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明智光秀の軍勢のその後は
本能寺の変、織田信長を討ち取った明智光秀の軍勢はその後安土城に籠り 味方をしてくれる戦国大名に文を出していた。とあります。 しかし、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が毛利との和睦を結び、中国大返しを為して 大阪まで迫ってきた。そして秀吉と光秀の山崎の合戦に至るわけです。 その十日間(三日天下はウソ)あまり、京の都を中心に明智光秀の軍の兵は かなりの数に上っていたと思われます。しかし山崎の合戦以降、散り散り になり、全く体を為さないことになっています。 本能寺の変の時の軍勢の数はどれくらいか?。そして山崎の合戦以降の 明智の軍はどれくらいになったのかを知りたいです。 詳しい方ご教授お願いします。
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本能寺 明智光秀の軍勢 約1万4千 山崎の合戦 明智光秀軍 約1万6千 秀吉軍は4万2千と言われています。 光秀は、柴田勝家のほうを警戒していたようで、 そちらのほうに丙を裂いていたのと、 秀吉の進軍が早すぎて対応が出来ず、 丙を整える暇が無かったそうです。 光秀本体が側面から攻撃されたことで、前線で踏ん張っていた軍勢も壊滅状態になり、勝竜寺城に退却を余儀なくされたそうです。 勝竜寺城に退却した際には離反や脱走などが相次ぎ約700人と言われています。 どのくらいの人数で退却してきたのかは不明ですが、修繕途中な上に平城で収容能力が無かったそうです。 勝竜寺城を脱出する際は5~6人のお供しか居なかったそうです。
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- zep19
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はじめまして 本能寺の変での兵力等は他の回答者の方のおっしゃる通りだと思いますので 山崎の合戦時の明智方の体勢を述べますと まず、五宿老の一人で連枝衆の明智光忠が二条城攻めで信忠軍により重傷を負い療養中 近江の阿閉貞征・貞大父子、池田秀雄、後藤高治、多賀常則、小川祐忠、京極高次、若狭の武田元明らが参陣 また筒井順慶寄騎の山城国槙島城主の井戸良弘が兵500を率い参陣 (※筒井順慶の元に秀吉からの使いがまだ到着しておらず、去就を迷い、とりあえず井戸を光秀に遣わせた) ◎山崎の合戦場での配備 ◆先手・加勢4000 斎藤利三(五宿老・丹波国黒井城主) 柴田勝定(譜代・丹波国柏原城主) 阿閉貞征(近江衆) 阿閉貞大(近江衆) 池田秀雄(近江衆) 後藤高治(近江衆) 多賀常則(近江衆) 小川祐忠(近江衆) ◆山手先備(天王山)2000 松田政近(丹波衆) 並河掃部(丹波衆) ◆右備2000 伊勢貞興(旧幕臣) 諏訪盛直(旧幕臣) 御牧景重(旧幕臣) ◆左備2000 津田重久(山城衆) ◆光秀旗本5000 計15000 ◎安土城派遣軍3000 明智秀満(五宿老・丹波国八上城主) 荒木氏綱(丹波衆・丹波国園部城主) 同友丞重仲(丹波衆) 四王天政実(丹波衆) 今峰泰正(旧幕臣) 三宅業朝(連枝衆) 以下は城在番になりますが 変後に参陣した武将は旧臣などかき集めて合流していますが 明智領内の動員兵力から推測すると各城城兵は数百未満と思われます ◎丹波国 *亀山城番 木村吉清(摂津衆) ◎山城国 *京都所司代 三宅秀朝(譜代) *勝龍寺城番 溝尾茂朝(五宿老) 三宅綱朝(譜代) *淀城番 番頭義元(摂津衆) *伏見城番 池田織部(譜代) *宇治城番 奥田庄大夫(譜代) ◎近江国 *坂本城番 藤田行政(五宿老・山城国静原山城主) 妻木広忠(譜代) *佐和山城番 山崎片家(近江衆) 武田元明(若狭衆) *長浜城番 妻木範賢(譜代) 京極高次(近江衆) 長文失礼致しました
お礼
回答ありがとうございます。 詳しく書かれていて大変参考になりました。 ありがとうございました。
- ithi
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meido201 さん、こんばんは。 本能寺の変の時に13,000、山崎合戦の時で16,000位だといわれています。 本当はもっと動員できると考えていたのですが、指揮下に入っていた中川清秀、高山右近、女婿の細川忠興などが離反し、柴田勝家が北陸にいるための備えなどでかなりの数が分散したと思われます。 詳細は下記のURLを参照ください。 山崎合戦 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 本能寺の変の時 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
お礼
回答ありがとうございます。 そうですか、それだけ秀吉の動きが素早く対応ができなかった ということですね。 ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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別に「三日天下」とは3日間の事ではありません 「短い期間」の例えです 本能寺の変の時光秀が率いていた軍勢は1万~1万3千 そのうち本能寺には光秀が3800を率いて討ち入りました 妙覚寺(信長の息子信忠が居た寺)には左馬介秀満(光秀の娘婿)が討ち入っています(こちらが大体2500~2800と言われています) さらに堺に居た徳川家康を討つための軍勢が約4000 これを斉藤利光が率いて堺へ向かったとされます 山崎合戦時の明智勢は1万 羽柴軍は3万です (頼みの細川忠興、筒井順慶は味方せず。与力の高山右近と中川清秀は秀吉に加担のため明知は軍勢を増やせず) 山崎合戦では明智軍は3000程の戦死者を出し 更に近江坂本に戻る途中で光秀が討たれた事によって明智軍は崩壊しました 実際 雑兵や足軽が最終的に何人残ったかは分からないと思います
お礼
回答ありがとうございます。 おそらく明智光秀が討ち取られた時にはほんの数人になって いた。という前述の回答者さんの書かれていた通りでしょう。 ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 明智軍の崩壊はあっけなかったですね。 そして、雑兵の中には関ケ原の戦いにも参加した者もいたよう です。豊臣も徳川も敵側だったのに、それでも戦いに参加して 武勲を上げたいという気持ちからだったのでしょう。 ありがとうございました。