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「アプリオリな認識」の実例
カントが、経験に依存しないアプリオリな認識の実例として挙げているのは、 「時間」「空間」「因果律」などですよね。 しかし、私には、過去から未来へ連続的に流れる時間が実在するという認識も、 3次元的な連続的な空間が実在するという認識も、 ある結果はある原因から生起しているという因果律が存在するという認識も、 全て経験から派生してきたもののように思えてしまいます。 例えばもし、人間が今の世界とは違う、空間が頻繁にところどころ虫食いのよう欠けたり収縮膨大したりするような世界に生まれたり、安定した物理法則がない世界(斉一性の原理が成立たないような世界)などに生まれたら、その世界を経験後、世界をそのようなものとして認識するのではないでしょうか? 「点と点の最短は直線である」という命題が真であるという直感による認識も、 私たちがそのようなに、空間を解釈したほうが生存上有利であるということを経験上学んだにすぎないのではないでしょうか?実際はわれわれの住む空間は平坦ではないのに。 カントのいうアプリオリな認識って、現在ではどのように解釈されているのでしょうか? 感覚器官から入力された情報(光、音、匂い、温度、力)を処理したり記憶したりするための、生まれながら(先験的)に備えている能力のことでしょうか?
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アプリオリというのは先天的つまり経験する前を言います。 ここでカントが言おうとしたのは大きく分けて2パターンですね。 まず認識する前の外界そのものと主感的に認識する認識の材料ですね。 まず外界をアプリオリではないというのは難しいと思います。確かに認識して初めて外界は主観に現れてきますが、その前にその外界は存在していいたと考えるのが自然だと考えられます。そいういみでアプリオリという意味です。 もう一つは先天的な主観の認識の要素となるコレクションのことを言います。多分質問者さんはここでこれは経験ではないかという疑問をもたれたのだと思いますが多分時間空間因果律の認識を認識できない人というのは普通の人ではいないと思います、ならばある種元々主観の要素(枠組み)として存在していたものであるという事が前提にならないでしょうか?主観は空間は認識できます。また変化(時間)も認識できます、またそれを構成する要素も主観というある種因果的な関係でなり立っているのだろうと思います。そうなればある種先天的であると言えると思います。心理学でいうと普遍的無意識の概念がこれにあたると思います。
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- qsxdrfvgyh
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なかなか鋭い返しですね。 >「二重否定は肯定である」という原則は、排中律と同値ですよね? 厳密には違うのかな? 厳密には違います。説明は省略します。そして、結論だけ書きます。 >カントのいうアプリオリな認識って、現在ではどのように解釈されているのでしょうか? 「カントとその流れを汲む人達の言語観で考察すれば」という限定付きと受け取りましたので、No.5のように「論理が例示できるでしょう」と回答したわけです。 では、その限定を外して「一般的にアプリオリな認識の実例はありますか」となると、「ないと思いますよ」と回答せざるを得ません。 「経験からは独立した」とか「経験によって反証されない」ようなアプリオリな認識なんて、あるはずがないのです。ただ、それをカントはあると考えた。その主張に一番合致した例は「論理」だろうと解釈できる。しかし、カントを離れると、それは結局誤った思い込みに過ぎないということです。行き成り、一般化してはいけません。
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詳しいご説明ありがとうございました。 皆様のおかげで、無事、考えがまとまりました。
- qsxdrfvgyh
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ア・プリオリとは、辞書的には、カント及び新カント学派の用法で「経験に基づかない、経験に(時間的にも論理的にも)先立つ認識や概念」とあり、ウィッキなどでは、「(経験を通じて知られてもよいが)経験によって反証されない」という性質と定義されているようです。 発見したとしても、経験からは独立した概念と言えるもの なかなかの難問ですが、一例としては、「二重否定は肯定であるということ」 そして、「論理」こそア・プリオリの代表例と考えられています。 ですから、ア・プリオリな認識の実例は、 「眩しくないことは、ない」は、「眩しい」と言うことだと気付く感覚かなと思うのですが・・・。聴く前から、決まっていて、変更不能の性質だと言えると思います。
お礼
「二重否定は肯定である」という原則は、排中律と同値ですよね? 厳密には違うのかな? 矛盾律、排中律については、先験的なのかよくわからなくなりますね。 場合によっては、矛盾律や排中律に反することも思考しますから。 まぁ、でも、体系やTPOに合わせて矛盾律や排中律に基づいて思考することもできますから、できるということは先験的にそのような認識の枠組みを備えているということもできるのでしょうか。 しかし、矛盾律や排中律が、「経験によって反証されない」とは限らないですし、主観と独立した外界で常にその論理が成り立つということは知ることはできないですから、外界にアプリオリに存在するということは間違いですよね。
貴方のご質問を拝読して直感的に思ったのは現在脳科学の方で盛んに言われるクオリアのことではないかということです。どのような神経活動にも経験によって発達してくる部分があることは確かだと思います。私はカントのことは何も知らない者ですが、木下清一郎さんの「心の起源」中公新書は参考になると思います。クオリアに関しては多数の本が出ていますが、根本的に考えるためにはあまり役に立たないものも多いと思っています。
- nisekant
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原因の推論──見えない糸を見つける 人は原因を見つけることに熱心な性質をもっている。カントはこの性向を我々の基本的なカテゴリー──つまり我々には捨てさることのできない思考パターン──の一つと呼んでいる。我々が原因を探さずにはいられない進化上の理由は十分にある。原因は、世界がどのように動いているかを理解する手助けになるからである。しかし、我々の原因についての思考は、幾つかの下位構成要素からなっているということを論じてみよう。原因と結果の理解については、四つの異なった思考のプロセスを区別することにする。 (a)自分の行動の物理的な結果を予測することができる (b)他者の行動の結果を予測することができる (c)他者の行動の原因を理解する (d)物理的な出来事の原因を理解する この順序は私の信じるところでは進化の過程で現れる順序である。多くの動物種は、少なくとも多種類の行動に対して、(a)のレベルは達成できる。この能力がなければ、勿論、内面世界があっても意味がない。自分の行動のありうる結果を予測できなければ、何の計画も立てられないからである。(b)のレベルは他者と協力するにも他者を欺くにも同様に必要である。(c)のレベルをこなす一つの方法は、他者の行動を駆り立てる意図を特定することである。レベル(d)は原因の推論の典型的なケースのようで、人間以外の動物には驚くほど困難なようである。しかしながら、他の動物が様々な種類の因果関係にどう対処するかについて手に入るデータは乏しく、この分野のより多くの調査研究が必要である。 対照的に人は原因と結果の四つ全てのレベルを容易にこなすことができる。霊長類学者で児童心理学者ディヴィット?プレマックによると、非常に小さな子供でも、「自然の」物理的な力が原因である結果と、「恣意的な」力が原因である結果とを区別する能力を備えているという。後者は動物や人間が原因となっている行動や出来事からなるものである。プレマックはこの二つのタイプの因果関係を認識する際に脳の異なった神経系が関わっていると示唆している。彼の発見は(c)と(d)のレベルを区別する論拠にもなっている。 チンパンジーはいろいろな道具を使う。が、物理のメカニズムを理解してることにはならない。彼等は自分達の行為のあるものについては結果を表象できる、というだけだ{つまりレベル(a)}。物理原理を理解するということは異なった結果の原因について推論できるということだ。 霊長類学者エリザベッタ?ヴィザルベルギとダニエル?ポヴィネリらは、猿と霊長類は単純な物理的原因すら理解できないということを、殆ど例外なく示す一連の実験を行なってきた。ある実験では、真ん中にトラップのある透明のチューブの中にピーナッツが置かれた。ヴィザルベルギのオマキザルの被験者には、チューブの中にあるピーナッツを押し出すのに使えるような棒が与えられていた。その猿達はすでに通常の透明チューブからはピーナッツを出すことができていた。しかし、トラップのあるチューブでは、棒はチューブのピーナッツから一番遠い側の口から入れねばならなかった。そうしないとピーナッツはトラップに入ってしまい、取れなくなってしまう。140回の試行のうち、ある一頭の猿が問題の解決策を見いだした。それ以外のものはどちらかというとデタラメに試みるばかりだった。その猿達は、ピーナッツを押しやると何か(重力)がそれをトラップに落としてしまうことが理解できないようである。 ジェイムズ?ローとダニエル?ポヴィネリは同じチューブの問題を四頭のチンパンジーに課した。そのうちの一頭、ミーガンは問題を解くことができるようになったが、残りの三頭はやはりデタラメに試みていた。ミーガンが起こっていることを本当に理解しているのか、それともただピーナッツから一番離れたところから棒を入れることを習得したいだけなのかをテストするために、少し変形させた実験を行なった。トラップを上に向けてピーナッツが落ちる恐れがないようにしたのである。しかし、ミーガンは依然として一番離れたところから棒を入れていた。褒美を得るための法則は機械的に習得していたが、その根底にある物理メカニズムは全く理解していなかったのである。 また別の例はサバンナモンキーのものである。その猿達は錦蛇や豹を見つけると警戒の叫び声を発する。彼等が近くに捕食者がいるというサインを解釈しているか(つまり、捕食者のなした結果から原因を推論できるか)をテストするために、ドロシー?チェイニーとロバート?サイファースは、一群のサバンナモンキーに対して、砂の中に偽の錦蛇の通った跡を作った。しかし、錦蛇がその猿達にとって危険な存在であるにも関わらずこれには反応しなかった。あるグループのサバンナモンキーは、本物の錦蛇の通った跡に反応せずに通り過ぎ、錦蛇に出くわしパニックになったことがある。また実験者がレイヨンの死骸を木に吊しておいても反応はなかった。これは近くに豹がいるサインなのにである。簡潔に言えば、これらの実験と観察が示しているのは、猿や類人猿は結果から物理的な原因を推論することはできないということである。 心理学者ヴォルフガング?ケーラーは、既に1910年代にチンパンジーの計画能力についての一連の実験を行なっている。彼は大きな檻の天井からバナナを吊し、檻に幾つか木箱を置いた。数頭のチンパンジーはうまく箱を積み重ねて、その上に登り、バナナを取ることができた。これらの古典的な実験は、類人猿も計画能力があり問題解決への「洞察」をもつことができるという仮説するものとして取り上げられてきた。ポヴィネリが指摘するところでは、ケーラーのチンパンジーは実はそれほどうまくやれているわけではない。例え一頭の類人猿が箱を積み重ねるという問題を解釈することができたとしても、この偉業を繰り返せないことがしばしばなのである。彼等は、箱の上に別の箱を載せるということ自体うまくできないし、自分達の乗っている箱を引き外してしまい、チンパンジーもろとも崩れ落ちるといった奇妙な過ちを犯してしまうのだ。
- nisekant
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私の勘違いでしょうか? カントは、時間を「認識」ではなく、「認識の形式」と述べていると思いますよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど。アプリオリとは、後者の認識枠組みのことだけに用いられる用語だと思っていましたが、2パターンのことについて用いられているのですね。 前者の「認識する前の外界」についてですが、 確かに、経験を生み出すもの(認識を触発するもの)が、経験主体(認識主体)とは独立に(先立って)存在していることは、私も信じてます。(これは、カントのいう「物自体」というやつですか?) 後者の「主観の認識する認識の材料」(認識枠組み)についても、存在すると、私も思います。 しかし、純粋理性批判(日本語訳)を読んでいると、どうもカントは、絶対的時間・絶対的空間・ユークリッド時空・因果律の存在さえも、先験的に我々に備わっており、その存在を否定できないように我々は作られているという風に書いているように、私には読めたので、それは違うだろ!と私は思ったわけです。カントのせいで相対性理論や量子力学の理解が広まるのが遅れたと主張する人もいたので、偉大な哲学者カントも、その部分では勘違いしてたのかなぁと思ったわけです。 普遍的無意識についてはよく知らないですが、なるほど、主観の認識の材料(認識枠組み)とほとんど同一のものを指しているのですね。生まれながら備えている、顔の輪郭の認識能力や、母親の認知能力とかそうですかね。普遍文法(生得文法)や、思考の原則(同一律、矛盾律、排中律)や、長期/短期記憶操作能力(書込、読取)、概念操作能力、観念(脳科学でいうクオリアの総体)の能力も「認識能力」の必要条件ですから、アプリオリな認識枠組みに含まれるのでしょうか。で、それらのアプリオリな認識枠組みを物質的に還元すると、感覚器官・三半規管・脳/神経系もしくは神経細胞などの細胞内シグナル伝達や細胞間シグナル伝達ということでしょうか。さらには、ゲノム(DNA配列その他の全遺伝情報)や生殖細胞の細胞質構成・胎内環境・生殖細胞が脳やその他の器官に分化するまでの環境などは、アプリオリな認識枠組みを形成する源とすることができるでしょうか。