて、気力を消耗してしまい、うつのようなダウン状態になっています。 気力を貯めるために補助的に薬を使いながらこの姿勢を続けることは、ダメでしょうか? 質問ばかり連投してしまい申し訳ありません。 お答え、お待ちしております。

  • kousan7
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回答No.9

考えてみれば、お釈迦様も神経症で苦しんだと言われていますから、ある意味症状が回復するというのは悟りに近いことなのかもしれませんね。自意識過剰、自分しか愛せない、甘えの欲求、コントロール、とかっていうところでしょうか?

221soi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おっしゃる通り答えは「悟り」のようなもので自己の中に答えがあると思います。 ただ、これを探すにはどうすればいいのか。。 難しいです。

回答No.8

私の場合は、夏休みの一番辛かったときはメイラックス2mg(朝・夜)だけで(薬が嫌いで初めは飲まなかったです)、学校が始まり不安なことがたくさんあると先生に相談したところジェイゾロフト25mg(夜)とソラナックス0.4mg(頓服薬として)が追加されました 今はメイラックス1mgとジェイゾロフト25mgを夜だけ飲んでいます それと私の経験ですが、参考になったら嬉しいです 本で楽器や園芸なんか手を動かすことがいいと書いてあったので、前から興味のあったウクレレを買い、1曲弾けるのを目標にしてやってました メイラックス2mgとウクレレ前は本当にずっと気持ち悪くて不安にかられて、外に出ることも辛く、またほぼ絶食、寝たきり状態でした しかし薬を飲みウクレレをやり始めると段々と調子が良くなりご飯も少しずつ食べられるようになりました しかし、学校が始まると昼食は食べられず、電車も怖く、症状はまだ出ていました それでも頑張って少しずつ無理しない程度に昼食を食べたり、電車で通えたら褒めたりしてると段々と良くなってきました 私が不安障害になったのは多分去年の7月、病院に行きだしたのは8月末、薬を飲まず何もやらない時期が本当に辛く生き地獄のようでした そして薬を飲み、ウクレレをやり学校へ通い始めると症状が出ることが段々と減っていきました 正直11月頃までは学校でご飯を食べるのが不安でしたが、普通に食べられていました また11月頃からは学校のカウンセリングにもかかり、症状が出なくなりました しかし不安なことは今でもあります、今でも外食は全部食べられません それでも、今年は海外に旅行することができ、一人暮らしも始められるようになりました なので、症状を恐れずに行動してみたらどうでしょうか また人に話を聞いてもらうだけでも凄く楽になりますよ そんなことをしてみたら、きっと時間が解決すると思います 聞かれてないことをたくさん書きましたが、相当辛いことはわかっているので、何かお役に立てたらと思い書きました

221soi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 薬を補助的に頼ることも検討してみます。 何も行動できないのは、本末転倒ですね。 手を動かすこと。参考にさせていただきます。

回答No.7

私は去年の7月に不安障害になり、今はだいぶ良くなりましたが私も外食にはまだまだ抵抗があります 私の経験で言うと、あんまり考えたり症状について調べたりしない方がいいと思います 勿論、質問者さんと私とでは性格が違うのではっきりとは言えませんが、いろいろ考えると精神的に疲れます、そこからまた不安材料が生まれたりもします 実際私は考え過ぎて予期不安にかられたり、焦燥感にかられたりしていました またトラウマや原因を考えるばかりでは、行動できることが減るばかりだと思います 過去や先のことを考えるより、今現在の症状と向き合い、行動することが大事なのかな、と感じます 不安障害などはゆっくり、本当にゆっくり良くなって、でも良くなったと思ったら症状が出て、それでもちょっとずつではあるものの軽くなっていきます 完治するのは正直難しいかもしれません(私は半ば諦めてます)が、薬を正しく飲んで苦手な状況に少しずつ足を踏み入れれば、きっと良くなります 完治を目指すという考えは一先ず置いて、症状が良くなってるということを実感すれば心が軽くなり、もやもやした不安が消えるのではないかと思います 今は気楽に考えたりするのは難しいかもしれませんが、嵐が過ぎ去るのを待てばだいぶ楽になります 焦らないで行きましょう!

221soi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 確かに考えすぎると疲れますよね。 執着に繋がってしまうし、余計意識にする結果に繋がります。 自分がどうしてそうなったかがわかれば、安心、完治に繋がるとも感じるので、そのあたりのパワーバランスを見ていかないと、心が持ちませんね。 おかげで、僕は二次的にうつ症状が出てしまいました。 ichi31031様は、服薬はどのように行いましたか?

回答No.6

神経症の原因は、人間の脳内に二つ意識(二人の人格)が存在するためですので、科学的データを載せてから詳しく説明したいと思います。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” この研究がその後、余り進められていない事を、残念に思いますが、この二つの人格が『心の矛盾』を起している相手ですので、右脳の意識に付いてもう少し詳しく書いてみます。 貴方の場合も、誰の場合でも、脳梁を切断した場合では、其々の脳には『それぞれ独立した意識』を持っている事は、科学的に証明されています。 この二つの意識が『人間に障害をもたらせる場合があります。』この場合では『身体の機能検査でも。心(脳)の機能検査でも、健常者と、障害に感じている人もどちらの場合も正常です。 此処までは健常者と違いがありませんが、違う事は只一つだけです。その違いとは『訴える事が在る事です。』『心の違和感として、或は行動の違和感として、或は身体の機能の違和感としての、執拗な訴えです。』 検査をした段階で、『医学的、或は科学的に正常でありながらです。』 こう云う機能検査において『正常である事で』自律神経失調症や、神経症や、心を病む事において、『今の医学ではその原因が、未だ分っていません』という宣言をしていますが、その原因は簡単です。 聖書にあるとおりです。その原因とは『知恵が付いたからです。』人間に障害と思われる事柄が増え始める年齢にその、原因を求める事が出来るからです。 人間の心も身体も行動も自在に出来て、一切の違和感や、疑いを抱く事がない世界を『天国』と形容しています。その天国に一番近い存在を、聖書では『幼子』としています。その理由は『疑う事を知らないからです。』 その原因に気付く事が、人間としての、人格に気が付く事になります。 幼子には『不安が余りありません、在ったとしてもその場限りのものです。少なくとも、予期不安を抱く事も、自分は何者か?と云う事を考える事はありません。』 その理由と、人生を疑問に考える事が、時期を一つのものにする理由が『脳の機能分化の完成です。』右脳の意識は、無意識の底に沈んでしまい、『自我意識とは別な機能として、自我意識を支える事になるからです。』 自我意識は自我意識として、学ぶ事によって、独自の考え方や、行動する事を学びます。そうして一番の障害になるものが『言葉』です。自我意識は言葉でものの判断をするようになるからです。 人間の五官から入る情報は、自我意識と、右脳の意識が共に同じものを見ています。右脳には言葉がありませんので、言葉以外の情報によって、自我意識と交信しています。 具体的な例で説明するなら、高いところにいる場合の情報です。その高さの情報を瞬時に教えています。『怖いと思わせる情報と共に、その高さやその外の事なども含めて』瞬時に教えています。 この情報を、受取ろうとしない場合が『高所恐怖症』と云う事になります。そのまま受け取っておくだけで、その情報は、もう送られてきませんが、受け取りを拒否した場合では『送り手は、再送して来ます、そうして再送する場合では。その情報は、拡大とか、大きくされた形で送られて来ます。 小さな不安という情報が、大きく拡大された場合では『恐怖』と言うものに変化されて送られて来ます。この自分自身の脳内の現象をパニック障害といったり、恐怖症と言っています。 命の働きは、生まれる前から働いています。生命として芽生えた瞬間から、働いていますが、その始めの働きが細胞分裂をする事を知っている働きです。 生まれてからは、不安や恐怖や安心する事はもちろんの事、心臓や呼吸数やホルモンの調節や、自律神経や、交感神経等も全てその場、その時にあわせて、ちゃんと正常に作動しています。 そういう事を『習わなくとも知っている働きが』命の働きです。 心にも影響を与えています。『お腹が空いた時には、求めさせる働きです。』『便所に行くべき時には、便所のありかを探すように指示さえ出しています。』 暑い時には『身体には汗を流させる機能として働きながら、心には、涼しい所や冷たい水を求めるように指示さえ出しています。』 こういう全人格的に、人間を『一つの生命体として維持する機能が』右脳に存在する働き=命の働きです。 禅では『それ、とか、あれ』と言っているものです。『赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入す。 未だ証拠せざる者は看よ、看よ。時に僧有り、』と表現されている者です。 禅の話をした理由は、人間の不安解消の『究極的な意味が有るからです。』 神経症であれ、自律神経失調症であれ、心を病む事であれ、全ての人間の『心の奥底に巣食っている不安や恐怖心が』その大元に存在しているからです。 それは形を変えて、疑問という形かも知れません。その疑問とは『自分は何処から来て、何処に行くのか、という風な疑問です。 決して幼子が、感じないような疑問です。 神経症の治りを説明します。医学的な検査が証明している通り、何処にも異常は在りません、『意識に挙がった事柄を、異常として受止めている事が原因です。』 意識に挙がった事柄とは『違和感です、疑問です。』この違和感は、命の働き(右脳の人格)から送られてくる情報を、違和感として感じているためです。 ですが健常者の場合では、只そのままにして(違和感を感じないで、受取っているだけです。)同じ情報の受け取り方の違いによって、違和感として感じています。 誰にでも、脳梁を介して送られる情報を、『只闇雲に嫌っているだけです。』その嫌う事によって、受取りを拒否する事から、何時までも再送されてきます。この繰り返しが『意識地獄の元になっています。』 何時までも悪循環なっている理由です。 結論から書いてみます。 神経症が治らない人の場合では『異常ではない事を、異常なものと決め付けて、症状が在ってはいけないものとして、症状の改善を図っています。』 つまり神経症の治りを『症状の改善として、間違った努力を繰り返す場合です。』 健常者としての人間が、普通に湧き上がった感情に、違和感を持ったために、意識の外に追い出そうとして、その湧き上がる感情の、殊更なる拒否感を抱いた場合、その情報を送る者が、執拗にその情報を送り続けることになります。 この場合に、更に湧き上がった(異常ではない普通の感情)を尚更嫌って、『心に湧きあがってはいけない感情とした場合』に、『症状として決定します。』そういう、症状を治したいという努力が、異常ではない事までも、『異常な症状にまで高めてしまっています。』 症状の改善からの努力を『一生、惜しまない場合では、症状が無くなる事は在りません、言い替えるなら、一生症状に苦しむ事になります。』 その反対に、神経症の治りが『症状の改善にあらず』と直感出来た人には『完治が存在します。』その治り方は、『症状はもう治らないとした場合です。』 症状はもう一生治らない事だから、として、症状の改善を諦めた場合です。『神経症の治りは、症状を取り除く努力を、やめた場合に、既に治っています。』 症状を邪魔なものとする、生きる態度が作り出している妄想です。いくら辛くとも、症状の相手をしない生活の繰り返しが、治りへの道です。 心理的な話で説明するなら、『症状を受け入れた時が、完治する時です。』受入れられない心が作り出していた妄想が、症状です。 湧き上がる自分自身の感情のうち、『良い事のみを喜んでいて、心地悪い感情の受取りを拒否する、生きる態度の誤りが、普通に湧き上がる感情を『心の違和感にしています。』 生きる態度の誤りを認めた時が『完治する時です。』それは、症状が在っても良かったものと分かる時です。 症状は誰にでも在る事を了解した時です。症状を受け入れた瞬間から、症状が意識には上がらなくなります。症状を忘れた時とは、『症状(湧き上がる自分の感情)を問題としない人間性に成長した事を意味します。 神経症を治す事とは『症状の相手をしなくなる時です。』症状を問題としない人間性とは、『湧き上がる自分の感情に流されない人間です。』 その始めとは『湧き上がる自分の感情に』良い事だけを求めない事と、悪い事の追い出しをしない事です。 他の表現をするなら、良い時には『喜びすぎない事』悪いからといって『落ち込み過ぎない事』只それだけです。 神経症の原因は、『湧き上がる自分自身の感情に、右往左往している事』を意味するからです。

221soi
質問者

お礼

ありがとうございます。 不安や恐怖は左脳の発達からの産物なのですね。神経症の神髄が少し理解出来ました。 時々、不安や恐怖がどっと押し寄せ、コントロールできず、身動きが取れなくなってしまうような状態になる時があります。 日常でも不安感や身体的な違和感が抜けず、自分を取り戻すことができずにいます。 これらを受け入れ、気に留めず、日常を取り戻していくのは、拷問に耐える様な根気が要りそうですが、治りたいのならやるしかありませんね。 >湧き上がる自分の感情に流されない人間 是を体現するにあたって、気にしそうな時、不安に苛まれそうになった時、自分をスッとこのスタンスへ戻してくれる言葉や心構えの基本の様なものがあれば尚、いいのでしょうね。 さて、神経症のメカニズムや治る過程を詳しく教えて頂き、大変参考になりました。 No,3のお礼で質問させて頂いた項についてtumaritou1様の見解を頂きたいです。 パニック発症後、自身の反応に寄って症状を定着させてしまったことが理解出来ました。 ただ、発症当時は、ただストレスで疲れたのかぐらいに捉えていて、予期不安もなく、受け流していました。しかし、仕事に集中していようが、リラックスしていようが、突然、呼吸ができなくなる衝動や不可解なめまいがやってきて、自分は何かの病気になってしまったのかと思った程でした。 脳科学では、何らかの働きで前頭前野背外側部の血流が滞り、扁桃体から発する防衛サインが暴走し、前頭前野がコントロール出来なくなる状態がパニック患者やうつ病患者にみられると発表されている様です。 心理セラピーの分野では、右脳に抑圧していた感情や否定的なイメージが許容範囲を超え、現実に当時の感覚や恐怖感を呼び起こしていると言われている様です。 もし、これこういったメカニズムが存在しているとすれば、感情の浄化は必要なのかと感じていました。 一体、私の体に何がおこってしまったのか不安です。確かにストレスや過労は感じていましたが。。

  • d194456
  • ベストアンサー率27% (423/1524)
回答No.5

> 否定的な感情について憎悪を強めることではなく、   冷静な状態で居られる現在から過去の「怒哀」の感情を浄化に導いてあげたいのです。 僕の使う心理療法では、今ある問題の始まりが過去にあったとしても、今もある問題は今の生活の中から生じています。過去の感情が解決の役に立たないものだと考えています。 「冷静な状態で居られる現在」があるのなら、過去の憎悪は、過去だけのものに成っている筈ですので、 どの様に考えようとも、今ある問題とは別のものだと考えられませんか。 本来、今の感情の方が過去の感情よりも優先する筈ですがね。

221soi
質問者

お礼

過去と現在を切り離すことは必要ですね。 過去の感情については、浄化という形であれ、執着とも言えますから。 方向性によっては現在への推進力もなくなってしまいます。 ただ、現在の問題を解決するために、否定していた過去を認識することはそれほど良くないことなのですか。 現在と過去を冷静に切り離すための作業として行うも必要なこともあるのかなと考えていました。 現在の感情を過去と切り離し、解決を図るのは、最優先と感じます。 ただ、過去の事実や感情から目を背けたり、抑圧や過去への執着に繋がるのは避けたいので、よりよく生きるための自己への気づきの一貫としてとらえています。 私は、ただ治りたいだけで少し勉強した程度なのでやはり詳しい方の意見は参考になります。

  • ako29
  • ベストアンサー率52% (23/44)
回答No.4

あのー、そんなに考えてて疲れませんか? 病気についていろいろ調べてらっしゃるようですが、あなたは 学者になりたいわけじゃなく、治りたいんですよね? 焦点を 治すために何をすべきか?に絞りませんか? パニックなら薬を飲んでれば症状はある程度抑えられてるはず ですよね。 で、なぜその症状がでるようになったか、気づきましたか? あんまりユングやら、医学的アプローチやら考えずに あなたが好きな音楽を聴いたり、漫画を読んだり、散歩したり したほうが根治にははるかに良いはずです。 そんな風に過ごしながらちょっとずつ自分のこれまでのことを 振り返ってみたら?と私は思いましたけど、余計なお世話ですかね。

221soi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 もちろん焦点を全て治るために絞ったことによって抱いた疑問です。 神経症になったのは、今までのモノの捉え方や意識の歪みが自分の中にあったからだろうなと感じました。自分の中に原因があるなら、見つめた方がいいんじゃないかと思い、皆さんの体験を聞いてみたくなったのです。 症状を抑えながら漠然と療養しているのが、逆に怖くなってしまったんです。 やっぱり自分を見つめてみたいと感じました。 散歩や自分のリラックスできる環境は大切ですね。幸い、今はそういった時間を過ごさせて頂いています。 余計なお世話ではありません。ありがとうございます。

回答No.3

神経症の完治は存在しますが、完治する道は遠いかも知れません。何故ならば、神経症と健常者との違いに気が付く事が完治だからです。そうして健常者と神経症で苦しい想いでいる事には『違いがないからです。』 もっと言うならば、神経症の人と健常者という人達では、『身体の機能も脳(心)の機能も全く正常に働いています。』 正常に働いていない場合では、検査に引っかかる事実が在るからです。全ての検査が健常者と同じです。『全て異常なし』という結果です。 その違いは『意識する』です。その意識した内容が『症状名になっていると思います。』 如何いう理由で、神経症が発症するのか書いてみます。 人間には意識が二つ在るからです。一つは『自我意識です。』この意識は左脳の機能としての意識です。五感から入る情報を、右脳に存在する意識から『言葉によらない情報として貰って、その情報によって、感情が湧き上がらせられています。その情報を『言葉にして、考えが湧き上がるシステムです。』 右脳の働きを説明している脳科学者の動画が在りますので、先に載せて見ます。その後で詳しく説明します。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この動画の、注目する事柄は、左脳の自我意識に、感情が湧き上がるシステムです。右脳からの情報によって、感情が湧きあがっている事です。 右脳の意識に付いて、もう少し詳しい事を説明します。右脳の意識は『無意識の意識』として働いている意識です。この無意識の意識とは、仏教においては『仏性』と言われているものです。 この意識の働きを、もう少し詳しく説明します。 右脳の意識は、『人間を人間として働かせている意識です。』そうして機能的には、自我意識とは全く違い機能から成り立っています。 右脳の機能は言葉にするなら『命そのものを働かせている意識です。』かなり分り難い事柄を書いていますが、何時か、私の書いたものに納得出来た時、貴方は神経症の完治と言う意味を『体得するはずです。』 と言う事で、難しく感じるかもしれませんが、今は分からなくとも良いですので、ただ読んで置いて下さい。分かる時が来た時には『ピタリと分るからです。』 人間は、自我意識と『命の働き』との共同作業で生きています。処が、右脳の意識が働いている場合では『自我意識は、無意識の自分に、身体と心を預けている事を意味していますので、自我意識がない状態です。』 眠る場合を例にすると分かり易いかも知れません。 眠る場合には『自我意識が眠っている。』と普通は誰でもが考えているかもしれませんが、自我意識は眠っていません。本当の眠りに入る時は『自我意識は、身体と心を、無意識の自分に預けています。』 そうした場合に『自我意識としては、意識が無くなっています。』無意識の自分に切り替わった事を、知らないでいるだけです。そうして、『心と身体を預けられた、無意識の自分が、心地良い眠りに入らせています。』 眠れない場合では『自我意識単体で眠りに入ろうとしている事を意味します。』意識を凝らして眠り付くのを、望んだり計らったりして、待ち望んでいますが、眠りに入る事がで来ません。こういう場合を『不眠症』と言います。無意識の自分と仲違いをしていて、『無意識の力を借りる事が出来ない状態になっているからです。』 人間が普通の暮らしが成り立つためには、『無意識の力が、どうしても必要になります。』無意識というより、右脳の人格=命の働きが必要という意味です。 命の働きと仲違いする場合を『心に矛盾を抱えたり、心が争ったり、心が対立したり、心が分裂する。』といいます。 命の働きは、人間の命の維持装置です。身体的な維持装置としての働きと同調出来ない場合を、自律神経失調症や、過敏性腸症候群といったり、原因不明の心身症と表現する場合があります、 そういう場合では、自分自身の命の働きの、機能のうち、身体の生命維持装置としての機能と上手く同調出来ない状態です。 神経症の場合では、行動面における、命の働きの機能と仲違いしたり、同調出来なくなる事が原因です。眠りに入る事と同じですが、人間の体が自由に動いたり、思い通りの行動が出来る場合では、自我意識は『無意識の自分に任せています。』その『無意識の自分への信頼感が無くなる事で』無意識の自分に任せる事が出来なくなっています。 命の働きと『自我意識が感じる感情や、湧き上がる考え』が心理面や、心の問題として、同調出来なかったり、齟齬感や。違和感を抱く場合が在ります。そういう場合が『心を病む』と言っています。 まとめて書いてみますと、『自律神経失調症や、過敏性徴症候群』の場合では、自分の生命維持装置として働く機能の中で『身体機能として働いている自分のもう一つの心と矛盾を起している状態です。 神経症の場合では、自分の生命維持装置として働く機能の中で、行動面として働く、自分自身の心が矛盾を起している現象です。 心を病む場合では、自分の生命維持装置として働いている機能の中で、湧き上がる感情面や、考える事に付いてを司っている『自分自身の心と、矛盾を起したり、同調できなくなる場合です。』 従って今書いた事柄(症状)には共通する点があります。症状を起こしている者が自分自身の心という共通点ですので、当然、症状が全く違うとしても、共通点があります。 『漠然とした不安や、生き難い想いです。或は、意識地獄状態です。』要するに、心が騒がしい状態です。自分自身の心が内部抗争を起していますので、当然『自分の関心は、自分自身の心の状態の観察にいそしむ事を意味します。』 現実的な対応をしている暇が無くなって、自分の頭に湧き上がる、現実的には存在しない空想の世界で、現実にはない事柄(妄想)の相手をする場合も出てきます。 その妄想が『症状です。』現実には存在しない世界を、現実と思い込んでしまう現象です。 今書いた事柄『症状』に苦しんでいる現実は、確かに現実に存在していますが。医学的な現実では『健常者と同じ=異常無しです。』 具体的に聞きたい事がありましたら、質問下さい、今日は仕事がきつかったし、夕飯前ですので、後日返事します。

221soi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私が欲していたような情報かもしれません。 幾つか質問があります。というかかなり詳しい方の様なので聞きたい事が多々あります。 お疲れの様ですので、答える気になった時で結構ですのでご容赦下さい。 >命の働きと仲違いする場合 納得出来ます。自身の体験として、私が抱えていたストレスから逃げようとすればする程、意識が向いてしまい不安は増強します。これは無意識からの働きを無視する行動であった様ですね。 反対に、なるようにしかならないような開き直りの精神、言い換えると自分の弱さや恐怖の根源を認識した時にスッと恐怖心が消えるような体験を幾度か体感した為です。この質問に至った経緯です。 回答者様の体験として、自身の過去の否定的な感情の浄化や認識は必要だと思いますか? また、私がパニック障害になった当時、毎日強烈なめまいや吐き気、安静時などに突然来る恐怖感がありました。これはただ肉体的、精神的に疲れていたということなのでしょうか。 回答者様のおっしゃる右脳(命の働きから)からの何かの訴えなのでしょうか? 自律神経症状などがある今、どういった状態なのでしょう? 左脳の意識(自我意識)は思春期から形成された人格というか距離の図り方のようなものと、感じましたが、右脳の意識(無意識の意識)を形成したのも自分ですか? 人間が健全に生きるための情報回路であるということなのですか?

noname#244462
noname#244462
回答No.2

かなり勉強されてる様ですが難しく考えすぎているのではないでしょうか?自意識過剰、過剰な自己愛、他人への依存性、自己中心的思考、完璧主義など少しずつ改善していけば寛解は可能だと思いますよ。 その過程で「やっぱりダメだ!どうせ出来ない」などと思ってしまい、動きを止めると元の木阿弥です。すこしずつしか出来ない自分を否定しないでその都度、「これでいいんだ!」認めていけば、結果的には大きいものになってると思いますよ。 ストレスに関しては「他人と過去は変えられない」ので人の言動に腹を立てたり、過去の事を思い悩んでも無駄な事です。 また、全ての事を完璧にこなそうとしても無理です。出来ない事は出来ないと認めればいいんです。他人の目など関係ありません。 瞑想もいいでしょう。ただ早急に結果を求めるのではなく、じっくり取り組めば結果は出ると思います。 個人的な意見ですが催眠療法は胡散臭いものもあり、そもそも他人に依存しているのでお勧めしません。精神疾患は自力救済以外には改善しません。薬もあくまでも補助です。

221soi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >自意識過剰、過剰な自己愛、他人への依存性、自己中心的思考、完璧主義など少しずつ改善していけば寛解は可能だと思いますよ。 この言葉に尽きますよね。実行していかないとと強く感じます。 >ストレスに関しては「他人と過去は変えられない」ので人の言動に腹を立てたり、過去の事を思い悩んでも無駄な事です。 思い悩む気はありません。むしろ過去のそういった感情が抑圧されすぎて、心が病んでしまったのではないかと考えています。 なので、冷静に見つめて受け入れたいのです。不安や葛藤に原因があれば、自己解決していきたいのです。 催眠療法はやっぱり胡散臭いですよね。自分を見つめる補助として興味はありますが、やはり自身で解決していかなければいけませんね。

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