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先験的とは?二種類の「先験的」について
Transzendentalの訳語には「超越論的」の他に【先験的】という訳語があり、アプリオリの訳語もまた『先験的』だと聞きます。この二つは別物のようですが、どのように違うのでしょうか? 私の理解では、Transzendentalの訳語の【先験的】というのは、世界の探求の仕方として「経験に先行して経験によらず解明する」ということであり、アプリオリの訳語の『先験的』というのは、世界に対する知識として「経験に先立ってすでに備わっている、知っている」ということ、つまり、かたや探究の方法、かたや知識の獲得された経緯、なのだと思うのですが、二つの「先験的」の違いは、これでよいのでしょうか。
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お礼文ありがとうございます。 補足いただきましたが、後者のほうです。 坂部先生が仰っていますように事実問題ではなく権利問題を扱うということは、ーーより広く言えば活動一般から身をひきはなし、それを「超越」したところに考察の視点を設定して構造を明らかにしようということでそれが先験的(超越論的)方法という意味です。
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- ghostbuster
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#4~#6です。 そうですね。#8で引用してくださったように、 > > 「先験的(超越論的)な方法によって探求する > なんてことはひとことも言ってません。 と書いてはいけませんでした。大きな誤りがありました。 ご指摘ありがとうございました。 #6の回答で言いたかったのは、 > 「先験的(超越論的)な方法によって探求する、というのは、先天的(アプリオリ)な認識、事柄について探求する、という意味である」 という文章を見て、質問者氏が「先験的な方法」という「方法」を、あたかも実体的なもののようにとらえていらっしゃるのではないかという印象を受けたのです。 そこで、そうではないのだ、と。 「Aという方法によってBをあきらかにする」という論証の手続きを行うためには、まずAという前提が確実であることが求められる、ということが言いたかったのです。 もし、質問者氏が#9でおっしゃっておられるように 「活動一般から身をひきはなし、それを「超越」したところに考察の視点を設定して構造を明らかにしようとする」 という意味で質問者氏が「先験的な方法」をとらえていらっしゃるのでしたら、 > 「先験的な方法によって、先天的認識がどこまで可能かを明らかにする」 は何ら問題ではないと思います。 失礼しました。 そうしてご指摘くださいましてありがとうございました。 自分の理解の不備を見つけることができました。
お礼
でも、とりあえず、ここまでですでにとても勉強になりました。私としては、二つの先験的という言葉についての疑問がかなりクリアになりました。お答えいただくことはもちろんのこと、質問すること自体もとても勉強になるという事を知りました。かさねてお礼申し上げます。どうもありがとうございました。
補足
いえいえいえ、こちらこそ、本当にありがとうございます。 仰るように、 >「活動一般から身をひきはなし、それを「超越」したところに考察の視点を設定して構造を明らかにしようとする」 という意味で「先験的(超越論的)な方法」という言葉を捉えれば、 「先験的な方法によって、先天的認識がどこまで可能かを明らかにする」 は、問題ないとお考えですか。私も問題ないと思っていたのですが、 しかし、むむむ、するともしかして、お二人の回答は意見が割れているのでしょうか?? とりあえず「先天的認識がどこまで可能かを明らかにする」を「理性、認識の範囲と可能性を定める」という事と、まあ、大体同じようなこと としておきますと、かたや 「先験的方法」という方法によって、「権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事」をしたということではなく 「先験的方法」すなわち「権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事」である。が正しい というご意見、かたや 「先験的な方法によって、先天的認識がどこまで可能かを明らかにする」 は問題ないというご意見、 はて、どうなんでしょう・・・
no7ですが重要な個所が抜けておりました。 坂部先生はこう仰っておられます。 「カントは、理性批判の哲学の根本の方法として先験的方法を採用する」 失礼いたしました。
お礼
たびたびどうもありがとうございます。失礼だなんてとんでもありません。参考になります。できればもう少しお考えを聞いてみたいのですが、気が向いたらぜひよろしくお願いします。
補足
カントは、観察の結果、認識は、事実、こうなっている、という事を主張したのではなく、こうなっていなければ認識は成立しえないのだから、認識はこうなっているに違いない、つまり権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事をしようとしたみたいですね。 ただ、ちょっと表現力がなくてうまく私の疑問を伝えられる自信がありませんが、たとえば 「呼吸法によって精神を集中させた」 というとき、 「呼吸法」という方法によって「精神を集中させること」を行った、 ということであり、 あくまで「呼吸法」と「精神を集中させること」は別の事だと思います。 だから「呼吸法」すなわち「精神を集中させること」 という事にはならないと思います。 同じ具合に、 >カントは、理性批判の哲学の根本の方法として先験的方法を採用する という場合、 「先験的方法」という方法によって、「権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事」をした という事なんでしょうか。 それとも「先験的方法」すなわち「権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事」である。 という事なんでしょうか。
NO1,2です。 先験的方法について言及してなかったので、坂部恵先生の文章をご紹介しておきます。 「これは認識の発生的な事実問題(quid facti)を問うのではなく、認識を認識たらしめる認識の可能性の権利の根拠(権利問題 quid juis)を扱う。すなわち人間理性のアプリオリな認識を、ーーより広く言えば活動一般から身をひきはなし、それを「超越」したところに考察の視点を設定することによって、その構造をーーあきらかにしようとする方法である。 ご参考にしていただければ幸いです。
- ghostbuster
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> 「先験的(超越論的)な方法によって探求する、というのは、先天的(アプリオリ)な認識、事柄について探求する、という意味である」 これはちがっています。 まず、カントは > 「先験的(超越論的)な方法によって探求する なんてことはひとことも言ってません。 「純粋理性批判」という書物の目的は、わたしたちの認識のうちの先天的な形式を見いだすことによって、わたしたちの認識の条件とその範囲を確立することです。 ちょっとこの部分、原文を見てみましょう。 わたしが参考にしているテキストは河出書房新社版高峯一愚訳『純粋理性批判』ですが、岩波文庫だと少し訳がちがうと思います。 B25のところです。 -----B25からの引用--- わたくしは、対象にではなく、対象を認識するわれわれの認識の仕方に、この認識の仕方が先天的に可能であるはずのかぎりにおいて、これに一般に関与する一切の認識を先験的と称する。このような概念の体系は先験的哲学と呼ばれるであろう。 ----- こうやって自分がやろうとすることをあきらかにしたあと、そこからつぎのB26で、この『純粋理性批判』という書物で、自分がいったい何をしようとしているのかがつづいていきます。 ---B26からの引用---- われわれがこの研究を本来理説と称することができず、単に先験的批判とのみ称しうるという理由は、この研究が認識そのものの拡張を意図するものでなく、もっぱら認識を是正することのみ意図し、あらゆる先天的認識についてそれが認識の根拠として価値があるか無価値であるかを識別するための試金石を与えるべきものであるからであり、これこそまさにわれわれが今取りかかっている仕事である。 ----- >「先験的(超越論的)な方法によって探求する のではなく、先天的認識がどこまで可能かを明らかにする、ということです。 ここをくれぐれも、絶対に、まちがえないでください。「認識そのものの拡張を意図するものでなく」って言ってるでしょ? カントの議論のすすめかたは、「わたしたちはそれを使って何ができるか」という方法をとりません。もっと厳密にやっていきます。 カントの議論のポイントは、下でもちょっと書いたのですが 「そもそもそうした認識の対象と、認識そのものを同時に成り立たせている条件があるのではないか。 それを成り立たせている基本的な条件や構造は何なのか。」 それをあきらかにする、ということなんです。 「事柄について探求する」、っていうのは、まずその事柄がそこにあることを前提としなきゃいけませんよね。そういうこととは全然ちがってる、って、おわかりいただけましたでしょうか。
お礼
たびたび返答ありがとうございます。ただ、ちょっとよくわからなくなりました。むずかしいですね。
補足
ghostbusterさんのお答えしたいただいた内容は、 「カントは、ある事柄や対象や世界がどんな風に認識されるか、という事ではなく、 認識というものが成立するためにはその前提条件として認識の先天的な形式はどうなっていなければならないか、 また、その先天的な認識の形式からして、先天的認識がどこまで可能といえるのか、 という事を述べた。」 というような事ではないでしょうか。それは私もそうだと思うのですが、 「先験的な方法によって、先天的認識がどこまで可能かを明らかにする」 という言葉づかい自体おかしいとお考えなのでしょうか? こちらは私は問題ないかと思っていましたが。
- ghostbuster
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あちゃ、#4の回答、本のタイトルがちがってました。 中山元『思考の用語辞典』(筑摩書房)でした。 これには弟分もいて、『高校生のための評論文キーワード100』(ちくま新書)。「高校生のための」ってタイトルにあるんだけど、これがなかなかどうして、です。 ただ、哲学史的な視点となると、兄貴分のほうにかなり分がありますが。 ということで、訂正まで。
補足
質問の答えのみならず、勉強の方針、本の紹介までしていただき、ありがとうございます。大変勉強になります。 さて、先験的、超越論的、アプリオリ、などといった言葉は、使いはじめはカントとしても、今ではカントを離れ、様々な文脈で使われているようですね。私としては、カントが厳密に何をいわんとしたか、という事ではなく、そういった、さまざまな文章の中でよく出てくる言葉として、「先験的」という言葉が、おおまかなニュアンスとして、どんな具合に使われるか、ということを知りたいと思っています。 そういう訳で、できれば、もう一度ききたいのですが、先ほどのお答えだと、 >「先天的認識(アプリオリな認識)についての認識」が「先験的(超越論的)認識」 との事でしたが、確かにそれはそうだと思うのですが、だからといって、一般的な言葉遣いとして、 「先験的(超越論的)な方法によって探求する、というのは、先天的(アプリオリ)な認識、事柄について探求する、という意味である」 といったら、それは間違いですか?私は、なんとなく、それは間違いだと思っていましたが。
- ghostbuster
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補足欄、拝見しました。 理解の方向としてはまちがってない、と思います(わたしもそこらへんのお姉ちゃん(ん?)、というかおばちゃん(トホホ…)というか、なので、回答者の方から「これって~ですね?」といわれて、そうです、とか、ちがってます、とかなかなか言えないんです)。 カントの場合、言葉をそれぞれに定義づけながら、おそろしく精緻な論理を組み立てていきます。 だから、まるで単語帳を作るみたいに、言葉をひとつひとつ押さえていかなければなりません。ほんと、わたしも単語帳ではないけれど、そんなノートを作りました。 そのとき気をつけなきゃいけないのが、カントが使っていない言葉を、なるべく使わない、ということです。とくに、それ自身、定義が必要な別の言葉を持ってこない。 わたしたちは日本語で思考しますから、どうしてもその日本語が持つイメージに引きずられがちです。 この"Transzendental" というのは、カントが「認識を可能にする条件」として作り上げた造語ですから、まったく新しい概念です。 いっぽうで、これは"transzendent" (超越)という語から来ている。そうしてこの語をさかのぼると……というふうに、ひとつの言葉は西洋の思想史の脈絡から来ているわけです(ここらへん、もし興味がおありでしたら、中山元の『思想の用語辞典』を見てみてください。この本は言葉から思想史をたどっていく、大変おもしろい本です)。 ところが「超越論的」という字面を見ていると、それだけで、何か、ある種のイメージが湧いてくる。「先験的」とは全然ちがうイメージでしょ? このスゴそうなイメージよりも、淡々とした「先験的」(なるほど、経験に先立つから先験的か、みたいな)のほうが、わたしは個人的に好きなんですが、でもやはりのちの実存主義とのからみでどうしても「超越論的」と言ったほうが、うまくいく。だから、これから回答するときには気をつけることにします、じゃなくて、話がそれた、何が言いたかったかというと、日本語の「超越」という語に、引きずられないことです。 もうひとつ、とりあえず入門書でも何でも良いから、カントの思想の全体をいったん頭に入れておいて、まるでGPSで自分の位置を確認するみたいに、この部分は、全体のどのあたりにあるのか、たとえば「先天的認識が可能であるかどうか」という議論は、西洋の思想のなかでは、どんな位置にあって、カントの思想のなかではどのあたりにあって、『純粋理性批判』のなかではどのあたりにいる、という位置を確認しながら読み進んでいくといいと思います。このおおまかな見取り図を頭の中に持つと、グッと理解が進みます。 忘れないでほしいのは、それぞれの言葉の理解は、全体の理解に応じてしか、深まっていきません。「カント単語帳」はつねに修正され続けるものになるんです。 だから、「先天的認識」というのはどういうことだ、「物自体」ということはどういうことだ、「現象」とは、と、しっかりわかって先へ進みたい、という気持ちはものすごくよくわかるのですが、『純粋理性批判』を読んでいくことは、マリオがステージをひとつずつクリアして、最終的にクッパを倒すみたいにはいかないんです(ああ、あまり知的ではない喩えを使ってしまった…)。 とりあえず、いまのところは「この言葉はこれぐらいの感じ」「この言葉とこの言葉が対になっている」(ア・プリオリとア・ポステオリ、総合判断と分析判断、物自体と現象……)というあたりでとらえて、読みながら修正を続けていく。そのぐらいのつもりでいたほうがいいと思います。 入門書とか、解説書とか、図書館へ行ったら、カントならずいぶんあるはずだから、いろいろ読んで、あ、この人の言ってることはピンとくる、みたいな人をさがして、その人を道しるべに、とりあえずはおおまかな見取り図を頭の中に作ってみてください。 何か要領を得ない文章になりましたが、そんな感じで(笑)。
お礼
返答、ありがとうございます。出来ればもう少し教えていただきたいのですが、よろしければお願いします。聞きたい内容は、NO.5のほうの、この回答への補足欄に書きました。
- ghostbuster
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簡単に答えてしまうと「先天的認識についての認識」が「先験的認識」ということになります。 ただそのまえにちょっと整理をしておきましょう。 まず、a priori は「先天的」と訳されます。だけど、最近は訳さず、「ア・プリオリ」とそのまま表記されることのほうが多いのかもしれません。 Transzendental は「先験的」あるいは「超越論的」と訳されます(最近はもっぱら「超越論的」と訳されることが多いのですが、わたしはちょっと昔の岩崎武雄のテキストで勉強したので「先験的」という言葉のほうがなじみがいいからこっちを使っちゃってるんですが。ただ、このふたつの訳語のもとは、まったく同じものです)。 「先天的」と「先験的/超越論的」はまったくちがうものです。 ちょっとまぎらわしいので、ここから「先天的」はア・プリオリ、「先験的」は「超越論的」と記述することにしよう(ああ、めんどくさい話です)。こうすると、まったく別物、という感じがしてきますね(笑)。 まず、『純粋理性批判』というのは、わたしたちが「それ」と思っているものはなんであるか、そうしてどうして「それ」がわかるのか(どうすればわかるのか、ではなく、どんなふうに「それ」がわかるのか)をあきらかにした本です。 わたしたちが通常「「それ」は××だ」と認識できるのは、さまざまな経験によるものです。 まず、わたしたちが「それ」と認識しているものは、「それ」そのものではありません。目にうつる「それ」であったり、話で聞く「それ」であったり、ふれたり、においを嗅いだり、味わったりするわたしたちの感覚を通してふれる「それ」でしかありません。 そうしてまた「××だ」という認識、その認識そのものは、いったいどうやって可能になっているのでしょうか。 そもそもそうした認識の対象と、認識そのものを同時に成り立たせている条件があるのではないか。 それを成り立たせている基本的な条件や構造は何なのか。 そういうことを考えるために「超越論的」という言葉を作りだしたわけです。
お礼
ghostbusterさん、はじめまして。 哲学の話はむずかしくてよくわからないことが多いのですが、 こうやってお答えいただくと、大変参考になります。 どうもありがとうございます。
補足
冒頭の >「先天的認識についての認識」が「先験的認識」 のうち、 >「先天的認識」 をくわしく説明したものが、 >そもそもそうした認識の対象と、認識そのものを同時に成り立たせている条件 >それを成り立たせている基本的な条件や構造 ということでよいのでしょうか。また、 >「先天的認識についての認識」が「先験的認識」 >「先天的」はア・プリオリ、「先験的」は「超越論的」 ということからして 「アプリオリな認識についての認識が、超越論的認識」 ということを仰られているのでしょうか。
お礼文ありがとうございます。 この場合のアプリオリは知識とか判断の確実性を性格づける概念だと思うんです。 例でいえば、カントの言うアプリオリな分析判断、アプリオリな綜合判断、アポステオリな綜合判断などのアプリオリ、アポステオリです。 つまりアプリオリは経験では論破されない先天的必然性を意味しており、アポステオリは蓋然性を意味していると思います。 私も素人で人に教える立場にありませんが、興味がありましたので回答させていただきました。
お礼
richlandさん、返答ありがとうございます。 >経験では論破されない先天的必然性 というようなことをアプリオリの方の『先験的』 >「経験的世界を越えつつ、その成立の可能性を条件づける」 というようなことをTranszendentalの方の【先験的】 ですか。なるほど。 この二つはどちらも「経験では論破されない」「経験的世界を超えつつ」という風に「経験によらずに、経験に先立って」というような共通のニュアンスがあるのでどちらも「先験的」という訳語になっているだけなのかもしれませんね。 (いやでも、「経験的世界を越えつつ、その成立の可能性を条件づける」という事のうち、>「経験的世界を越えつつ・・・・」はTranszendentalのもう一つの訳語の「超越論的」という訳語の方がしっくりきますし、どちらかというと後半の>「(経験世界の)成立の可能性を条件づける・・・」という部分の方が「先験的」という言葉と密接に関係している感じがしますので、「経験的世界を超えつつ」という事から先験的という訳語になったのではないような気もします。) でもまあ、ともかくアプリオリの『先験的』とTranszendentalの【先験的】は、やはりニュアンスがかなり違うみたいですね。 とても勉強になりました。いろいろどうもありがとうございました。
>「経験に先行して経験によらず解明する」ということであり >つまり、かたや探究の方法 といのはカントで言えば理性批判、フッサールで言えば現象学的還元といった先験的方法を指していると思われます。 問題はこの先験的方法の先験的という意味ですが、これは経験的世界を越えつつ、その成立の可能性を条件づけるという性格を指すのだと思うのですが如何でしょうか?
お礼
richlandさん、はじめまして。素人が独学で勉強しているので、疑問を誰かにきくことができずに困っておりました。お答えいただき、どうもありがとうございます。
補足
>経験的世界を越えつつ、その成立の可能性を条件づける なるほど、Transzendentalの方はどうもそんな感じみたいですね。 もう一方のアプリオリの方は、どうなんでしょうか? やはり同音異義語なんでしょうか?
お礼
こうやって質問することは、答えを聞くことはもちろん、質問を書くこと自体でも、相当勉強になっていいですね。重ねて御礼申し上げます。どうもありがとうございました。
補足
>後者のほうです 後者といいますと、つまり、 「先験的方法」すなわち「権利問題として理性、認識の範囲と可能性を定める、というような事」 という風に、両者がすなわちの関係である、という事であり、だとすると 「広く言えば活動一般から身をひきはなし、それを「超越」したところに考察の視点を設定する」 という事が超越論的方法で、その方法によって 「理性、認識の範囲と可能性を定めた」 という風に両者が別々であるわけ「ではない」のですね。 だとすると私の理解とはちょっと違いました。まあ、私はカントというより、一般的な言葉遣いとして先験的、超越論的、という言葉を考えていたので、そこの差かもしれません。もしくは「権利問題として」という私の言葉遣いが問題かもしれません。