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無神論者はダメですか??
私は哲学を専攻いるわけでもないので、 言葉の意味などが若干違うかも知れませんのでご容赦ください。 私は某宗教団体Sの2世です。 最近、会合などに誘われるのですが、 正直、私のガチガチに固まった無神論の考えでは、 宗教を全面的に受けいれるのは不可能です。 否定はしませんし、 精神修行においてはいいものだと思います。 実際、幸せになったと言う人の話もよく聞きます。 マスメディアやここのサイトで批判されているような ことを目にしても、真相は大体わかります(たぶん)。 しかし、原理主義という考えには賛成しがたいです。 どうしても所詮宗教だからと割り切ってしまいます。 (自分の考えでは、科学で証明できないものはオカルトと承認されても現段階では仕方ないなと思っています。 科学も一つの思想であることは承知していますが。) いっそうの事、自分で宗教を定義してやろうかという勢いです。 ↑宗教というよりも生き方・考え方かな? 私が、 一番辛いことは、自分が勧誘するほうにまわることです。 (特に選挙) けれど、 辞めたいなんて言ったら、家族をはじめ、 周りの人から批判されるので言えません。 書き込んでいるような内容の考えを持っていることすら言えません。 (私は大人しくて弱々しい人間ですので) こんな冷めた人間が、このままやっていけるか心配で、 悩みの種になっております。 ご意見ください。 ただし、Sの批判はいりません。 注) 私は決してひねくれ者ではありません。(たぶん) 人への思いやりやモラルなどは持ち続けたいと思っています。
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- ttt_background
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私も宗教は個々の価値観(生き方・考え方)であると考えています。個々の価値観に名前が無いように、本来は宗教それぞれにも名前など教則など無くていいと思っています。 だから、RE-CONFIRMさんがある程度経済的に自立できたら"逃げ出しましょう"。価値観の凝り固まった人たちと付き合っていても何も得るものはありません。役に立つとしたら反面教師として見習わないことくらいでしょうか。 逃げることは悪いことではありません。あなたの将来の子供に同じ道を歩ませたくないのなら、彼らの手の届かないところに逃げましょう。
- HANANOKEIJ
- ベストアンサー率32% (578/1805)
こんにちは、RE-CONFIRMさん。日本国憲法と教育基本法、こどもの権利条約を購入して、繰り返し学習してください。宗教のことは、よく知りません。それでも、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、真言宗、天台宗、曹洞宗などの名前が自然にでてきます。新興宗教では、オーム真理教、統一原理の統一協会、韓国のなんとか教団、まあ、やおよろず、八百万の神々が、あの手この手で人をだまして、何をしているのか。科学技術者は、普通は、無神論ですよ。創造論、創造説を必要としません。生成、変化(発展)、消滅を繰り返す、物質の自己運動が、物質の存在のしかただからです。書物で、勉強するのでしたら、清水書院センチュリーブックス(人と思想)に、国内、海外の思想家、宗教家の伝記が出版されています。なにごとも、原点にたちもどって、出発点の思想家、宗教家の人となりを知ることが大切ではないでしょうか。日本には、神道もありました。
> 一番辛いことは、自分が勧誘するほうにまわることです(特に選挙) 私は某宗教団体Sの宗教勧誘活動についてあまり詳しくないので 選挙の勧誘活動の辛さがよく分かっていません。 選挙の勧誘活動が会員活動の一環であるのは分かりますが 私には選挙活動は信仰上の重要な問題に見えません。 例えばあるメーカーに勤める営業スタッフが抱える ●自社の製品をあまり優れているとは思えない でもこの製品を売りたくないなんて言うと 上司や社内の人から批判されるので言えない といった問題とどう違うのでしょう? 何でこんな疑問を持ったかと言いますと RE-CONFIRMさんのお悩みは ●某宗教団体Sの2世 ならでは悩みというよりは、誰もがぶつかる普遍的な悩みに見えたからです。 つまり「自立」とか「自己の確立」とか あるいはRE-CONFIRMさんが仰っている「個々の生き方」の問題ではないでしょうか? > いっそうの事、自分で宗教を定義してやろうかという勢いです。 > ↑宗教というよりも生き方・考え方かな? 多分「某宗教団体Sの2世」といった環境下にいない 特定の宗教を持たない人たちの方が 生き方・考え方を日々真剣に試行錯誤し > 所詮宗教だからと割り切ってしまいます。 所詮○○だからと割り切らずにきちんと悩み抜くように思います。 > 私は大人しくて弱々しい人間ですので > こんな冷めた人間が > 私は決してひねくれ者ではありません などとエクスキューズばかり並べずに 自分の問題として自己の責任において きちんと悩み、決断していくべきことだと思います。 悩んだ結果、付和雷同しようがダメ信者を演じようが 私はあなたの決断を支持したいと思います。
嫌なら止めるべきです。 家族から縁を切られようが、自分のことは自分で決める。これが大事なことです。 そして、自立することです。親がどうだから自分もS信者というのは、情けないです。 自分のことは自分で決める。これが出来ないようでは、今後の人生も後悔するものになってしまうと思います。
やれるだけやってみてはどうでしょうか? 人間、ストレス、疲労の限界がきたら、できなくなってしまうものですし、ふっきれますよ。もし、そうならないと、体に支障がきたすと思います。体に支障をきたしたら、良い宗教とは言えないような気もしますが。まあ、それはいいとして。 冷めているなら、だんだんとそれから遠ざかる人生を選択していくのではないでしょうか? 「大人しくて弱々しい人間」とあり、それを変えたいと思っているのでしょうか?もし、そうなら、強い人間になるための方法を探してみてはどうでしょうか? 辛いことに耐えやり続けた結果、後々良い結果になることがあります。また、辛いことをしても報われないこともあります。 辛いことを避けて通れないのなら、前述の方が良いですよね。それを見極めることが一番大事なのではないかと思います。 以上、参考になれば幸いです。
- reikasuzu
- ベストアンサー率30% (4/13)
私の祖母もS信者で、幼少期からよく会合に連れて行かされましたが、あの雰囲気は好きになれませんでした。幸い私は親がSから距離をとっていたので、そんなに縛りはきつくなかったですが、re-confirmさんは大変だろうなと思います。 そこで、思想的には非宗教を堅持しつつ、現実的にはダメ信者になる、というのはどうでしょう。 僕の祖父は借金のカタにSに強制入会させられましたww一切の信仰は持っていなかったと思いますが、まあ浮世の義理的な感じで、そこそこに付き合い、後は徹底的にダメ信者をやっていました(題目の時間は完全に昼寝の時間でした。祖父は座りながら、ほにゃほにゃいいつつ、居眠りするという技を完璧にマスターしていました。折伏しにいく、といっては、世間話をして油を売っていました。はなからする気がない)。 表立って反対すると、宗教戦争が家庭内で勃発することになるので、大変ですから。 キリスト教でも、神父の堕落はつきものでした。お昼間は神を信じなさいと説教し、夜、告白しに来た若い娘をかどわかし、恋愛を楽しむ、と。(神様を信じていないので、罰も信じてない) 人への思いやりをもつとなると、相手の信条を否定するのは可愛そうです。かといって、自分の信条も否定するのも、自分がかわいそうです。 だから、堕落した神父よろしく、フレキシブルに柔軟性をもって人生を楽しまないといけないと思います。
私はどこの宗教にも属さず、そして神を信じるものです。科学も哲学も特に勉強したこともありません。一般人として誰もが思う素朴な疑問から自分なりに、この世というものを考え続けています。神を信じると書きましたが、この数年のうちに思うようになったもので以前は神様などはいないと考えていました。どのようにして神を信じるようになったのか。この世はたった一つの原理により稼動しているのだと考えます。宗教も、科学も、あらゆる学問も、そしてあらゆる私たちの身近に起きる現実もです。人間は物質文明という物を使い多くの便利なものを作りだしてきました。そして相反する多くの不便も同時に得ているようです。便利な自動車を作り、それに相反する交通事故と公害を生み出す、というようなことです。物欲を求めるあまりに相反する想いを失ったのでしょう。では人間自体で言えば、生き延びることと子孫を残すために必要な機能という形を求める。その想いが自身の体に積み重なり今の人間という形になる。それが進化なのだと考えます。それは想いが現実として生まれ出る世界です。なんだかあいまいな表現でわかづらいと思います。簡単に言えば物質が生まれ出るプログラム世界に生まれ出た認識の存在と考えます。必要という想いが物質発生のプログラムに乗り必要という想いの量に到達し概念の世界に物質として認識される。というようなことです。そして私たちがこの世に存在しているのなら。必要とする生命を生み出す宇宙も含め必要とする想いが私たちの宇宙の前に存在する。その想いそのものが神だと考えています。すべては同じことの積み重ねの連続です。私たちの体のあらゆる機能と形は人間が生き延びそして子孫を残すために、意識の奥で100パーセントの欲求という想いにより概念の世界に生まれ出て認識される。私たちの手や足やその他のあらゆる形は人間に必要とされる答えを有して存在する。私たち人間も必要をいう答えを得て存在する。無限に続く必要とする想いと必要とされ存在す連続です。それは私が日常の生活の中で感じ取ってきたことです。まったくの素人でうまく表現できず、そして正しいかも間違っているかもわかりません。
- tonarinotororor
- ベストアンサー率20% (1/5)
宗教の存在は、人が幸せになるための物です。 しかし、この世は宗教だらけ、 どの宗教も、仏教以外はそれぞれの神がいて、 それぞれの教義(真理)を説いています。 また現実として、その幸せになるための宗教から戦争が起きて、 たくさんの人々を不幸にしている事実もあります。 一体どれ(宗教)を、信じていったらいいのか。 しかし、人が幸せになるのに宗教は本当に必要なのでしょうか? 人それぞれですが、私はそれなりに宗教を調べ学びましたが、 最後に至る真理の部分は、教義だけでは無理だということが分かりました。 生きて、実生活の中から経験しなければ、 その真理が(悟)分らないことが沢山あります。 どんなに教義を学んでも、実体験のない知識だけでの教義では、 いざと言う時になれば、その人の本性が先に表れてしまうものです。 それは、貴方も見たり経験したりしておられると思います。 本当に必要なのは、生きて様々な経験を通じて、 その人にあったその人の幸せを学ぶことだと思います。 そして、その基本は宗教ではなく、人間の原点に戻ることだと思います。 今まで、自分があたり前だと思っていたことは実はあたり前ではなく、 良いことも悪いことも全て、与えられてきたものだと言うこと。 だから、どんなこと(経験)でも、感謝の心(あり難い)を持って受け止めていけば、 人の幸せを妨げる一番の原因である煩悩も、その人の心に入ってくる隙はなくなります。 煩悩は、己の傲慢の態度から生まれて、心に入り込んでくるものです。 ですから、傲慢にならず、常に感謝できる素直な心を持って、 謙虚な気持ちで毎日を暮して生きていけば、 空に拘らずとも、人はそれだけで幸せになれると思います。 ですから、私は幸せになるのに、宗教の存在は必用と感じてはおりません。 無神論者で幸せになっている人は、この現世の中にもたくさんいると思います。
- les-min
- ベストアンサー率41% (269/644)
こんばんは。。 専門的な知識を持っているわけではないのですが、お邪魔します。 ご質問者さんは、篤実な方なのだろうな、と思いながらご質問文を拝見しておりました。 別段、冷めているようには思えませんでした。ただ、いずれご自身の思想信条を明らかにした上で、これからの身の振り方を意思表示する必要が出てくるだろうな、と思います。 無神論も一つの思想ですし、文面からして、どこかでご家族とぶつからざるを得ないだろうか、と思いました。 まったく個人的な心証なのですが、仏教というのは畢竟、「無神教」なんだ・・・と思っておりまして。それで余計に面白いなーと思っている次第です。えらく宗教らしくない宗教だなと感じています。 批判ではなく、自分の心証の続きですが、宗派にしろ「S」のような団体にしろ、本来方便であるべき教義を宗是として固定化してしまったのだな、と。 各宗の祖師様方のキャラがすさまじく立っているので、ある意味無理ないかも、とも思うのですけど。 無心論者でも問題ないし、冷めているとも思わない。「ひねくれ者」でもない。むしろ好ましい方だな、と感じました。ご質問者さんの「宗教の定義」をお聞きしてみたいと思いつつ・・・ 無責任な立場からの発言ですが、「S」で活動するにしろ、無神論者として生きるにしろ、ご質問者さんは、いつまでも「大人しく弱々しい人間」いたいわけではないと思いますが?ご自身はどうされたいのでしょうか? 少々「悩むことに悩んでいる」ように感じられたもので・・・駄文にて失礼しました。では。