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点と空間
空間は点で構成されているでしょうか?
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- kobarero
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>実際私が今経験しているこの空間というのは当然概念ではありませんよね。 仮に、「今経験している」と言うところまでは概念ではないと仮定したとしても、「この空間」と付け加えた段階で、概念化された経験に変わっていると思います。我々は、「概念」の働きを借りずに「物事」を「物事」として経験することはできません。例えば、「リンゴ」という概念の働きを借りずに目の前のリンゴをリンゴとして経験できないのと同様に、「空間」という概念の働きを借りずに「この空間」を経験することはできないと思います。 >なにしろまずこの空間と言うものが無ければ飛ぶ矢も直感できませんからね。数学や物理学のせかいではマンガでしょうけど。 「この空間いうもの」は概念です。また、三角形は概念ですが、当然、直感できる対象です。同様に、「この空間」も概念ですが、直感できます。ただし、それは、やはりマンガだと思います。例えば、「矢が飛ぶ」という現象を「矢の位置が時間の経過と共に変化している」というように認識しているとすれば、それは、”ものすごく”概念です。 もし、概念の働きを借りない直感というものがあるとすれば(ないような気はしますが)、そこには、「今」感覚と「記憶内容」しかないのではないでしょうか?
- into_the_night
- ベストアンサー率100% (1/1)
#8です。 >ただ私は直観主義の方を支持していますので完結した無限を想像することは出来ません。 直観主義というのはふつう、数学基礎論(証明論)における立場をいいます(平凡社「世界大百科事典」「直観主義」参照)。 そして、カントールの証明方法(無限を完結したものとして扱うこと)に同意できないことと、その証明からえられる結果(点を無限個集めても線にはならないということ)に同意できないこととはまったく別問題です。 ともあれ、ここは議論をする場所ではありません。 この件に関して議論の相手をおさがしなら、日本科学哲学会か、あるいは科学基礎論学会にご入会することをおすすめします。 年会費6千円ないし1万円で、日本数学会とは異なり、会員による推薦は不要です。
お礼
よく私の文章を読まれたら如何でしょう。 私は同意ではなく、想像できないと申しているのです。
補足
ずいぶんとご立派なことで。
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
あらら、お礼がありましたね。 まだ、補足のURLも見ていないのですが・・・ ヘレンケラーもいいですけど、 例えば、石には、時間も空間もありませんよね。 で、植物はどうだろう、空間は恐らくないだろうが、 時間はあるかもしれない、発芽や開花の時期があるし、 ある種の食虫植物は、おしべかめべか忘れましたが、 刺激が二回あると花弁を素早く閉じるそうです。 私は此方の方が面白いような気がしますが、質問とかけ離れてしまいました。 私はこの質問自体にはご回答を差し上げましたので、このへんで失礼します。 後で、参考URLは読んで見ますね、勉強になりました。
お礼
どうもくだらない質問にお付き合いいただき誠にありがとうございました。
補足
どうもご回答ありがとうございます。 結局他者の空間などは把握できないと言いたかったもので。 植物のことも同様に分かりません。 どうもありがとうございました。
- kobarero
- ベストアンサー率29% (106/361)
空間も点も、「実際に存在している世界」を構成しているわけではなく、「実際に存在している世界」を説明するための「概念」、すなわち、「マンガ」だと思います。飛ぶ矢の議論も、マンガの空間内をマンガの矢が飛ぶ話をしているのだと思います。「実際に存在している世界」の矢は、時空間の外にあると思います。
お礼
どうもくだらない質問にお付き合いいただき誠にありがとうございました。
補足
仰る空間は抽象的な空間という意味だと思いますが、実際私が今経験しているこの空間というのは当然概念ではありませんよね。 なにしろまずこの空間と言うものが無ければ飛ぶ矢も直感できませんからね。 数学や物理学のせかいではマンガでしょうけど。
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
本当に面白いですね。 それに勉強になる。 補足は、運動ではなく運動の痕跡を議論してるのではないですか? ラッセル先生もゲーテルが出てからぼろくそかも? あっそれとゲシュタルト 点滅する光がその速度の変化の中で、点滅が運動に替わるそうです。 これは感覚の事ですけど、その辺り、ゲシュタルトは、部分の総和ではない「何か」らしいです、まぁ素人の私にはサッパリ解りません。
お礼
ところでヘレンケラーの空間と言うのは如何なるものなんでしょうね。
補足
>補足は、運動ではなく運動の痕跡を議論してるのではないですか? さらにこう続きます。 村上 しかし、お言葉を返すようですが、実はその小刻みルックの方が影だとすれば、あくまでもそれは飛躍じゃなくて、われわれは矢が飛んだことを知っているわけです。ここからここへ飛んだことを知っています。あるいは、ある天体がある軌跡を描いて別の場所へ移ったことを知っています。それを解析するために、いわば小刻みルックである時刻点における、今おっしゃったように t_1 に対して S_1 を与え、それから t_2 に対して S_2 を与えて t_1 から t_2 へのプロセスを飛躍として描写しますが、両端があるのは何故かというと、むしろまず幅があるプロセスがあったからこそ両端があるという前提に立つかぎり、それは飛躍ではなくて、まさにびっしり詰まったものの両端を単に表現したにすぎないんじゃないでしょうか。 大森 それは非常に科学に対して好意的な御意見で、苦し紛れの息が楽になるかもしれません。結局小刻みルックは、今おっしゃった中にもありますが、要するに一つのプロセスあるいは運動の軌跡を描いているんですね。軌跡的な影なんです。この点はベルグソンが的確に指摘したことですね。すでに済んでしまった運動ですね。運動の最中じゃない。これは確かなんです。 http://www.geocities.jp/tetugakuto/gunn/mura-oo-taidan.html
出題者は何も時間には触れていない。しかし前のANo.19の回答者が「空間について云う場合、時間の観点が抜けては話にならない」・・・とのご指摘でしたので一応補足します。 人類の殆どは地球から離れて暮らせませんから、言わば「籠の鳥」と同様の状態の視点で良い。だから鳥籠の話に譬えて点と線の概念を説いた。其れを笑うのは勝手だが、時は時空と一体であり、其れを線分で区切って時間を捕らえて来た。 事実、古来、聖堂でも御堂でも洋の東西を問わず点と線に時間を重ねて宇宙観を設定して来ました。しかし現代では時間を過去から未来に一方通行で直線的に進むものと誤解して、其れを更に数値化したのが正確であると錯誤している。 だが抽象的な数字で正確に表しても、方位から遊離した時間は架空の、観念上の時間でしかない。つまりバーチャル空間や時間であって事実ではないために現実の暮らしに役に立たない。 従って此の様な数字式のデジタル文明のパソコン文明だけが進化の証しと錯誤した方々がバーチャル空間に遊ぶ内に今の危機を迎えてしまった。
お礼
どうもくだらない質問にお付き合いいただき誠にありがとうございました。
補足
どうもご回答ありがとうございました。
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
面白い事遣ってますね(笑。 ご質問への回答は、違う。 いわゆるベルクソンの云う偽りの問題ということですよね。 空間について云う場合、時間の観点が抜けては話にならないですね。 以下いい加減な想像ですが、 空間は時間で構成されている。 持続の中で変化しないのが空間で、変化が起きれば運動と感覚的に捉えられます。 また、無限の分解は、コペンハーゲン解釈を流用して、 点は観察によって存在すると感覚的に捉えれば、厄介な無限の問題から解放されませんか。
お礼
ラッセル先生がこんなこと申しております。 連続が存在することに反対する議論は、それが無限数に関して考えられている色々の困難に基づいている限り、積極的ム言論ーーによって処理されてきた。しかし、ある感じーー飛んでいる矢は静止しているのである、という議論をゼノンにさせるにいたったあの感じであるーーがぬぐいきれずに残って、点や瞬間は、たとえその数が無限であっても、断続的な動き、つまり、たくさんの静止の継起的運動を与えるだけで、感覚によって私たちがなじみぶかくなっているスムーズな移行をあたえることはできないのでなないか、という示唆を与える。私の信ずるところによると、この感じは、数学に現れる断続的系列の性質を想像豊かに、また抽象的に理解することが出来ない、と言う理由にもとづいている。ある理論が論理的に理解されてしまったあとでも、それを感じるとるためには、しばしば、ながながしい、まじめな努力が依然として必要である。 ベルグソンもカントもぼろくそです(笑い)。
補足
大森庄蔵×村上陽一郎の対談からの抜粋です。 大森 二つあるんです。一つはさっき言ったように自然科学の小刻みルックの基本になるある時刻点における世界、あるいは世界の一部、それの状態という概念が必要なわけですね。これがどうも疑わしい。これ第一の困難です。 第二の困難は、それはまあよろしいとしても、今度はその小刻み時点を t_1, t_2 とやっていきますと、t_1 での状態 S_1 から t_2 の状態 S_2 へ行く。一般に t_n の S_n へ移っていくとして了解するわけですね、一つのプロセスは。ところが、そのあいだ (S_i から S_{i+1}) は完全な飛躍なんですね、この考え方は。ですから、自然は飛躍せずじゃなしに、変化するプロセスを考えるときには完全な飛躍のつながりで考えているわけです。この飛躍の困難。自然は飛躍せずじゃなしに自然はまさに飛躍しっ放しなんですね。しかし、これが論理的に可能であることは、クァンタム・ジャンプですね。量子力学で一つのエレクトロンがある状態からある状態へ行く事例があることから言えましょう。これが今度はバッターのバットを振るときの状態、矢が飛ぶときの状態もジャンプしているということになる。われわれ自身の生き方もまたジャンプしている。そういうふうに考えざるをえないわけです。この小刻みルックは。一面から言うとこれは、すべての変化の映画フィルム的分解、走馬灯分解です。静止から静止への飛躍の合成としての運動の考えです。それが私にはどうも不安なんですね。いいんだろうか、つまり可能なんだろうかと。
空間が無数の点で構成されていると思えば錯誤する。 現代人は直線主義の四角頭で全て直線的に正しく判断しようと求める傾向が強いが無理がある。しかも数字と言う人類だけにしか通用しない抽象的な概念で万事を推し量って其れを自然科学とか哲学と思っています。 しかし此の世の実体は直線は少なくて地球も宇宙も円形であって、しかも動いている。四角頭の現代人もまた流動的である。にも関わらず固定的に捉えようとしている。此処にも無理があり、其れでも自然を科学的に見ていると錯覚しています。 ですから例えば真四角の鳥かごに小鳥が入って外界を見ているのと同じである。それが実は現実的な哲学であって、架空の論理は不毛である。 鳥かごが竹籠で縦横各々90本の竹軸で組んだものとするなら、四周で360本の線が出来る。更に上下(天地)も加える。 そうすれば宇宙空間を全周360度で割り切る事になる。以上が線の概念である。次は点である。小鳥が中心にいてしかも両眼の中心で竹軸に焦点を合わせた場合に、小鳥の目と竹軸、即ち人間界の思慮の範囲が一元化する。この時の小鳥の目が定点であり、其れ以上に無数の点を考慮すれば堂々巡りの不毛の論議になる。
お礼
どうもくだらない質問にお付き合いいただき誠にありがとうございました。
補足
ほんとですね。 貴重なご意見ありがとうございました。
#16ですが 直線も空間の一種です。 一次元空間=直線 二次元空間=平面 三次元空間=立体が存在する空間 どの場合においても、複数の点が存在するためには、 まず予め、それらの点を識別する座標値(空間)が必要です。 (直線の場合は、基点からの距離が座標値になります。)
お礼
それと誤解があったかもしれませんが、 >抽象的な空間そのものを問題にした立場ですよね というのはそれを否定した意味ではありませんでした。
補足
そんなこと問題にしていないのが分かりませんか? 定義を問題にしているのではなく感覚を問題にしているわけですよ。 だから数学ではなく哲学カテに質問しているんじゃないですか。
#2ですが、 >抽象的な空間そのものを問題にした立場ですよね とのご指摘ですが、 そもそも『点』自体が、この世に実在しない抽象的存在では? しかし、もともと、あなたの問いかけ自体が矛盾を孕んでいるのではないでしょうか。すなわち、世界に点がたった一つしか存在しなければ、空間を構成しようがないですが、しかし、複数の点が世界に存在するとすれば、その点の差別認識は、どのように成されるか? それらの点の差別化は、それらの点の空間上の位置(座標値)によってしかなされないはずです。 つまり、あらかじめ空間が存在しなければ、複数の点は存在すら出来ないということになります。 結局、空間と点との相互関係は、一方が他方によって構成されるというようなものではなく、同時存在的なものではないでしょうか。 物理学において、物質と空間が同時存在的であるように。
お礼
インチキな質問、というのが正解のようですね、ただ無限が矛盾を持っていた時代、の哲学からの立場での無限につて知りたかったのです。 哲学カテに質問したのはそのためで、ゼノンやアリストテレス、ベルグソンなどが出てくるかと思いましたが空振りでした。
補足
幾何学では直線は無限の点で構成されているんではなかったでしたっけ?
お礼
直感は直観の誤字ですが、もう説明するのも馬鹿馬鹿しいので、こちらを参考にしてくださいよ。 http://www.geocities.jp/hgonzaemon/transcendential-element.html